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追悼ミラン・クンデラ
本書も「ツンドク山脈ヴィンテージ・シリーズ」の一冊です。埋没期間は12年ぐらいだと思います。実は、ミラン・クンデラ(1929-2023)は『冗談』(1967年)を読んだだけ、一番有名な本書は読んでいませんでしたが、先日の訃報もあって、手に取ってみました。
クンデラは、ソ連の軍事介入によって頓挫した1968年の「プラハの春」の支持者で、1975年にフランスに出国し、1984年に発表した本書は世界的なベストセラーとなりました。ただ、彼の本に対しては個人的にはどうもあまり食指が動かなかったのですが、その最大の理由は、訳者西永良成による本書解説冒頭に書いてあります。
「クンデラは機会あるごとに自作に手を入れ、できるだけ完璧な作品を残そうという意志を強く持っている(中略)彼の代表作であるこの小説も、1984年にフランソワ・ケレル訳のフランス語版で初版が刊行されたあと、87年にこの初版をクンデラ自身が徹底的に見直し、全面的に改訳をおこなうばかりか、その後もたとえば英語やロシア語、あるいはイタリア語などに翻訳される場合にそのつど再読し、手を加える労をいとわないからである。そこで、このたびこの作品を本全集に収録するにあたっても、現在準備しつつあるチェコ語決定版のために全体を見直す過程で訂正箇所を訳者に指示してくれたのである」
私は、作品は発表した瞬間に作者のものではなくなると思っているので、クンデラのこの創作態度はどうも引っかかるのです。別のところでも述べましたが、以前書いていたグルメのレビューを止めたのは、厨房の担当はもちろんホールの担当が変わっただけで、店の評価が変わってしまうことがあるからで、過去のある時間を切り取って何かを語ったとしても、それが現在の姿と一致するとは限らないからです。同じ不満を、クンデラのこの創作態度には感じてしまいます。
イタリアの作家イニャツィオ・シローネは「私は同じ本を、何度も書き直ししながら一生を送ることができたら、どんなに幸せかと思う。たった一冊の(中略)自らの魂を映し出すような本を書きながら」と語っていて、「たった一冊」というのなら、モネが自分の死後公開することを条件にオランジュリー美術館にある『睡蓮』を描いたように理解できるのですが、何冊もの本を対象となると、やはりおかしいのではないかと私は思ってしまいます。
映画でも、「ディレクターズ・カット」と称する作品が、初公開からしばらく経って出てくることはありますが、あれは主に商業的理由によって、最初の公開時にカットされた場面、あるいは歪められた内容を、本来の姿に戻そうとするもので、「ディレクターズ・カット」のために新たな場面を撮影することはないはずですから、これもクンデラの場合とは違うでしょう。
また、前置きが長くなりました。最近これが多くて、いけません。
さて、本書の内容ですが、中心となるのは優秀な外科医トマーシュと彼と同棲するテレザという女性の生活です。トマーシュは、一度結婚・離婚をしていて、息子が一人います。彼は、昔から筋金入りの女たらしで、テレザと一緒に暮らすようになっても、女漁りは止めません。その場限りの相手だけでなく、画家のサビナとは長い間の愛人関係でした。そのサビナも、フランツという既婚の愛人がいた時期がありました。この4人を中心とした、「プラハの春」を挟んだ10年近い年月の間の彼らの「軽い」愛情生活と「重い」社会生活が、ある意味とりとめなく語られている作品です。そして、トマーシュとテレザは共に交通事故で死に、サビナとフランツの関係は、フランツが離婚を決意したことがきっかけで、サビナが出奔して終わります。作中には、時折、作者自身が一人称で登場し、様々なことを述べたりします。そういうことも含めて、部分的には面白い箇所もあるのですが、私には、作品の全体像がよく理解できませんでした。最大の理由は、女性を性愛の対象としか見ていなかったトマーシュが、それだけではないテレザと暮らすようになっても、女たらしぶりが変わらず、それに対して罪悪感も抱いていないという根本的な設定が、気に入らないからです。個人的な話ですが、そういう男性を一人知っていて、彼が実にごう慢で嫌な人間だということもあるとは思います。女性器の匂いを頭につけておいて、自分ではそれに気づいていないトマーシュにも同じ雰囲気を感じてしまうのです。
