hackerさん
レビュアー:
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「死について、ひとつ確かなことがある。その人が”良い”人で、優しく親身で気のいい人であればあるほど、その人の死が残す傷も小さい」(本書収録『緊急救命室ノート、1977年』より)
「ルシア・ベルリンの小説は、ほぼすべてが彼女の実生活に材をとっている」
これは、同じ訳者によるルシア・ベルリン(1936-2004)の日本初出版となった『掃除婦のための手引書』の訳者あとがきで述べられている文です。『掃除婦のための手引書』は、2015年に刊行された作品集から24作を収録したものでしたが、ここ数年の間に読んだ一人の作家の短篇集としては屈指のものでした。それに続く本書は、同じ底本の残りの19作を収録したものですが、『掃除婦のための手引書』同様、素晴らしい短篇集です。これについて本書の訳者あとがきでは、次のように述べられています。
「ボリュームの関係で底本を二冊に分けて訳すことになったとはいえ、作品の取捨選択についてはほとんど悩まなかった。なぜならこの本は(それを言うならルシア・ベルリンのすべての短篇が)アルバムで言えば捨て曲なし、どの一つをとっても無類に素晴らしいからで、どのように分けても同じくらい面白い二冊にしかなりようがなかったからだ」
実際、その通りです。この二冊の短篇集ほど、濃厚で充実した読書体験を経験させてくれる本は稀でしょう。『掃除婦のための手引書』同様、収録作すべてが素晴らしいものばかりです。そして彼女の作品の魅力の一つは、自分の感情や感覚に実に忠実なことで、読んでいると突如として、世間だの社会だのを気にしていない、あまりにも真実な言葉にぶち当たることで、看護師をしていた時の経験がベース冒にした作品からの引用である冒頭に掲げた文章などは、その一例です。
もう一つ、例を挙げてみます。
「あたし、わかったことがあるの。たいていの人は何も気がつかないし、気がついたとしても気にしやしないのよ」(『哀しみ』の登場人物の台詞)
この作品は、長年確執があり、夫に棄てられて悲嘆にくれている妹と、一見落ち着いているもののアルコール依存症で苦しんでいる作者が、海辺で過ごしたひと時を描いたものです。作者の妹は末期ガンでメキシコで亡くなっているのですが、妹との関係を扱った作品は何作かあって、本書収録作では、着実な死を前にして、何も近い将来には起こらないかのように、好きなことを言い、好きなことをやる妹と、それに付き合う作者と妹の二人の娘を描いた『泣くなんて馬鹿』が、とても好きです。特に、作者と妹が、過去のことをすべて現在形で話をするという、さり気ない描写が深く心に残ります。
また、作者はアルコール依存症に長く苦しみ、それを題材にした作品も何作かありますが、息子の友人と恋仲になり別れようとしても別れられずに二人して酒に溺れる姿を、作者の視点と、弁護士の視点を交互に交えながら語った『笑ってみせてよ』が特に印象的です。
そういう中で、ちょっと珍しいと思うのは、18歳にもならないのにメキシコの田舎からアメリカに出てきて頼る人もないまま母親になった少女の悲劇を描いた『ミヒート』で、これも作者が看護師をしていた時に見聞したことがベースなのでしょうが、作者としては珍しく社会的なテーマを正面から扱ったものです。
と、こんな風に書いていては、とてつもなく長い文章になってしまいますから、個別の作品を紹介するのは、この辺で止めておきます。
繰り返しになりますが、『掃除婦のための手引書』と本書は収録作すべてが素晴らしいものばかりです。文学好きの方ならば、この二冊を読まない手はありません。ただ、その場合、『掃除婦のための手引書』から読むことをお勧めします。理由は二つあって、そちらにはリディア・デイヴィスによるエッセー『物語こそすべて』が収録されていること、そして訳者あとがきに作者の人生が簡単に記述してあることで、この二つを読んでおいた方がルシア・ベルリンを知るためには良いと思うからです。
最後に、私の好きな文章をもう一つ紹介します。
「月だった。ニューメキシコの晴れた晩にでる月みたいな月はほかにはない。サンディア山脈からのぼると、何マイルも続く不毛な砂漠を初雪のようなしんとした白でやさしく覆う。(野良犬の)ライザの黄色い瞳にも、チャイナベリーにも、月の光が落ちていた。
世界はただ続いていく。大事なことなんてこの世に一つもありはしない。本当に意味のある大事なことは、それでもときどきほんの一瞬、こんな風に天の恵みがおとずれて、やっぱり人生にはすごく意味があるんだと思わされる」
これは『野良犬』からの抜粋です。なお、この作品は、ヘロイン中毒治療施設での作者自身を描いたものです。その背景を語っておいての、この文章であることは、言うまでもありません。
おそらくですが、素晴らしい音楽や、素晴らしい映画や、素晴らしい美術品や、素晴らしい建築物に何百回接しても飽くことがないように、ルシア・ベルリンの作品集も、何百回読んでも飽くことはないと思います。
