hackerさん
レビュアー:
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クリント・イーストウッドの、おそらく最後の監督兼主演映画の原作です。約35年前に書かれ、その時は出演を辞退したシナリオのことをイーストウッドが覚えていて、91歳になってから自らの手で映画化しました。
1975年刊の本書の主人公マイク・マロイは38歳、ずっと「投票できる年齢になったら年寄りとみなされる」ロデオ業界で生きてきました。数年前までは全米のロデオ競技大会をサーキットし、有名なロデオ・スターでしたが、今ではロデオ業界そのものが縮小してきたこともあり、サーキットでの賞金稼ぎは止め、テキサスの小さな町のロデオ競技場で、固定給をもらって生活していました。ロデオ競技場の持ち主ハワード・ポルクは東部出身の実業家で、ロデオのことなどろくにしりませんでしたが、破産した競技場を買い取って、ロデオ競技者たちの給与を削ったりしながら、それなりのビジネスに仕立て上げていました。ある日、マイクは競技を無事に終了した後で、退場する直前に馬が急に暴れて落馬し、足の骨を折る重傷を負います。競技中の事故ならともかく、何でもない場所での事故はロデオ・スターとしては致命的で、ハワードはマイクを首にします。
その代わりハワードは、マイクに対して、メキシコに行って、11歳になる自分の息子ラフォを誘拐してきてくれたら、大金を支払うという提案をします。ラフォはレクサというメキシコ女性と結婚した時の子供で、今は母親の元にいる、とハワードは言います。ところが、レクサは何年もハワードにラフォを会わせないばかりか、メキシコの法律の関係で、ハワードがメキシコの事業で得た大金をすべて自分の名義にして、その分配の交渉に応じないと言うのです。ですが、ラフォが自分の手に入れば、レクサも耳を貸さないわけにはいかないだろう、とのことでした。
自身も、3回の流産の後で生まれた一人娘を病で亡くし、妻と離婚していたマイクは、結局この依頼を引き受けます。計画は、レクサが住んでいるメキシコ・シティの豪邸に忍び込んで、ラフォにクロロホルムを嗅がせて運び出し、テキサスまで連れてくるというものでした。しかし、こんな乱暴な計画がうまく行くはずもなく、マイクは、屋敷の用心棒にあっさりと捕まってしまいます。ところが、女主人レクサは、ラフォはもう何年も前に家を出ており、今どこにいるかさえ知らないと言うのです。息子のことを口汚く罵るレクサの憎しみは本物で、マイクは解放されましたが、闘鶏が好きだというヒントを元に、メキシコ・シティの貧民街を、ラフォを探し歩きます。そして、見つけだしたラフォは、意外なことに何年も会っていなかった「父親に会いたい」と言い、マイクと同行することになります。ただし、彼がマッチョと名づけた闘鶏も一緒という条件でした。二人は、アメリカ国境を目指しますが、そんなに簡単に物事は運ばないのでした。
さて、本書は2021年に映画化されましたが、91歳になるクリント・イーストウッドのおそらく最後の監督兼主演映画になるのではないか(予想が外れることを期待していますが)と思います。ただ、映画のシナリオは約35年前に書かれていたそうですが、イーストウッドは「この役には自分は若すぎる」と言って、自分は監督だけにして当時70代だった名優ロバート・ミッチャム主演での制作を考えたものの、実現には至りませんでした。推測するに、老いたロデオ・スターの映画というと、サム・ペキンパー監督、スティーヴ・マックイーン主演の『ジュニア・ボナー』(1972年)、スチュアート・ミラー監督、リチャード・ウィドマーク主演『ロッキーの英雄・伝説絶ゆる時』(1972年)という作品がその当時作られていて、殊に後者は、白人の老ロデオ・スターと彼に憧れるアメリカ先住民の若者の関係を描いたものですから、作品の類似性ということもあったのでしょう。
