hackerさん
レビュアー:
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「十五歳になるという少年暗号員である。私は莨(タバコ)を深く吸い込みながら、聞いた。 『勝つと思うか?』 『勝つ、と思います』 童話の世界のように、疑いのない表情であった」 (『桜島』より)
ウロボロスさんの書評で、『桜島』という作品のことを知りました。感謝いたします。
梅崎春生(1915-1965)の短篇集『ボロ家の春秋』(1954年)は、ここ数年ツンドク山脈に埋もれたままですが、『桜島』を先に読むことにして、ウロボロスさんが読んだ本とは違いますが、本書を手に取りました。『桜島』(1946年)は短篇なのですが、長篇『狂い凧』(1954年)も収録されており、併せてレビューをしてみます。
●『桜島』
Wikipediaによると、作者は太平洋戦争で徴兵され、鹿児島県で通信兵をしていた時に終戦を迎えました。本作は、その時の体験をベースに書かれたものなのでしょう。村上という名の一人称の主人公は、冒頭では薩摩半島の先端に近い坊津(ボウノツ)で、比較的のんびりした軍隊生活を送っていたのですが、1945年7月に桜島転勤を命じられます。
「その夜、私はアルコールに水を割って、ひとり痛飲した」
話が進んでいくと、桜島には暗号通信部隊の基地があったこと、沖縄が陥落したので、米軍は近々九州に上陸すると一般に思われていたことが分かってきます。ですから、桜島は間違いなく攻撃目標にされるであろうことを、主人公に限らず、その地の兵隊は知っていたのでしょう。ですから、桜島行は死の宣告であったわけです。
本作は、その桜島での生活が中心の話ですが、印象に残るのは、戦争がもたらす人間の心の荒廃と、戦争によるまったく不条理な死です。こんな描写があります。
「坊津にいた時、水上特攻隊員を見たことがある。基地隊を遠く離れた国民学校の前に茶店風のい家があって、その前に縁台を置き、二、三人の特攻隊員が腰かけ、酒を飲んでいた。二十歳前後の若者である。白い絹のマフラーが、変に野暮ったく見えた。皆、皮膚のざらざらした、そして荒んだ表情をしていた。その中の一人は、何か猥雑な調子で流行歌を甲高い声で歌っていた。何か言っては笑い合いその声に、何とも言えないいやな響きがあった。
(これが、特攻隊員か)
丁度、色気付いた田舎の感じだった。わざと帽子を阿弥陀にかぶったり、白いマフラーを伊達者らしく纏えば纏うほど、泥臭く野暮に見えた。遠くから見ている私の方をむいて、『何をみているんだ。此の野郎』
眼を険しくして叫んだ。(中略)
私の胸に湧き上がって来たのは、悲しみとも憤りともつかぬ感情であった。此の気持ちだけは、どうも整理がつきかねた。今なお、いあやな後味を引いて私の胸に残っている。欣然と死に赴くということが、必ずしも透明な心情や環境で行われることでないことは想像は出来たが、しかし眼のあたりに見た此の風景は、何か嫌悪すべき体臭に満ちていた」
おそらく、特攻隊の姿を、こんな風に描写した小説は他にないでしょう。Wikipediaは、作者は「配属された坊津町の特別攻撃隊などについては生涯一切語ることはなかった」と述べていますが、これ以上のことは書けなかったのでしょう。この文章の後は、次のように続きます。
「うなだれて私は帰りながら、美しく生きよう、死ぬ時は悔いない死に方をしよう、その事のみを思いつめていた」
しかし、戦争による死に「悔いない死に方」など、おそらくないのです。主人公は、米機グラマンの来襲の見張り番の兵と時おり話をするようになりますが、その男は、ある日機銃掃射によって即死します。機銃掃射は、偵察を兼ねたグラマンが必ず行うものでしたし、おそらく何回も無傷で切り抜けてきた男が、「悔い」など思う間もなく死んでしまう姿に、主人公は衝撃を受けます。そして、嫌っている上司は、実際の戦場での死をこう話します。
