hackerさん
レビュアー:
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「イヴァシュキェヴィッチはわれわれキエフ人のすべてがそうであったように、三つの文化―ロシア、ウクライナ、ポーランドの文化を体験したのである」(解説で引用されている文学者パウトフスキイの言葉)
ロシアのウクライナ侵攻で国外に何百万ものウクライナ人が逃れ、うちポーランドへの避難民が最も多いというニュースを聞き、ポーランドの作家イヴァシュキェヴィッチ(1894-1980)のことを思い出しました。ロシアのみならず、ポーランドとも、ウクライナは歴史的に深いつながりがあるのです。
彼は、当時はロシア帝国であったキーウ(キエフ)の近くの村の、あまり裕福でないポーランド人家庭に生まれました。キーウ大学で学び、第一次大戦後にワルシャワに移り、最初は詩人として、後に小説家として、1930年代より活躍しました。第二次大戦中は、ユダヤ人の隠れ家に自分の別荘を提供するなどの地下活動も行い、大戦後は、ポーランド文学界の重鎮として、色々な要職にも就きました。国際的な評価も高く、英文 Wikipedia によれば、ノーベル文学賞候補に4度ノミネートされたそうです。
本書は、そんな作者の小説家としての実力がしっかり味わえます。短編も含め、全部で5作収録されており、偶然かもしれませんが、テーマには共通性が見られます。それは、キリスト教文化における善と悪です。コインの裏表である善と悪と言っても良いかもしれません。
収録作のうち、最も有名なのは『尼僧ヨアンナ』(1943年)でしょう。17世紀にフランスのルーダンで実際に起きた修道院の尼僧たちの悪魔憑き事件をベースにした小説で、イエジー・カヴァレロヴィッチ監督が、1961年に映画化しましたが、悪魔憑きと悪魔祓いを正面切ってとりあげた、おそらく最初の映画だったことから、現在に至るまで、その名を残しています。また、この事件に関しては、『素晴らしい新世界』を書いたオルダス・ハクスリーが10年かけて『ルーダンの悪魔』(1952年)としてまとめた素晴らしいノンフィクションがあるのですが、本作は、かなり史実に近い展開を見せるものの、あくまでもフィクションです。
内容を簡単に紹介すると、七人の悪魔にとり憑かれた修道院長ヨアンナの悪魔祓いにやってきたスーリン神父が、三人の悪魔の追い出しには成功するものの、残りの四人は自らの体に憑依させ、更に自らが二人の無垢な若者を殺害して悪魔になることにより、ヨアンナを救うというものです。つまり、物語は、単純な善=神と悪=悪魔の対立のように始まるのですが、次第にその境い目がはっきりしなくなり、最後には、「悪がなくては善は存在せず、善がなくては悪は存在しない」という、映画『ダーク・ナイト』(2008年)が展開した世界の現実を見せつけて終わります。当然、あからさまには語られないものの、スーリン神父のヨアンナへの感情には、恋愛若しくは肉欲があり、そのことは、いくつかのさり気ない描写に現れています。スーリン神父が上半身を脱いで自らを鞭打つという苦行をヨアンナにもさせた際、背中が曲がっているとされるヨアンナの背中は曲がっているわけではなく、肩甲骨が飛び出しているだけなことに気づくのが、その一例です。
実は、収録されている短編『スカリシェフの教会』(1967年)も、これとほぼ同じテーマを扱っています。こちらの物語は、第二次大戦中のポーランドの村を舞台に、教会の神父のところへ、レジスタンス活動に加わっていると思しき少年が訪ねてきて、裏切り者を射殺する命令を受けたので、今日から三日のうちに実行するが、殺人の罪を犯して地獄へ行くのは嫌なので、懺悔をしたいと言うところから始まります。ところが、殺す相手のアロイスは神父もよく知っていて、とてもそんな男とは思えません。しかも、少年は、アロイスを殺さなければ、自分が裏切り者とみなされて、殺されると言います。神父は、自分がアロイスを殺すから、拳銃を渡すように、少年に言うのでした。
