hackerさん
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1960年代の作品が中心の、古典的な「奇妙な味」が楽しめる日本編纂の短編集です。
かもめ通信さんの書評で、本書のことを教えてもらいました。感謝いたします。
ドイツの作家マリー・ルイーズ・カシュニッツ(1901-1974)の作品を読むのは、おそらくこれが初めてです。訳者あとがきによれば、1930年代から作家活動を始めていたものの、本格的になったのは戦後からとのことで、日本編纂の本書には15作品が収められていますが、うち12作が1960年代初出で、遺稿からのものが2作品、1940年代のものが1作品というセレクトも、それを物語っているようです。
本書全体の印象を、ひと言で表現するのなら、まさに「奇妙な味」です。そうは言っても、まともな(?)幽霊譚もあるのですが、人間の心と想像力の不思議さを扱った作品が多く、同時に常に何か語られていない部分があることを感じさせることが、その印象を強くしているのだと思います。短い作品ばかりなので、個別に内容を紹介しても、この「奇妙な」感覚は、なかなか伝わらないと思いますが、何作かコメントさせてもらいます。
●『6月半ばの真昼どき』(1960年)
「私」カシュニッツ夫人が、海辺でのヴァカンスを終え、アパートに帰ってみると、留守の間に、見知らぬ女性が「カシュニッツ夫人は死んだ」とアパートじゅうふれまわっていたことを知ります。ところが、その女性が来た日の出来事を確認すると、「私」は海で溺れかけたことを思いだしたのです。実は、ドイツ語版 Wikipedia によると、作者は海で泳いでいる時に感染した肺炎で亡くなったとあり、その偶然にちょっと驚かされました。
●『いいですよ、私の天使』(1964年)
明らかにヒュー・ウォルポールの『銀の仮面』のヴァリエーションです。犠牲者となる女性の一人称視点で書かれていますが、彼女が最後の最後まで相手を責めていないし、自分の生末に危機感も抱いていないのが「奇妙」で、印象的です。
●『白熊』(1965年)
声はすれども、姿の見えない幽霊譚です。夫のオプセッションを、妻が最後に知るという話です。動物園で白熊を長い時間観察したことがある方なら、白熊がさして理由もなさそうなのに首を左右に振り続けることがあるのをご存知でしょう。その無限に続くのではないかと思われる動作と夫のオプセッションを組み合わせた題名です。
●『ルピナス』(1966年)
強制収容所に向かう列車に乗っていたバルバラというユダヤ人少女は、列車がスピードをおとす場所を知っていたので、そこで列車から飛び降りて脱走します。姉のファニーも一緒の予定でしたが、姉は逃げる気力がもはやなく、結局バルバラ一人が姉の夫の元に隠れて暮らすことになります。ラスト一行で、本作はビアスの某有名作のヴァリエーションである(らしい)ことが分かります。
●『その昔、N市では』(遺稿)
なんとゾンビものです。ある薬物を投与した者は、死後に復活するのですが、生前の外見はとどめていないため、親族が見てもそれとは分かりません。彼らは「灰色の者」として、人がやりたがらない仕事に従事し、万事順調に見えたのですが、あることがきっかけで、この秩序が崩壊するという話です。現代ゾンビものの原型とされる、リチャード・マシスンの『アイ・アム・レジェンド』(1954年)は既に刊行されており、それを最初に映画化した『地球最後の男』(1964年)公開後に書かれたもののようですから、作者の意識には間違いなくあったと思います。ただし、題名は覚えておらず、手元にある蔵書からは確認できないのですが、アメリカの短編小説で、ゾンビを深夜営業のスーパーの店員として無給・無休・無食で働かせるという話があったと記憶していて、両作とも、最初のゾンビ映画として名高い『恐怖城』(1932年)に登場する、やはり無給・無休・無食のかわいそうなクラッシック・ゾンビが原型と考えた方がいいでしょう。そういう意味で、映画好きはニヤリとする作品です。
お分かりのように、オリジナリティーはあまり感じない作風ですし、強烈な印象を残す作品はないのですが、このオーソドックスな「奇妙な味」には、なんだか嬉しくなる魅力があります。この手の短編がお好きな方にお勧めします。