「焼け焦げた野原を、弾丸がひゅんひゅん飛んで来る。その間を縫って前進する。陸戦隊だ。弾丸の音がするたびに、額に突き刺さるような気がする。音の途絶えた隙をねらって、気違いのように走っていく。弾丸がな、ひとつでも当たれば、物すごい勢いで、ぶったおれる。皆前進して、焼け果てた広っぱに独りよ。ひとりで、もがいている。そのうちに、動かなくなり、呼吸をしなくなってしまう。顔は歪んだまま、汚い血潮は、泥と一緒に固まってしまう。日が暮れて、夜が明けて、夕方鴉が何千羽とたかり、肉をつつき散らす。蛆が、また何千匹よ、そのうち夜になって冷たい雨が降り、臂の骨や背骨が白く洗われる。もう何処の誰ともわからない。死骸か何か、判らない。村上兵曹。美しく死にたいか。美しく、死んで行きたいのか」
私の父は左耳の上部がありませんでしたが、それは満州で弾丸が削いでいったものだそうです。2センチずれていたら、即死だったろうと、生前よく言っていました。こういう生死の分かれ目は、まさに不条理そのものです。
本作には、派手な戦場の場面はありません。しかし、抵抗などもうできない戦況であるのを誰もが理解しているはずなのに、誰もそれを言い出せない姿や、会話の端々から滲む心の荒廃ぶりが、戦争に巻き込まれた人間の臆病さと内心をよく表していると思います。
●『狂い凧』
本作は『桜島』が世に出てから、8年後に発表されています。丁度『ゴジラ』第一作が公開された年でもあり、映画での東京の風景を思い出すと、実際以上に戦争から時間が経ったような時期だったのかもしれないと思います。ですから、登場人物に『桜島』のような戦争臨場感は感じられません。物語の進行は「私」と英介という友人が中心となるのですが、二人とも戦争に行った事がなく、大陸で自死したのかもしれない英介の二卵性双生児の弟、城介の足跡をたどるという話から、それは必然なのでしょう。ですから、英介の家族のことが中心で、戦争が中心テーマというわけではありません。『桜島』を読んだ後に、続けて本作を読むと、どうしても物足りなさを感じてしまうのは仕方ないことなのでしょう。しかし、平穏な日常生活の下に、戦争が常に隠れていることを感じさせる内容ではあります。例えば、ラスト近くで、こういう会話があります。
「私はすこし語気を強めた。
『君は誰かが死ぬと、にわかにそれに興味を持ち始めるのだ。そうぼくは思う。肉親の死から、君は精神的な栄養をむさぼり始めるのだ。たとえば死体にたかる鴉のようにさ』
『鴉?』
英介はしゃがれた声で笑い出した」
ここで「死体にたかる」のが「蠅」ではなくて「鴉」であるのは、この拙文で『桜島』から引用した部分と同じ連想、つまり戦場からの連想であることは明らかです。また、「私」がニューギニヤへ行ったという男と交わす次のような会話もあります。
「ニューギニヤ?ひどい戦いだったでしょうな」
「ひどかったねえ。二十四、五万行って、帰ってきたのは七千二百人。戦争なんてもんじゃなかったですよ。一年間は木の根草の根ばかり食べて―(中略)
城介君もきっとその戦死の方に入るね。あっしが生きて帰れたのは、まぐれみたいなもんです」
 
ところで、題名の『狂い凧』ですが、英介の弟のことかと思ってずっと読んでいたのですが、ラストにいたって、どう吹くか分からない戦争という風に翻弄されながら、かろうじて生きている人間たちのことだと分かります。そして「狂い凧」は、己の内で次第に育つ狂気にも気づかないまま、風に流されているのです。
二作とも、激しい戦闘場面や空爆場面はありませんが、戦争が人間に与える影響をジワリと感じさせてくれます。現在では、その地味さゆえに、あまり読まれていないのではないかと思われるのは残念です。
