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hackerさん
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酒、女、男、色恋、夫、妻、子供、婿探し、妻探し...そして死。「理由(わけ)のわからないことで悩んでいるうち老いぼれてしまう」(岡本おさみ作詞『襟裳岬』より)人間たちを描くチェーホフ初期短篇集です。
チェーホフ(1841-1904)は、実は過酷な青少年時代を送りました。「新潮世界文学第23巻チェーホフ」の解説によると、地方都市の教養の高くない商人であった父親からは少年時代にはよく鞭うたれたとのことで、のちに「私の少年時代には少年時代がなかった」とみずから語っているそうです。そして16歳の時に、この父親が破産し、モスクワに夜逃げします。しかし、既にモスクワに勉強に出ていた二人の兄は、父親を嫌って実家に近づかず、また自らも放蕩生活を送っていたため、一家の経済的支えにはなりませんでした。まだ中学生だったチェーホフ自身は、人手に渡った実家の一部屋を借りて、家庭教師をしながら、中学を卒業し、19歳でモスクワ大学医学部に入学します。この時から、両親と自らの生活費と学費を稼ぐために、ユーモア短篇の寄稿を始めます。チェーホフは、分かっているだけで500以上の短篇を書いていますが、そのうち、300作近くが、学生時代の最初の2年間に書かれています。学業と並行しながらの、生活のための創作でしたので、いわば書きなぐっていたのでしょうが、それでも20代で「人生を分かってしまった」作家であったことを裏付ける作品は少なくありません。本書は、そんな作品を集めた「新チェーホフ・ユモレスカ」全二冊の一つです。


本書には31作品が収められています。「ユモレスカ」と名づけられていますし、ユーモア小説が中心ではあるのですが、単純に笑えるものだけでなく、かなりブラックなものもありますし、とても笑えないものもあります。特に印象的な作品を紹介します。

●『郊外の一日』

いつも酔っぱらっている靴屋の「宿なしのテレンチーおじちゃん」と、ホームレスの兄妹の、ロシアの美しい自然の中の貧しい人々の一日を描いて、しみじみと心に残る好篇です。

●『花婿とパパ』

その気のない相手と無理やり結婚させられそうになった男と、娘の父親とのやり取りがおかしい、典型的なユーモア小説です。男は、最後に自分は狂人だから結婚できないという理由で、この結婚から逃れようとして、医者のところへ診断書をもらいに行くのですが、その医者の対応がまたケッサクです。

●『夢』

質屋の鑑定人として働いていた「わたし」が、クリスマス・イヴに押し入ってきた貧しい泥棒にとった対応とは...。貧乏人が持ってくる質草を値切りたおすのに、うんざりしてしまった男の心中がよく分かります。

●『元日の務め』

元旦に世話になった知人や親戚に挨拶に行くという「年賀」という風習は、ロシアにもある(あった?)ようで、日本もそうですが、そんなうっとしいことはしたくないと思うのが人情というものです。同テーマで『新年の拷問』という作品も収められていて、そちらもおかしいです。

●『アパートで』

アパートの隣室に入った男が「あさ起きれば、下着一枚で廊下をうろつきまわる。でなけりゃ、酔っぱらってピストルを振り回して壁にぶっ放す。昼間はヴォトカのがぶ飲み、夜は庭でカルタのやりつづけ...。カルタがすめば、そのあと喧嘩」というならず者なのですが、二等大尉という将校だったので、追い出すこともできずに...という話で、おかしいことはおかしいのですが、最近のロシア兵のウクライナでの振る舞いのニュースを知っているだけに、今や単純に笑えません。

●『財布』

三人の旅役者が大金の入った財布を拾い、仲良く山分けしようということになります。でも最後にこんな教訓がついています。

「役者連中が涙を浮かべて、親しい仲間や、友達や、たがいの『結束』のことで無駄口たたいたら、またあなたがたを抱きしめたり口づけしたりしたら、あまり有頂天にならないほうがいいだろう」

相当ブラックな話です。

●『観念論者の思い出から』

題名はちょっと分かりにくいですが、唯物論者の反対、つまり物資一辺倒でない人間と解釈すればよいでしょう。この世の中、どんなに楽しいことでも金なしでは済まないという、お話です。これもおかしいです。

●『馬とおののく鹿』

毎晩飲んだくれて帰って来て、夜中に二日酔いでうんうん唸る「つまらないルポライター」の亭主を持った、女性の嘆き節です。おかしいのですが、ロシア人と酒が切っても切れない縁でつながっていることを感じさせてくれます。

●『注文原稿』

家族との日々の雑事に邪魔されながら、必死に注文原稿を書こうとする作家の話です。チェーホフ自身の生活を垣間見るようです。

●『応急手当』

酔っぱらって川で溺れた男を、酔っぱらった村人たちが、なんとか息のあるうちに救い上げるのですが、人工呼吸のやり方もよくわからなくて、結局助けられなかったという話です。こちらもブラック・ユーモアですが、知識の大切さを語る教訓譚のようでもあります。

●『父親』

飲んだくれで、息子たちに金をせびって生活している父親の話です。そういう父親の姿と、それを達観と諦めで眺める息子に、チェーホフ自身の家族関係を見るようです。

●『ドクトル』

脳結核で死を待つばかりの少年の往診に来た医者の話です。母親には、もう助からないことを冷静かつ事務的に伝えますが、実は、二人の関係には過去があったのでした。しかも、それだけではなかったのです。

●『災難』

市立銀行が倒産し、頭取以下銀行員は何名か逮捕されます。銀行監査委員の商人アヴデーエフは、最初他人ごとと思っていましたが、その立場ゆえに、決算書にサインした科で、後になって逮捕されます。彼は言います。

「(サインは)したともさ!わしに何がわかるものか!何持ってこられても盲判押すんだものな。わしが人を殺したと書かれたところで、いちいち調べているひまなんかあるもんか、おまけに眼鏡なしじゃ何にも見えないんだしな」

もちろん、裁判で、こんな言い分が通るはずはないのです。アヴデーエフは、この逮捕を「災難」と捉えているわけですが、チェーホフは無知からの自業自得として描いています。この話の背景にも、もしかしたら、父親の姿があるのかもしれません。


さて、収録作品は、後年のものに比べると、直接的に深刻さを感じさせるものは多くありません。良い意味での軽さはありますが、決して浅いものではありません。その辺りを、開高健は次のように述べています。

「チェーホフが若いときに即興と才気にまかせ、”脾臓のない男”とか”わが兄の弟”などというペン・ネームで書きなぐり、書き飛ばしたシュート・ショート群は、(疲れて)泥のようになった夜でも読むことができる。そのいくつかは現代でもいきいきしているし、閃きや、笑いが、いささかも衰えていない。よく感心させられる。後年、深淵的になってからの作品にない気楽さ、軽快さが、上質のにがい笑いを提供してくれる」(『チェーホンテ』より、「新潮世界文学第23巻チェーホフ」月報収録)

これ以上言うことなどありません。チェーホフの入門書として、お勧めできる本です。
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hacker
hacker さん本が好き!1級(書評数:2274 件)

「本職」は、本というより映画です。

本を読んでいても、映画好きの視点から、内容を見ていることが多いようです。

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