ゆうちゃんさん
レビュアー:
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星新一の初期の作品を集めたもの。後年の作風を彷彿とさせるようなものはあまりない。ちょっと辛口な評価になってしまった。
星新一の初期短編集である。本書の成立は、彼の初期単行本「人造美人」「ようこそ地球さん」を文庫化するにあたって、両者からピックアップして幾つかの短編を加えた「ボッコちゃん」を刊行したので、両者から選に漏れた残りを再度「ようこそ地球さん」の題名を採用して文庫にしたとのこと。「ようこそ地球さん」というショートショートはなく、これは、1961年にスプートニク打ち上げが成功した時、週刊朝日が特集を組み、星新一が3編を寄稿したことに由来する。それらは「不満」「神々の作法」「すばらしい天体」で、「ようこそ宇宙へ」という題名で載せようとしたが、宇宙特集故に、目次に「宇宙」が多くなってしまったと編集に言われ、「ようこそ地球さん」にしたようだ。当時、星新一は若かったのだろうから、編集も改題を言いやすかったのではないか。
その3編だが「不満」は宇宙ロケットに無理やり乗せられる「俺」の話。「俺」は、ある異星人の宇宙船に拾われたが、不満たらたらで、「俺」の意思に反してロケットに乗せる様な残酷な自星にミサイルを撃ち込んでしまえ、と異星人に頼むのだが・・。「神々の作法」はある星に来た宇宙人(実はその宇宙人は最後に読者には地球人だとわかる)の話。そこには住民がいて、住民の王はその宇宙人を神だと思ったが、どのように歓迎してよいかわからない。ところが、もうひとつ同じ星から来たらしい宇宙船がやってくる。最初に来た宇宙人と後から来た宇宙人のやり取りを見て王は、歓迎の仕方がわかったという落ち。本書は後述の通り、星新一らしからぬ、落ちの冴えがない作品が多いが、このふたつの作品は、掲載時の初期宇宙開発競争の時代背景を踏まえた、いかにも星新一らしい良い落ちである。ただ、作品に時代性を感じさせないと言う後年の星新一のスタイルからは外れている。「すばらしい天体」は保養地に最適な星に到達した宇宙探検隊の話である。これだけは、3編のうち米ソの宇宙開発競争を皮肉った内容とは違うものとなっている。
星新一の作品は古びないのが特徴だが、本人があとがきでその例外と認めているショートショート「探検隊」が本書にはある。これは巨大な宇宙船が地球のある村に降り立つのが発端。その宇宙人は巨人だが、村を破壊などせず単に調査に来ただけだったようだ。ところが彼らには村人が怪獣と呼ぶゾウの10倍はありそうな乗り物の動物2頭を連れて来ていた。その宇宙人たちは、怪獣2頭をおいて飛び去ってしまうが、怪獣たちはその後、村で大暴れし死者も沢山出た。春になり宇宙船が戻って来ると、巨人たちは怪獣を見てほおずりして喜んだ。これが落ちなのだが、何の話か分かる人はなかなか居ないだろう。星新一は南極観測隊がカラフト犬を置いて行って、1年後に戻るとタロとジロが生き残っていたという話に反発を感じたようだ。勿論、何故犬を連れて帰れなかったのかという点にも反発はあるのだろうが、星新一が最も反発を感じたのはタロとジロがペンギンなどを食って生き延びたのに、当時の日本人は単なる美談として、南極で餌となった生き物のことを全く顧慮しなかった点である。このショートショートは巨人が日本人越冬隊、怪獣はカラフト犬、村人はペンギンである。
本書全般から感じるのは、落ちが冴えない作品が多いと言うことだ。初期の作品というせいもあるかもしれない。例えば「雨」は地球全体が氷に覆われる未来の氷河期の話。この作品が書かれた当時は、地球史において全球凍結現象など知られていなかったのでこのアイデアにはまず惹かれたのだが・・。こんな時代なので食料は政府の配給する深海魚しかない。肉を食いたいと言う妻の願いに応じ、読書家の夫はその知識からタイムマシンを作製していた。過去に行き大きな獣を捕獲してその時代に連れて来て肉にして食べようと言うのである。まんまとこの計画は成功するが・・。落ちは、その獣が途中で小便をすること。夫はそれも対策済で、タイムマシンに排水設備を備えて小便を機外に捨てた。1960年代のある都市のレストラン、店から出て来た男女は虹を見てロマンチックだと思う。その虹は件の獣の小便だった。