梅崎春生(1915-1965)の短篇集『ボロ家の春秋』(1954年)は、ここ数年ツンドク山脈に埋もれたままですが、『桜島』を先に読むことにして、ウロボロスさんが読んだ本とは違いますが、本書を手に取りました。『桜島』(1946年)は短篇なのですが、長篇『狂い凧』(1954年)も収録されており、併せてレビューをしてみます。
●『桜島』
Wikipediaによると、作者は太平洋戦争で徴兵され、鹿児島県で通信兵をしていた時に終戦を迎えました。本作は、その時の体験をベースに書かれたものなのでしょう。村上という名の一人称の主人公は、冒頭では薩摩半島の先端に近い坊津(ボウノツ)で、比較的のんびりした軍隊生活を送っていたのですが、1945年7月に桜島転勤を命じられます。
「その夜、私はアルコールに水を割って、ひとり痛飲した」
話が進んでいくと、桜島には暗号通信部隊の基地があったこと、沖縄が陥落したので、米軍は近々九州に上陸すると一般に思われていたことが分かってきます。ですから、桜島は間違いなく攻撃目標にされるであろうことを、主人公に限らず、その地の兵隊は知っていたのでしょう。ですから、桜島行は死の宣告であったわけです。
本作は、その桜島での生活が中心の話ですが、印象に残るのは、戦争がもたらす人間の心の荒廃と、戦争によるまったく不条理な死です。こんな描写があります。
「坊津にいた時、水上特攻隊員を見たことがある。基地隊を遠く離れた国民学校の前に茶店風のい家があって、その前に縁台を置き、二、三人の特攻隊員が腰かけ、酒を飲んでいた。二十歳前後の若者である。白い絹のマフラーが、変に野暮ったく見えた。皆、皮膚のざらざらした、そして荒んだ表情をしていた。その中の一人は、何か猥雑な調子で流行歌を甲高い声で歌っていた。何か言っては笑い合いその声に、何とも言えないいやな響きがあった。
(これが、特攻隊員か)
丁度、色気付いた田舎の感じだった。わざと帽子を阿弥陀にかぶったり、白いマフラーを伊達者らしく纏えば纏うほど、泥臭く野暮に見えた。遠くから見ている私の方をむいて、『何をみているんだ。此の野郎』
眼を険しくして叫んだ。(中略)
私の胸に湧き上がって来たのは、悲しみとも憤りともつかぬ感情であった。此の気持ちだけは、どうも整理がつきかねた。今なお、いあやな後味を引いて私の胸に残っている。欣然と死に赴くということが、必ずしも透明な心情や環境で行われることでないことは想像は出来たが、しかし眼のあたりに見た此の風景は、何か嫌悪すべき体臭に満ちていた」
おそらく、特攻隊の姿を、こんな風に描写した小説は他にないでしょう。Wikipediaは、作者は「配属された坊津町の特別攻撃隊などについては生涯一切語ることはなかった」と述べていますが、これ以上のことは書けなかったのでしょう。この文章の後は、次のように続きます。
「うなだれて私は帰りながら、美しく生きよう、死ぬ時は悔いない死に方をしよう、その事のみを思いつめていた」
しかし、戦争による死に「悔いない死に方」など、おそらくないのです。主人公は、米機グラマンの来襲の見張り番の兵と時おり話をするようになりますが、その男は、ある日機銃掃射によって即死します。機銃掃射は、偵察を兼ねたグラマンが必ず行うものでしたし、おそらく何回も無傷で切り抜けてきた男が、「悔い」など思う間もなく死んでしまう姿に、主人公は衝撃を受けます。そして、嫌っている上司は、実際の戦場での死をこう話します。