また、前述したように、作者が機会ある後に書きなおしているという小説というもの対する、居心地の悪さもずっと感じていて、心のどこかで「クンデラさん、これがあなたの最終形ですか?」という疑問が湧いてくるのを避けられなかったこともあると思います。ただ、映画好きの視点から興味深かったのは、様々な映画の記憶が作中に取り入れられているように思えることで、それについてコメントしておきます。
作中でサビナが被る山高帽がエロティックな道具として使われている場面があり、もちろんそれは放浪紳士チャップリンの被っていた、本来はユーモラスな雰囲気な道具なのですが、サビナとテレザが少しレズビアン的に互いの裸体を見せ合うという場面に出てくるだけに、私は映画『モロッコ』(1930年)のマレーネ・ディートリッヒを連想してしまいました。この映画の中で、ディートリッヒはキャバレーのショーで山高帽ではありませんがシルクハットを被った男装で現れ、女性の観客の一人に素早く口づけをする場面があり、ハリウッド映画に登場した同性愛を匂わせる場面の一つとして有名なので、作者の頭の中にも、もしかしたら、それがあったのかもしれません。
また、トマーシュの親ソ連への反抗に関して重要な教えをするギリシャ悲劇『オイディプス王』は、ピエロ・パオロ・パゾリーニが1967年に映画化(邦題『アポロンの地獄』)していて、個人的にはパゾリーニの映画の中では最良のもの(最悪が多い彼の映画群の中での最良ですが)と思っている作品です。
サビナとフランツの決裂のエピソードは、トリュフォーの『柔らかい肌』(1964年)の物語、不倫をした中年の文芸評論家が、妻との離婚を決意するものの、それを知った愛人は去っていくという物語のほぼ踏襲です。フランツが妻に復縁を求めるという点まで同じです。
大きく気づいただけで、これだけありますから、細かく見ていくともっとありそうな気がします。1970年代半ばにフランスに出国していた作者が、映画を観ていないはずがなく、その影響が本書にあっても、おかしくはないでしょう。
また、最近読んだ本の内容を補足するような作中の文がありましたので、それを引用しておきます。
「これっぽっちの神学的素養もない、当時の私がそうだった子供はすでに、神と糞は両立しないこと、したがって人間が神に似せて創られたのだというキリスト教的人間学の根本的命題が脆弱なことを、ごく自然に理解していた」
これは『スローターハウス5』を連想させます。
「本質的な質問は彼らが知っていたのか知らなかったのかではなく、ひとは知らないといって無実だと言えるのか、王座にのっている愚か者は、ただ愚か者というだけで、あらゆる責任かを免除されるのかということだ思っている」
これは『大元帥・昭和天皇』を連想させます。
こういう風に見ていくと、語っている内容の普遍性は疑いもないのですが、それがまとまったインパクトを与えるというところまでは、私の場合ですが、行きませんでした。
最後に、本題とは関係ありませんが、ちょっと驚いたのは、社会主義リアリズムに注がついていたことです。
「社会主義リアリズムとは、現実を革命的発展の姿で歴史的・具体的に描き、人民の共産主義的教育に資するべきものとして、1934年第一回ソビエト作家大会で定式化され、以降スターリンの文学・芸術支配貫徹の手段として、チェコをふくむ東欧にも波及し、現実美化に満ちた作品を生み出した」
確かにこの通りなのですが、社会主義リアリズムの範疇に入る作品でも、エイゼンシュタインの映画『戦艦ポチョムキン』(1925年)や、日本海海戦のノンフィクションであるプリボイの『ツシマ』(1932年)のような素晴らしいものもあるので、そこは「現実美化に満ちた作品」という言葉ですべてくくらない方が良いと思います。木と森は違うということも書いてほしかったです。
クンデラは、ソ連の軍事介入によって頓挫した1968年の「プラハの春」の支持者で、1975年にフランスに出国し、1984年に発表した本書は世界的なベストセラーとなりました。ただ、彼の本に対しては個人的にはどうもあまり食指が動かなかったのですが、その最大の理由は、訳者西永良成による本書解説冒頭に書いてあります。