ここで重要なのは、原作では38歳という、まだ「血の気」の多い主人公であるのに対し、映画では最初から主人公を老人として設定してあり、それによる変更も多い点です。例えば、主人公マイクは、負傷のため、とうの昔に引退しており、妻子も事故で亡くした不遇の身で、元雇い主のハワードには随分世話になっていたため、彼の頼みは断りにくいという設定になっています。つまり、ハワードもビジネスライクな人間ではなく、マイクとの関係も悪いものではないという描き方です。そして、ある意味必然的に、原作とは異なる結末に導きますし、作品の雰囲気も異なります。そもそも、マッチョという言葉について、作中でラフォは「ものすごく強いチャンピオンという意味だ」と説明し、原作ではマッチョは数年前のマイクの姿であるのに対し、映画ではとっくに枯れてしまったイーストウッド(マイク)の立ち姿から、マッチョという言葉を直接連想することはできません。しかし、イーストウッドが画面に現れるということは、彼がその長いキャリアを通して演じてきたカウボーイの幻影(彼が少年に乗馬を教えるために馬に乗るシーンが典型的です)を我々に見せてくれることなのです。
かって、チャップリンが、世界中のファンが何十年も親しんできた放浪紳士のいでたちを一切捨てて演じた『殺人狂時代』(1947年)でも、ラストの刑場に連れて行かれるチャップリンの後ろ姿の歩き方に、多くのファンが放浪紳士の姿を見たものでした。同じように、映画『クライ・マッチョ』のイーストウッドは、マイク・マイロという役を演じながら、かって自分が演じたヒーローたちを体現しているのです。ですから、映画中の時代設定は現在ではなくて、原作が書かれた時代、かってのヒーローたちが活躍していた1970年代となっています。
しかし、「マッチョ」などと威張ることはもはや意味のない時代になっていること、「男らしい」とか「女らしい」とかいう言葉よりも「人間らしい」という言葉に意味があるのだということをイーストウッドは理解しているようで、映画全体からは「老兵は死なず、消え去るのみ」というメッセージを強く感じます。原作とは、ここが大きく違うところです。
あちこちで書いていますが、原作と映画というのは、そもそも表現方法がまったく違うので、比較して優劣を論ずるのは意味がないと思っているのですが、好き嫌いがでるのは止むを得ず、その点では、私は映画の方が好きです。先にレビューした『ストーカー』もそうでしたが、こちらの作品も、映画らしい見事な省略があって、主人公の過去の栄光や家族関係は、その関係の写真が飾られている主人公の部屋をゆっくり映すだけというのがその一例です。また、そういう映画を先に観たせいもあるでしょうが、原作の方はやや冗長な感は否めません。文庫本で500ページ弱というのも長いですが、マイクとラフォがアメリカへ向けて旅立つのが、その半分辺りというのにも、それを感じます。殊に、前半部分には、人によっては、かなり不快感を覚えるであろう描写(私も、ここまで書かなくてもと思いました)もあり、そういうところは、明らかに余計だと思います。おそらく現在なら、三分の一程度は削ってしまうのではないでしょうか。
最後ですが、イーストウッド作品に共通したテーマとしては、アメリカ社会におけるマイノリティー若しくは弱者へのシンパシーというものがあって、本作におけるメキシコ系少年もそうですが、『グラン・トリノ』(2008年)におけるモン族の少年、『トゥルー・クライム』(1999年)における冤罪の黒人死刑囚などが思い浮かびます。先日再見した監督第二作『荒野のストレンジャー』(1973年)でもアメリカ先住民の扱いに、それが表れていました。
また、小説を語っているのか、映画を語っているのか分からないレビューになってしまいました。ご容赦ください。イーストウッドについて語り出すと、際限がなくなりそうですので、この辺で止めておきます。ただ、前監督兼主演作『運び屋』(2018年)の時にはそう思いませんでしたが、この映画はおそらくイーストウッドの遺言です。そう考えると、特別の感慨がわいてきてしまうことを、ご理解いただけると嬉しいです。