つまり、二つの作品は、誰かを助けるために、神父が罪のない人間を殺そうとする、という共通点を持っています。実は、神が背後にひかえる神父の立場は、ロシアを守るという目的でウクライナに侵攻したプーチンを連想させますし、戦争を起こす側の基本的な考え方のようにも思えます。そして、非常に興味深いのは、こういう反宗教的と思える展開が、神や宗教を批判するような文章ではなく、かと言って肯定するような文章でも書かれていない、という点です。言い換えると、キリスト教文化にどっぷり浸っている人間にとって、善とは何か、悪とは何かを自問しているかのような作品なのです。それは、神に代わる何かを信じている人間全般にかかわる問いなのかもしれません。
同時に、この二作は、読んでいて、とても面白い小説です。残りの三作『ウトラタの水車小屋』『台所の太陽』『セジムア平原の戦い』(いずれも、聖職者若しくは敬虔な信者が堕落する話です)もそうなのですが、確かな情景描写と心理描写の巧みさとストリーテラーとしての才能という点では、イヴァシュキェヴィッチは。相当な小説家だったことが分かります。しかし、言論統制がきつかったであろう社会主義政権下のポーランドで、ポーランド作家同盟議長、国会議員などの要職についていたということは、現在ではプラスの評価とはなりえず、それもあって、『尼僧ヨアンナ』の名前は残っても、文学者としては忘れかけられている名前の一人でしょう。
ただ、これも偶然なのかもしれないのですが、本書収録作は皆、歴史上の出来事、あるいは伝説、あるいは言い伝えをベースに書かれたとされており、執筆時点での現実社会なり現実的な人物を扱った作品はありません。仮に、過去を舞台にした小説を好んで描いていた作家なのであれば、それも社会主義体制の中での一種の生きる知恵だったのかもしれないと、好意的に解釈することもできるでしょう。
いろいろ書いてきましたが、こういうことを抜きに、読んでいて面白い作家であることは、間違いありません。お手に取って、損はないと思います。
彼は、当時はロシア帝国であったキーウ(キエフ)の近くの村の、あまり裕福でないポーランド人家庭に生まれました。キーウ大学で学び、第一次大戦後にワルシャワに移り、最初は詩人として、後に小説家として、1930年代より活躍しました。第二次大戦中は、ユダヤ人の隠れ家に自分の別荘を提供するなどの地下活動も行い、大戦後は、ポーランド文学界の重鎮として、色々な要職にも就きました。国際的な評価も高く、英文 Wikipedia によれば、ノーベル文学賞候補に4度ノミネートされたそうです。
本書は、そんな作者の小説家としての実力がしっかり味わえます。短編も含め、全部で5作収録されており、偶然かもしれませんが、テーマには共通性が見られます。それは、キリスト教文化における善と悪です。コインの裏表である善と悪と言っても良いかもしれません。
収録作のうち、最も有名なのは『尼僧ヨアンナ』(1943年)でしょう。17世紀にフランスのルーダンで実際に起きた修道院の尼僧たちの悪魔憑き事件をベースにした小説で、イエジー・カヴァレロヴィッチ監督が、1961年に映画化しましたが、悪魔憑きと悪魔祓いを正面切ってとりあげた、おそらく最初の映画だったことから、現在に至るまで、その名を残しています。また、この事件に関しては、『素晴らしい新世界』を書いたオルダス・ハクスリーが10年かけて『ルーダンの悪魔』(1952年)としてまとめた素晴らしいノンフィクションがあるのですが、本作は、かなり史実に近い展開を見せるものの、あくまでもフィクションです。