ドイツの作家マリー・ルイーズ・カシュニッツ(1901-1974)の作品を読むのは、おそらくこれが初めてです。訳者あとがきによれば、1930年代から作家活動を始めていたものの、本格的になったのは戦後からとのことで、日本編纂の本書には15作品が収められていますが、うち12作が1960年代初出で、遺稿からのものが2作品、1940年代のものが1作品というセレクトも、それを物語っているようです。
本書全体の印象を、ひと言で表現するのなら、まさに「奇妙な味」です。そうは言っても、まともな(?)幽霊譚もあるのですが、人間の心と想像力の不思議さを扱った作品が多く、同時に常に何か語られていない部分があることを感じさせることが、その印象を強くしているのだと思います。短い作品ばかりなので、個別に内容を紹介しても、この「奇妙な」感覚は、なかなか伝わらないと思いますが、何作かコメントさせてもらいます。
●『6月半ばの真昼どき』(1960年)
「私」カシュニッツ夫人が、海辺でのヴァカンスを終え、アパートに帰ってみると、留守の間に、見知らぬ女性が「カシュニッツ夫人は死んだ」とアパートじゅうふれまわっていたことを知ります。ところが、その女性が来た日の出来事を確認すると、「私」は海で溺れかけたことを思いだしたのです。実は、ドイツ語版 Wikipedia によると、作者は海で泳いでいる時に感染した肺炎で亡くなったとあり、その偶然にちょっと驚かされました。
●『いいですよ、私の天使』(1964年)
明らかにヒュー・ウォルポールの『銀の仮面』のヴァリエーションです。犠牲者となる女性の一人称視点で書かれていますが、彼女が最後の最後まで相手を責めていないし、自分の生末に危機感も抱いていないのが「奇妙」で、印象的です。
●『白熊』(1965年)
声はすれども、姿の見えない幽霊譚です。夫のオプセッションを、妻が最後に知るという話です。動物園で白熊を長い時間観察したことがある方なら、白熊がさして理由もなさそうなのに首を左右に振り続けることがあるのをご存知でしょう。その無限に続くのではないかと思われる動作と夫のオプセッションを組み合わせた題名です。
●『ルピナス』(1966年)
強制収容所に向かう列車に乗っていたバルバラというユダヤ人少女は、列車がスピードをおとす場所を知っていたので、そこで列車から飛び降りて脱走します。姉のファニーも一緒の予定でしたが、姉は逃げる気力がもはやなく、結局バルバラ一人が姉の夫の元に隠れて暮らすことになります。ラスト一行で、本作はビアスの某有名作のヴァリエーションである(らしい)ことが分かります。
●『その昔、N市では』(遺稿)
なんとゾンビものです。ある薬物を投与した者は、死後に復活するのですが、生前の外見はとどめていないため、親族が見てもそれとは分かりません。彼らは「灰色の者」として、人がやりたがらない仕事に従事し、万事順調に見えたのですが、あることがきっかけで、この秩序が崩壊するという話です。現代ゾンビものの原型とされる、リチャード・マシスンの『アイ・アム・レジェンド』(1954年)は既に刊行されており、それを最初に映画化した『地球最後の男』(1964年)公開後に書かれたもののようですから、作者の意識には間違いなくあったと思います。ただし、題名は覚えておらず、手元にある蔵書からは確認できないのですが、アメリカの短編小説で、ゾンビを深夜営業のスーパーの店員として無給・無休・無食で働かせるという話があったと記憶していて、両作とも、最初のゾンビ映画として名高い『恐怖城』(1932年)に登場する、やはり無給・無休・無食のかわいそうなクラッシック・ゾンビが原型と考えた方がいいでしょう。そういう意味で、映画好きはニヤリとする作品です。
お分かりのように、オリジナリティーはあまり感じない作風ですし、強烈な印象を残す作品はないのですが、このオーソドックスな「奇妙な味」には、なんだか嬉しくなる魅力があります。この手の短編がお好きな方にお勧めします。
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「本職」は、本というより映画です。
本を読んでいても、映画好きの視点から、内容を見ていることが多いようです。
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- 出版社:東京創元社
- ページ数:0
- ISBN:9784488011178
- 発売日:2022年09月30日
- 価格:2200円
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