その代わりハワードは、マイクに対して、メキシコに行って、11歳になる自分の息子ラフォを誘拐してきてくれたら、大金を支払うという提案をします。ラフォはレクサというメキシコ女性と結婚した時の子供で、今は母親の元にいる、とハワードは言います。ところが、レクサは何年もハワードにラフォを会わせないばかりか、メキシコの法律の関係で、ハワードがメキシコの事業で得た大金をすべて自分の名義にして、その分配の交渉に応じないと言うのです。ですが、ラフォが自分の手に入れば、レクサも耳を貸さないわけにはいかないだろう、とのことでした。
自身も、3回の流産の後で生まれた一人娘を病で亡くし、妻と離婚していたマイクは、結局この依頼を引き受けます。計画は、レクサが住んでいるメキシコ・シティの豪邸に忍び込んで、ラフォにクロロホルムを嗅がせて運び出し、テキサスまで連れてくるというものでした。しかし、こんな乱暴な計画がうまく行くはずもなく、マイクは、屋敷の用心棒にあっさりと捕まってしまいます。ところが、女主人レクサは、ラフォはもう何年も前に家を出ており、今どこにいるかさえ知らないと言うのです。息子のことを口汚く罵るレクサの憎しみは本物で、マイクは解放されましたが、闘鶏が好きだというヒントを元に、メキシコ・シティの貧民街を、ラフォを探し歩きます。そして、見つけだしたラフォは、意外なことに何年も会っていなかった「父親に会いたい」と言い、マイクと同行することになります。ただし、彼がマッチョと名づけた闘鶏も一緒という条件でした。二人は、アメリカ国境を目指しますが、そんなに簡単に物事は運ばないのでした。
さて、本書は2021年に映画化されましたが、91歳になるクリント・イーストウッドのおそらく最後の監督兼主演映画になるのではないか(予想が外れることを期待していますが)と思います。ただ、映画のシナリオは約35年前に書かれていたそうですが、イーストウッドは「この役には自分は若すぎる」と言って、自分は監督だけにして当時70代だった名優ロバート・ミッチャム主演での制作を考えたものの、実現には至りませんでした。推測するに、老いたロデオ・スターの映画というと、サム・ペキンパー監督、スティーヴ・マックイーン主演の『ジュニア・ボナー』(1972年)、スチュアート・ミラー監督、リチャード・ウィドマーク主演『ロッキーの英雄・伝説絶ゆる時』(1972年)という作品がその当時作られていて、殊に後者は、白人の老ロデオ・スターと彼に憧れるアメリカ先住民の若者の関係を描いたものですから、作品の類似性ということもあったのでしょう。
ここで重要なのは、原作では38歳という、まだ「血の気」の多い主人公であるのに対し、映画では最初から主人公を老人として設定してあり、それによる変更も多い点です。例えば、主人公マイクは、負傷のため、とうの昔に引退しており、妻子も事故で亡くした不遇の身で、元雇い主のハワードには随分世話になっていたため、彼の頼みは断りにくいという設定になっています。つまり、ハワードもビジネスライクな人間ではなく、マイクとの関係も悪いものではないという描き方です。そして、ある意味必然的に、原作とは異なる結末に導きますし、作品の雰囲気も異なります。そもそも、マッチョという言葉について、作中でラフォは「ものすごく強いチャンピオンという意味だ」と説明し、原作ではマッチョは数年前のマイクの姿であるのに対し、映画ではとっくに枯れてしまったイーストウッド(マイク)の立ち姿から、マッチョという言葉を直接連想することはできません。しかし、イーストウッドが画面に現れるということは、彼がその長いキャリアを通して演じてきたカウボーイの幻影(彼が少年に乗馬を教えるために馬に乗るシーンが典型的です)を我々に見せてくれることなのです。
かって、チャップリンが、世界中のファンが何十年も親しんできた放浪紳士のいでたちを一切捨てて演じた『殺人狂時代』(1947年)でも、ラストの刑場に連れて行かれるチャップリンの後ろ姿の歩き方に、多くのファンが放浪紳士の姿を見たものでした。同じように、映画『クライ・マッチョ』のイーストウッドは、マイク・マイロという役を演じながら、かって自分が演じたヒーローたちを体現しているのです。ですから、映画中の時代設定は現在ではなくて、原作が書かれた時代、かってのヒーローたちが活躍していた1970年代となっています。