「クンデラは機会あるごとに自作に手を入れ、できるだけ完璧な作品を残そうという意志を強く持っている(中略)彼の代表作であるこの小説も、1984年にフランソワ・ケレル訳のフランス語版で初版が刊行されたあと、87年にこの初版をクンデラ自身が徹底的に見直し、全面的に改訳をおこなうばかりか、その後もたとえば英語やロシア語、あるいはイタリア語などに翻訳される場合にそのつど再読し、手を加える労をいとわないからである。そこで、このたびこの作品を本全集に収録するにあたっても、現在準備しつつあるチェコ語決定版のために全体を見直す過程で訂正箇所を訳者に指示してくれたのである」
私は、作品は発表した瞬間に作者のものではなくなると思っているので、クンデラのこの創作態度はどうも引っかかるのです。別のところでも述べましたが、以前書いていたグルメのレビューを止めたのは、厨房の担当はもちろんホールの担当が変わっただけで、店の評価が変わってしまうことがあるからで、過去のある時間を切り取って何かを語ったとしても、それが現在の姿と一致するとは限らないからです。同じ不満を、クンデラのこの創作態度には感じてしまいます。
イタリアの作家イニャツィオ・シローネは「私は同じ本を、何度も書き直ししながら一生を送ることができたら、どんなに幸せかと思う。たった一冊の(中略)自らの魂を映し出すような本を書きながら」と語っていて、「たった一冊」というのなら、モネが自分の死後公開することを条件にオランジュリー美術館にある『睡蓮』を描いたように理解できるのですが、何冊もの本を対象となると、やはりおかしいのではないかと私は思ってしまいます。
映画でも、「ディレクターズ・カット」と称する作品が、初公開からしばらく経って出てくることはありますが、あれは主に商業的理由によって、最初の公開時にカットされた場面、あるいは歪められた内容を、本来の姿に戻そうとするもので、「ディレクターズ・カット」のために新たな場面を撮影することはないはずですから、これもクンデラの場合とは違うでしょう。
また、前置きが長くなりました。最近これが多くて、いけません。
さて、本書の内容ですが、中心となるのは優秀な外科医トマーシュと彼と同棲するテレザという女性の生活です。トマーシュは、一度結婚・離婚をしていて、息子が一人います。彼は、昔から筋金入りの女たらしで、テレザと一緒に暮らすようになっても、女漁りは止めません。その場限りの相手だけでなく、画家のサビナとは長い間の愛人関係でした。そのサビナも、フランツという既婚の愛人がいた時期がありました。この4人を中心とした、「プラハの春」を挟んだ10年近い年月の間の彼らの「軽い」愛情生活と「重い」社会生活が、ある意味とりとめなく語られている作品です。そして、トマーシュとテレザは共に交通事故で死に、サビナとフランツの関係は、フランツが離婚を決意したことがきっかけで、サビナが出奔して終わります。作中には、時折、作者自身が一人称で登場し、様々なことを述べたりします。そういうことも含めて、部分的には面白い箇所もあるのですが、私には、作品の全体像がよく理解できませんでした。最大の理由は、女性を性愛の対象としか見ていなかったトマーシュが、それだけではないテレザと暮らすようになっても、女たらしぶりが変わらず、それに対して罪悪感も抱いていないという根本的な設定が、気に入らないからです。個人的な話ですが、そういう男性を一人知っていて、彼が実にごう慢で嫌な人間だということもあるとは思います。女性器の匂いを頭につけておいて、自分ではそれに気づいていないトマーシュにも同じ雰囲気を感じてしまうのです。
また、前述したように、作者が機会ある後に書きなおしているという小説というもの対する、居心地の悪さもずっと感じていて、心のどこかで「クンデラさん、これがあなたの最終形ですか?」という疑問が湧いてくるのを避けられなかったこともあると思います。ただ、映画好きの視点から興味深かったのは、様々な映画の記憶が作中に取り入れられているように思えることで、それについてコメントしておきます。