内容を簡単に紹介すると、七人の悪魔にとり憑かれた修道院長ヨアンナの悪魔祓いにやってきたスーリン神父が、三人の悪魔の追い出しには成功するものの、残りの四人は自らの体に憑依させ、更に自らが二人の無垢な若者を殺害して悪魔になることにより、ヨアンナを救うというものです。つまり、物語は、単純な善=神と悪=悪魔の対立のように始まるのですが、次第にその境い目がはっきりしなくなり、最後には、「悪がなくては善は存在せず、善がなくては悪は存在しない」という、映画『ダーク・ナイト』(2008年)が展開した世界の現実を見せつけて終わります。当然、あからさまには語られないものの、スーリン神父のヨアンナへの感情には、恋愛若しくは肉欲があり、そのことは、いくつかのさり気ない描写に現れています。スーリン神父が上半身を脱いで自らを鞭打つという苦行をヨアンナにもさせた際、背中が曲がっているとされるヨアンナの背中は曲がっているわけではなく、肩甲骨が飛び出しているだけなことに気づくのが、その一例です。
実は、収録されている短編『スカリシェフの教会』(1967年)も、これとほぼ同じテーマを扱っています。こちらの物語は、第二次大戦中のポーランドの村を舞台に、教会の神父のところへ、レジスタンス活動に加わっていると思しき少年が訪ねてきて、裏切り者を射殺する命令を受けたので、今日から三日のうちに実行するが、殺人の罪を犯して地獄へ行くのは嫌なので、懺悔をしたいと言うところから始まります。ところが、殺す相手のアロイスは神父もよく知っていて、とてもそんな男とは思えません。しかも、少年は、アロイスを殺さなければ、自分が裏切り者とみなされて、殺されると言います。神父は、自分がアロイスを殺すから、拳銃を渡すように、少年に言うのでした。
つまり、二つの作品は、誰かを助けるために、神父が罪のない人間を殺そうとする、という共通点を持っています。実は、神が背後にひかえる神父の立場は、ロシアを守るという目的でウクライナに侵攻したプーチンを連想させますし、戦争を起こす側の基本的な考え方のようにも思えます。そして、非常に興味深いのは、こういう反宗教的と思える展開が、神や宗教を批判するような文章ではなく、かと言って肯定するような文章でも書かれていない、という点です。言い換えると、キリスト教文化にどっぷり浸っている人間にとって、善とは何か、悪とは何かを自問しているかのような作品なのです。それは、神に代わる何かを信じている人間全般にかかわる問いなのかもしれません。
同時に、この二作は、読んでいて、とても面白い小説です。残りの三作『ウトラタの水車小屋』『台所の太陽』『セジムア平原の戦い』(いずれも、聖職者若しくは敬虔な信者が堕落する話です)もそうなのですが、確かな情景描写と心理描写の巧みさとストリーテラーとしての才能という点では、イヴァシュキェヴィッチは。相当な小説家だったことが分かります。しかし、言論統制がきつかったであろう社会主義政権下のポーランドで、ポーランド作家同盟議長、国会議員などの要職についていたということは、現在ではプラスの評価とはなりえず、それもあって、『尼僧ヨアンナ』の名前は残っても、文学者としては忘れかけられている名前の一人でしょう。
ただ、これも偶然なのかもしれないのですが、本書収録作は皆、歴史上の出来事、あるいは伝説、あるいは言い伝えをベースに書かれたとされており、執筆時点での現実社会なり現実的な人物を扱った作品はありません。仮に、過去を舞台にした小説を好んで描いていた作家なのであれば、それも社会主義体制の中での一種の生きる知恵だったのかもしれないと、好意的に解釈することもできるでしょう。
いろいろ書いてきましたが、こういうことを抜きに、読んでいて面白い作家であることは、間違いありません。お手に取って、損はないと思います。
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「本職」は、本というより映画です。
本を読んでいても、映画好きの視点から、内容を見ていることが多いようです。
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- ISBN:B000JAV07S
- 発売日:2022年04月15日
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