しかし、「マッチョ」などと威張ることはもはや意味のない時代になっていること、「男らしい」とか「女らしい」とかいう言葉よりも「人間らしい」という言葉に意味があるのだということをイーストウッドは理解しているようで、映画全体からは「老兵は死なず、消え去るのみ」というメッセージを強く感じます。原作とは、ここが大きく違うところです。
あちこちで書いていますが、原作と映画というのは、そもそも表現方法がまったく違うので、比較して優劣を論ずるのは意味がないと思っているのですが、好き嫌いがでるのは止むを得ず、その点では、私は映画の方が好きです。先にレビューした『ストーカー』もそうでしたが、こちらの作品も、映画らしい見事な省略があって、主人公の過去の栄光や家族関係は、その関係の写真が飾られている主人公の部屋をゆっくり映すだけというのがその一例です。また、そういう映画を先に観たせいもあるでしょうが、原作の方はやや冗長な感は否めません。文庫本で500ページ弱というのも長いですが、マイクとラフォがアメリカへ向けて旅立つのが、その半分辺りというのにも、それを感じます。殊に、前半部分には、人によっては、かなり不快感を覚えるであろう描写(私も、ここまで書かなくてもと思いました)もあり、そういうところは、明らかに余計だと思います。おそらく現在なら、三分の一程度は削ってしまうのではないでしょうか。
最後ですが、イーストウッド作品に共通したテーマとしては、アメリカ社会におけるマイノリティー若しくは弱者へのシンパシーというものがあって、本作におけるメキシコ系少年もそうですが、『グラン・トリノ』(2008年)におけるモン族の少年、『トゥルー・クライム』(1999年)における冤罪の黒人死刑囚などが思い浮かびます。先日再見した監督第二作『荒野のストレンジャー』(1973年)でもアメリカ先住民の扱いに、それが表れていました。
また、小説を語っているのか、映画を語っているのか分からないレビューになってしまいました。ご容赦ください。イーストウッドについて語り出すと、際限がなくなりそうですので、この辺で止めておきます。ただ、前監督兼主演作『運び屋』(2018年)の時にはそう思いませんでしたが、この映画はおそらくイーストウッドの遺言です。そう考えると、特別の感慨がわいてきてしまうことを、ご理解いただけると嬉しいです。
- 『クライ・マッチョ』アメリカ人とメキシコ人のハーフの少年(エドゥアルド・ミネット)と。
- 『グラン・トリノ』モン族の少年(ビー・バン)と。
- 『トゥルー・クライム』冤罪の黒人死刑囚(イザイア・ワシントン)と。
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「本職」は、本というより映画です。
本を読んでいても、映画好きの視点から、内容を見ていることが多いようです。
この書評へのコメント
- hacker2022-09-01 15:52
正直なところ、『荒野の用心棒』は黒澤明の『用心棒』の盗作なので、評価はしていないのです。黒澤明も「不愉快なので、観ていない」と語っているぐらいですから。セルジオ・レオーネ監督では『続・夕陽のガンマン』は好きですが、一番好きなのはイーストウッドではなく、ジェームズ・コバーンが出ている『夕陽のギャングたち』ですね。
イーストウッドの西部劇で一番好きなのは『許されざる者』です。次に挙げるなら『荒野のストレンジャー』になります。ドン・シーゲルが監督した『真昼の死闘』もけっこう気に入っています。クリックすると、GOOD!と言っているユーザーの一覧を表示します。 
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