作中でサビナが被る山高帽がエロティックな道具として使われている場面があり、もちろんそれは放浪紳士チャップリンの被っていた、本来はユーモラスな雰囲気な道具なのですが、サビナとテレザが少しレズビアン的に互いの裸体を見せ合うという場面に出てくるだけに、私は映画『モロッコ』(1930年)のマレーネ・ディートリッヒを連想してしまいました。この映画の中で、ディートリッヒはキャバレーのショーで山高帽ではありませんがシルクハットを被った男装で現れ、女性の観客の一人に素早く口づけをする場面があり、ハリウッド映画に登場した同性愛を匂わせる場面の一つとして有名なので、作者の頭の中にも、もしかしたら、それがあったのかもしれません。
また、トマーシュの親ソ連への反抗に関して重要な教えをするギリシャ悲劇『オイディプス王』は、ピエロ・パオロ・パゾリーニが1967年に映画化(邦題『アポロンの地獄』)していて、個人的にはパゾリーニの映画の中では最良のもの(最悪が多い彼の映画群の中での最良ですが)と思っている作品です。
サビナとフランツの決裂のエピソードは、トリュフォーの『柔らかい肌』(1964年)の物語、不倫をした中年の文芸評論家が、妻との離婚を決意するものの、それを知った愛人は去っていくという物語のほぼ踏襲です。フランツが妻に復縁を求めるという点まで同じです。
大きく気づいただけで、これだけありますから、細かく見ていくともっとありそうな気がします。1970年代半ばにフランスに出国していた作者が、映画を観ていないはずがなく、その影響が本書にあっても、おかしくはないでしょう。
また、最近読んだ本の内容を補足するような作中の文がありましたので、それを引用しておきます。
「これっぽっちの神学的素養もない、当時の私がそうだった子供はすでに、神と糞は両立しないこと、したがって人間が神に似せて創られたのだというキリスト教的人間学の根本的命題が脆弱なことを、ごく自然に理解していた」
これは『スローターハウス5』を連想させます。
「本質的な質問は彼らが知っていたのか知らなかったのかではなく、ひとは知らないといって無実だと言えるのか、王座にのっている愚か者は、ただ愚か者というだけで、あらゆる責任かを免除されるのかということだ思っている」
これは『大元帥・昭和天皇』を連想させます。
こういう風に見ていくと、語っている内容の普遍性は疑いもないのですが、それがまとまったインパクトを与えるというところまでは、私の場合ですが、行きませんでした。
最後に、本題とは関係ありませんが、ちょっと驚いたのは、社会主義リアリズムに注がついていたことです。
「社会主義リアリズムとは、現実を革命的発展の姿で歴史的・具体的に描き、人民の共産主義的教育に資するべきものとして、1934年第一回ソビエト作家大会で定式化され、以降スターリンの文学・芸術支配貫徹の手段として、チェコをふくむ東欧にも波及し、現実美化に満ちた作品を生み出した」
確かにこの通りなのですが、社会主義リアリズムの範疇に入る作品でも、エイゼンシュタインの映画『戦艦ポチョムキン』(1925年)や、日本海海戦のノンフィクションであるプリボイの『ツシマ』(1932年)のような素晴らしいものもあるので、そこは「現実美化に満ちた作品」という言葉ですべてくくらない方が良いと思います。木と森は違うということも書いてほしかったです。
- あまりにも有名な放浪紳士チャーリー・チャップリンの山高帽
- 映画『モロッコ』の男装の麗人マレーネ・ディートリッヒのシルクハット
- 『柔らかい肌』の中年男(ジャン・ドサイ)と愛人(フランソワーズ・ドルレアック)の有名な脚フェチ場面
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「本職」は、本というより映画です。
本を読んでいても、映画好きの視点から、内容を見ていることが多いようです。
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- 出版社:河出書房新社
- ページ数:390
- ISBN:9784309709437
- 発売日:2008年02月09日
- 価格:2520円
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