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ゆうちゃん
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北イタリアのチロル地方のドイツ語話者の村。ファシスト党の抑圧、ナチスの介入、そしてダム建設と村は、ずっと外圧に翻弄されてきた。それに抗うエーリヒの姿が妻の目を通して語られる。
新進の海外文学に力を入れている新潮クレスト・ブックスからの一冊を手にしてみた。

舞台は南チロル地方のクロン村で、そこはこの小説の時代はイタリア領だったが、第一次世界大戦までは、オーストリア領だった場所で、この南チロル地方の人々はドイツ語話者である。語り手の「わたし」即ちトリーナは恐らく1905年頃の生まれ、話が始まるのは第一次世界大戦後の1923年頃だった。彼女はこの頃に卒業試験を迎える。当時、イタリアではムッソリーニ率いるファシスト党が政権を取った。南チロル地方ではドイツ語が禁止されイタリア語が強制される。ドイツ語話者は役場などからは追い出されたが、言語の問題は村人の大半である農民たちにはあまり関係なさそうに読める。トリーナは、教師になりたくて必死でイタリア語を学んだが、教師に採用されることはなく、非合法に農民の子らにドイツ語を教えた。彼女はエーリヒ・ハウザーと言う村の牧畜業の青年に惹かれていて、やがて結婚する。村人を抑圧するファシスト党の政策を村人は快く思っていなかったが、中には、ドイツ語話者であるが故にこの頃、ドイツで台頭してきたヒトラーに親近感を持つ者もいる。しかし、エーリヒは、ファシスト党はもちろん、ナチスも嫌っていた。エーリヒとトリーナの間に、長男ミヒャエルと、4年後に長女マリカが生まれる。1939年、ファシストに抑圧されたこの村にナチスが入り込み「偉大なる選択」を迫る。ナチスはイタリアで抑圧されているドイツ語話者をドイツに移動させて土地を割り当てるのだと言う。村の世論は二分されたが「この村とどまる」のは少数派だった。マリカはエーリヒやトリーナの家よりは、裕福な保険代理店を営むエーリヒの姉アンナとその夫ローレンツの家を好み、マリカを預けた晩、姉夫婦は彼女を連れて姿を消した。偉大なる選択に従った訳だった。
1940年春、ダム建設の告示が村役場に張り出された。ほぼ同時にイタリアも参戦した。エーリヒはダム建設にも戦争にも嫌な予感を持ったが、村人はそうでもない。戦争騒ぎでダムなど出来っこないというのが大半の意見だったし、実際ダム建設は頓挫した。しかし戦争の方は間もなく召集令状が村に届き始めてエーリヒの懸念が現実化する。エーリヒも応召して2年戦い、足の怪我で戻って来た。それでも、いつ再招集されるかわからない。青年に成長したミヒャエルはヒトラー贔屓で父親には勘当すると脅されてもナチスに志願する気配である。戦況が厳しくなりエーリヒの再招集が濃厚な気配になると、エーリヒとトリーナはチロルの高い山岳地帯に逃げることにした。ミヒャエルは父親を再招集させないためという理由でナチスに志願してしまう。山で終戦まで過ごしたふたりは村に戻った。元の家にはミヒャエルも戻っていた。ミヒャエルは家具職人として働き、エーリヒは再び酪農を始めた。ミヒャエルが家具の得意先の娘と結婚式を挙げた翌日、村に再びダム建設の槌音が響き始めた。エーリヒとアルフレート司祭が中心となって反対運動を繰り広げてゆく。

本書は、「わたし」の娘で、少女時代に義姉夫婦に奪われた長女マリカ宛の書簡体小説となっている。ファシストとナチス、それにダム建設、そしてイタリア語圏の中のドイツ語話者と言う四重苦にあえぐ人たちの苦悩を表した小説に読める。エーリヒは村人の中ではかなり急進的リベラルな人間で、戦争には、不本意な面(地獄に落ちても良いくらいの人を殺した、とトリーナに告白していた)もありながら何とか対処できたように思える。しかしダム建設には、そんな彼が全力を挙げても対処できない手強さがあった。まず村人の無関心。目の前に工事が来なければ何かと理由を付けて自分には関係ないことと考えたがる。それに言語の問題。工事を止めるにはイタリア政府に掛け合う必要があったようだが、ドイツ語話者にはハードルが高い。それを乗り越えて農業大臣や教皇の力を借りてもうまく行かない。止まらない公共事業の問題は日本だけの問題ではなかったようだ。ファシスト党政権ならわからないではないが、戦後のイタリアでもこんな民衆を蔑ろにする政策をしてきたのだろうか。だが戦後すぐの日本でも、探せば似たような事例があるのかもしれない。
日独伊三国同盟と言われるが、実は独伊の間はそれほど緊密ではないようだ。その話はチャーチルの「第二次世界大戦回顧録」にも登場しており、ムッソリーニは当初は英国とドイツを天秤にかけていたような感じだった。結局は枢軸国側として参戦したが、本書の通り、ろくに戦果を挙げなかったのもチャーチルの記述と符合する。マーリオ・リゴーニステルンの「雷鳥の森」も参考になるかもしれない。
本書で疑問に思うのは語り手の性格である。マリカにそれほど思い入れがあるとしても語り手と一緒にいた期間があまりにも短すぎてそれが伝わらない。可愛い盛りだったのかもしれないが。また、飽きっぽく、疲れやすく、優柔不断な性格も語り手には不適格に思える。急死した父親の遺体に泣いてすがる母に「どうして(自分を)呼びに来なかったのか」と言う必要性が感じられない。安直な発言で親友を非合法の学校の先生に誘い込み、彼女は島送りになってしまう。マリカが居なくなったことを同年代の未婚の親友マヤにいつも嘆く。その結果「もう娘さんの話はしないで。私にあなたを慰めることはできない」と言われる。語り手には、マヤに子供がいないことを思いやる気遣いが感じられない。これらの発言は語り手の身勝手な性格を印象付けるだけに感じられる。ダム反対運動も語り手が本気になったのは最後の方で、それまではどちらかというと熱心に運動する夫エーリヒに冷ややかな感じがする。語り手がエーリヒと共に余り熱を入れても、読者はシラけてしまうのかもしれないが、かといって、思い入れできない語り手の語りにも共感し辛い。この辺が語り手の設定の難しさだと思うが、残念ながら自分にはこの語り手はちょっと邪魔に見え、だったら語り手のいない三人称小説の方が良かったように思える。
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ゆうちゃん
ゆうちゃん さん本が好き!1級(書評数:1688 件)

神奈川県に住むサラリーマン(技術者)でしたが24年2月に会社を退職して今は無職です。
読書歴は大学の頃に遡ります。粗筋や感想をメモするようになりましたのはここ10年程ですので、若い頃に読んだ作品を再読した投稿が多いです。元々海外純文学と推理小説、そして海外の歴史小説が自分の好きな分野でした。しかし、最近は、文明論、科学ノンフィクション、音楽などにも興味が広がってきました。投稿するからには評価出来ない作品もきっちりと読もうと心掛けています。どうかよろしくお願い致します。

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