これは、同じ訳者によるルシア・ベルリン(1936-2004)の日本初出版となった『掃除婦のための手引書』の訳者あとがきで述べられている文です。『掃除婦のための手引書』は、2015年に刊行された作品集から24作を収録したものでしたが、ここ数年の間に読んだ一人の作家の短篇集としては屈指のものでした。それに続く本書は、同じ底本の残りの19作を収録したものですが、『掃除婦のための手引書』同様、素晴らしい短篇集です。これについて本書の訳者あとがきでは、次のように述べられています。
「ボリュームの関係で底本を二冊に分けて訳すことになったとはいえ、作品の取捨選択についてはほとんど悩まなかった。なぜならこの本は(それを言うならルシア・ベルリンのすべての短篇が)アルバムで言えば捨て曲なし、どの一つをとっても無類に素晴らしいからで、どのように分けても同じくらい面白い二冊にしかなりようがなかったからだ」
実際、その通りです。この二冊の短篇集ほど、濃厚で充実した読書体験を経験させてくれる本は稀でしょう。『掃除婦のための手引書』同様、収録作すべてが素晴らしいものばかりです。そして彼女の作品の魅力の一つは、自分の感情や感覚に実に忠実なことで、読んでいると突如として、世間だの社会だのを気にしていない、あまりにも真実な言葉にぶち当たることで、看護師をしていた時の経験がベース冒にした作品からの引用である冒頭に掲げた文章などは、その一例です。
もう一つ、例を挙げてみます。
「あたし、わかったことがあるの。たいていの人は何も気がつかないし、気がついたとしても気にしやしないのよ」(『哀しみ』の登場人物の台詞)
この作品は、長年確執があり、夫に棄てられて悲嘆にくれている妹と、一見落ち着いているもののアルコール依存症で苦しんでいる作者が、海辺で過ごしたひと時を描いたものです。作者の妹は末期ガンでメキシコで亡くなっているのですが、妹との関係を扱った作品は何作かあって、本書収録作では、着実な死を前にして、何も近い将来には起こらないかのように、好きなことを言い、好きなことをやる妹と、それに付き合う作者と妹の二人の娘を描いた『泣くなんて馬鹿』が、とても好きです。特に、作者と妹が、過去のことをすべて現在形で話をするという、さり気ない描写が深く心に残ります。
また、作者はアルコール依存症に長く苦しみ、それを題材にした作品も何作かありますが、息子の友人と恋仲になり別れようとしても別れられずに二人して酒に溺れる姿を、作者の視点と、弁護士の視点を交互に交えながら語った『笑ってみせてよ』が特に印象的です。
そういう中で、ちょっと珍しいと思うのは、18歳にもならないのにメキシコの田舎からアメリカに出てきて頼る人もないまま母親になった少女の悲劇を描いた『ミヒート』で、これも作者が看護師をしていた時に見聞したことがベースなのでしょうが、作者としては珍しく社会的なテーマを正面から扱ったものです。
と、こんな風に書いていては、とてつもなく長い文章になってしまいますから、個別の作品を紹介するのは、この辺で止めておきます。
繰り返しになりますが、『掃除婦のための手引書』と本書は収録作すべてが素晴らしいものばかりです。文学好きの方ならば、この二冊を読まない手はありません。ただ、その場合、『掃除婦のための手引書』から読むことをお勧めします。理由は二つあって、そちらにはリディア・デイヴィスによるエッセー『物語こそすべて』が収録されていること、そして訳者あとがきに作者の人生が簡単に記述してあることで、この二つを読んでおいた方がルシア・ベルリンを知るためには良いと思うからです。
最後に、私の好きな文章をもう一つ紹介します。
「月だった。ニューメキシコの晴れた晩にでる月みたいな月はほかにはない。サンディア山脈からのぼると、何マイルも続く不毛な砂漠を初雪のようなしんとした白でやさしく覆う。(野良犬の)ライザの黄色い瞳にも、チャイナベリーにも、月の光が落ちていた。
世界はただ続いていく。大事なことなんてこの世に一つもありはしない。本当に意味のある大事なことは、それでもときどきほんの一瞬、こんな風に天の恵みがおとずれて、やっぱり人生にはすごく意味があるんだと思わされる」
これは『野良犬』からの抜粋です。なお、この作品は、ヘロイン中毒治療施設での作者自身を描いたものです。その背景を語っておいての、この文章であることは、言うまでもありません。
おそらくですが、素晴らしい音楽や、素晴らしい映画や、素晴らしい美術品や、素晴らしい建築物に何百回接しても飽くことがないように、ルシア・ベルリンの作品集も、何百回読んでも飽くことはないと思います。
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「本職」は、本というより映画です。
本を読んでいても、映画好きの視点から、内容を見ていることが多いようです。
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- 出版社:講談社
- ページ数:0
- ISBN:9784065241660
- 発売日:2022年04月22日
- 価格:2640円
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