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三太郎さん
三太郎
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17世紀の初めに伊達政宗によって計画された四ツ谷用水路の今昔。四ツ谷の名の由来は、四つの谷を四つの水道橋によって越えて水を仙台市内へ導いたからだとか。
関ケ原の戦いが終わって、伊達政宗が仙台に城下町を建設したとき、市内の住民の生活用水を確保するために作られた水道が四ツ谷用水だった。

仙台の城下町は広瀬川が作った河岸段丘の上に建設されたため、地面が広瀬川の水位よりかなり高く、市中へどうやって水を引くかが課題だった。

そこで広瀬川の上流から水を分けて河岸段丘の高台をほぼ東方向へ水路を延ばして本流とし、この本流から南北方向へ数本の支流を出して、河岸段丘の低い方向、つまり町の中心部へ生活用水を給水した。明治の初めの絵図を見ると繁華街の通りの中央を南北方向に水路が走っているのが分かる。

本流は市内に入ると、大崎八幡神社の南側を通り、現在の北六番丁の通りを東照宮の南側まで流れて、そこで仙台の北から流れる梅田川に放流された。梅田川は仙台平野の水田の農業用水だったが、水量が少なかったため、四ツ谷用水で広瀬川の水を分ける効果もあった。

本流から分かれた支流はさらに細かく分かれて碁盤目状に市の中心部を潤した。この水は地下へ浸透して市内に無数にあった井戸に湧き出し、市民の生活用水になった。

この四ツ谷用水の建設費用には受益者負担の考え方があったらしく、仙台藩が1/3、町民が1/3で残りの1/3は灌漑に利用した農家が負担したという。

こうして江戸時代には市民生活に欠くことができなかった四ツ谷用水も明治時代になると次第に暗渠化されていく。本流は昭和の初めまでは通りの真ん中を流れていて、桜川と呼ばれていたが、1929年からの大恐慌の時代に大規模な土木工事で暗渠化された。直径2mくらいの土管が埋められたらしい。この工事は仙台の失業者対策の意味合いがあったとか。

さらに戦後になって仙台湾周辺の工業用水の不足から、四ツ谷用水は工業用水路として今日まで生き延びたという。

だから四ツ谷用水は仙台市民には長らく忘れられた存在だった。しかし近年、街中に再び地上を流れる用水路を復活させたいという声が市民の間から出てきて、実際に幾つかの計画が立てられたが水利権の問題や建設費用負担先の問題などから頓挫している。                                                                                                                                        

すでに上下水道が完備されていて用水路の必要はなくなってから、生活の場に水の流れが欲しいという景観上の要望が出てきたということだろう。以前、定禅寺通りの中央分離帯の緑地に水の流れを復活させるという計画が立てられたが、推進していた市長の汚職事件により頓挫したとか。お金が絡むときな臭い話になりがちだ。

最後に、この四ツ谷用水という名称だが、江戸で同時期に作られた玉川用水と関連があるのか気になっている。玉川用水は多摩川の水を都心の四谷まで引いていたというが、四ツ谷つながりがあるのかどうか。
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三太郎
三太郎 さん本が好き!1級(書評数:828 件)

1957年、仙台に生まれ、結婚後10年間世田谷に住み、その後20余年横浜に住み、現在は仙台在住。本を読んで、思ったことあれこれを書いていきます。

長年、化学メーカーの研究者でした。2019年から滋賀県で大学の教員になりましたが、2023年3月に退職し、10月からは故郷の仙台に戻りました。プロフィールの写真は還暦前に米国ピッツバーグの岡の上で撮ったものです。

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