「焼け焦げた野原を、弾丸がひゅんひゅん飛んで来る。その間を縫って前進する。陸戦隊だ。弾丸の音がするたびに、額に突き刺さるような気がする。音の途絶えた隙をねらって、気違いのように走っていく。弾丸がな、ひとつでも当たれば、物すごい勢いで、ぶったおれる。皆前進して、焼け果てた広っぱに独りよ。ひとりで、もがいている。そのうちに、動かなくなり、呼吸をしなくなってしまう。顔は歪んだまま、汚い血潮は、泥と一緒に固まってしまう。日が暮れて、夜が明けて、夕方鴉が何千羽とたかり、肉をつつき散らす。蛆が、また何千匹よ、そのうち夜になって冷たい雨が降り、臂の骨や背骨が白く洗われる。もう何処の誰ともわからない。死骸か何か、判らない。村上兵曹。美しく死にたいか。美しく、死んで行きたいのか」
私の父は左耳の上部がありませんでしたが、それは満州で弾丸が削いでいったものだそうです。2センチずれていたら、即死だったろうと、生前よく言っていました。こういう生死の分かれ目は、まさに不条理そのものです。
本作には、派手な戦場の場面はありません。しかし、抵抗などもうできない戦況であるのを誰もが理解しているはずなのに、誰もそれを言い出せない姿や、会話の端々から滲む心の荒廃ぶりが、戦争に巻き込まれた人間の臆病さと内心をよく表していると思います。
●『狂い凧』
本作は『桜島』が世に出てから、8年後に発表されています。丁度『ゴジラ』第一作が公開された年でもあり、映画での東京の風景を思い出すと、実際以上に戦争から時間が経ったような時期だったのかもしれないと思います。ですから、登場人物に『桜島』のような戦争臨場感は感じられません。物語の進行は「私」と英介という友人が中心となるのですが、二人とも戦争に行った事がなく、大陸で自死したのかもしれない英介の二卵性双生児の弟、城介の足跡をたどるという話から、それは必然なのでしょう。ですから、英介の家族のことが中心で、戦争が中心テーマというわけではありません。『桜島』を読んだ後に、続けて本作を読むと、どうしても物足りなさを感じてしまうのは仕方ないことなのでしょう。しかし、平穏な日常生活の下に、戦争が常に隠れていることを感じさせる内容ではあります。例えば、ラスト近くで、こういう会話があります。
「私はすこし語気を強めた。
『君は誰かが死ぬと、にわかにそれに興味を持ち始めるのだ。そうぼくは思う。肉親の死から、君は精神的な栄養をむさぼり始めるのだ。たとえば死体にたかる鴉のようにさ』
『鴉?』
英介はしゃがれた声で笑い出した」
ここで「死体にたかる」のが「蠅」ではなくて「鴉」であるのは、この拙文で『桜島』から引用した部分と同じ連想、つまり戦場からの連想であることは明らかです。また、「私」がニューギニヤへ行ったという男と交わす次のような会話もあります。
「ニューギニヤ?ひどい戦いだったでしょうな」
「ひどかったねえ。二十四、五万行って、帰ってきたのは七千二百人。戦争なんてもんじゃなかったですよ。一年間は木の根草の根ばかり食べて―(中略)
城介君もきっとその戦死の方に入るね。あっしが生きて帰れたのは、まぐれみたいなもんです」
ところで、題名の『狂い凧』ですが、英介の弟のことかと思ってずっと読んでいたのですが、ラストにいたって、どう吹くか分からない戦争という風に翻弄されながら、かろうじて生きている人間たちのことだと分かります。そして「狂い凧」は、己の内で次第に育つ狂気にも気づかないまま、風に流されているのです。
二作とも、激しい戦闘場面や空爆場面はありませんが、戦争が人間に与える影響をジワリと感じさせてくれます。現在では、その地味さゆえに、あまり読まれていないのではないかと思われるのは残念です。
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「本職」は、本というより映画です。
本を読んでいても、映画好きの視点から、内容を見ていることが多いようです。
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