評者のようなアマチュアが言ってはいけないことだが、落ちと本筋が遊離しており、後世の星新一はこんな風にしなかったのではないかと思う。全てそういう作品ではないが、こういった傾向の作品が印象に残ってしまった。「セキストラ」は商業誌に初採用の作品で南米のインカ帝国に絡めた日本人のある発明に関する物語である。だが落ちはたんなるダジャレでがっくりだった。「ずれ」は、マンションかビルの住人がシューター・サービス会社に何でも注文できるという時代の作品。何か注文するとシューターにそれが送られてくる。4人の人物がそれぞれ欲しいものを注文するが、それらがひとつずつずれて配送されると言うもの。シャワーを浴びて出て来た全裸の女性が、間違って送られて来た物品に困ると言う場面があって、中学生当時に買ったものだからこの場面はよく覚えているが、結果からすると落ちを投げてしまっているように読める。
また「処刑」や「殉教」は、人生の意義を問うような、いわば純文学的な作品でもある。こういう作品になると、ショートショートとしては長い20~30頁の短編となってしまう。それが悪いと言う訳ではないが、当然のことならが、落ちは、ある意味、どこかで聞いたような人生論になってしまっている。
これまでも海外の作家を中心に、作家の初期の作品を読むと作家理解につながると書いて来たが、本書を読むと後の作品群とはかなり作風が異なり、星新一に関してはこの考え方はあてはまらないかな、と思った。
その3編だが「不満」は宇宙ロケットに無理やり乗せられる「俺」の話。「俺」は、ある異星人の宇宙船に拾われたが、不満たらたらで、「俺」の意思に反してロケットに乗せる様な残酷な自星にミサイルを撃ち込んでしまえ、と異星人に頼むのだが・・。「神々の作法」はある星に来た宇宙人(実はその宇宙人は最後に読者には地球人だとわかる)の話。そこには住民がいて、住民の王はその宇宙人を神だと思ったが、どのように歓迎してよいかわからない。ところが、もうひとつ同じ星から来たらしい宇宙船がやってくる。最初に来た宇宙人と後から来た宇宙人のやり取りを見て王は、歓迎の仕方がわかったという落ち。本書は後述の通り、星新一らしからぬ、落ちの冴えがない作品が多いが、このふたつの作品は、掲載時の初期宇宙開発競争の時代背景を踏まえた、いかにも星新一らしい良い落ちである。ただ、作品に時代性を感じさせないと言う後年の星新一のスタイルからは外れている。「すばらしい天体」は保養地に最適な星に到達した宇宙探検隊の話である。これだけは、3編のうち米ソの宇宙開発競争を皮肉った内容とは違うものとなっている。
星新一の作品は古びないのが特徴だが、本人があとがきでその例外と認めているショートショート「探検隊」が本書にはある。これは巨大な宇宙船が地球のある村に降り立つのが発端。その宇宙人は巨人だが、村を破壊などせず単に調査に来ただけだったようだ。ところが彼らには村人が怪獣と呼ぶゾウの10倍はありそうな乗り物の動物2頭を連れて来ていた。その宇宙人たちは、怪獣2頭をおいて飛び去ってしまうが、怪獣たちはその後、村で大暴れし死者も沢山出た。春になり宇宙船が戻って来ると、巨人たちは怪獣を見てほおずりして喜んだ。これが落ちなのだが、何の話か分かる人はなかなか居ないだろう。星新一は南極観測隊がカラフト犬を置いて行って、1年後に戻るとタロとジロが生き残っていたという話に反発を感じたようだ。勿論、何故犬を連れて帰れなかったのかという点にも反発はあるのだろうが、星新一が最も反発を感じたのはタロとジロがペンギンなどを食って生き延びたのに、当時の日本人は単なる美談として、南極で餌となった生き物のことを全く顧慮しなかった点である。このショートショートは巨人が日本人越冬隊、怪獣はカラフト犬、村人はペンギンである。
本書全般から感じるのは、落ちが冴えない作品が多いと言うことだ。初期の作品というせいもあるかもしれない。例えば「雨」は地球全体が氷に覆われる未来の氷河期の話。この作品が書かれた当時は、地球史において全球凍結現象など知られていなかったのでこのアイデアにはまず惹かれたのだが・・。こんな時代なので食料は政府の配給する深海魚しかない。肉を食いたいと言う妻の願いに応じ、読書家の夫はその知識からタイムマシンを作製していた。過去に行き大きな獣を捕獲してその時代に連れて来て肉にして食べようと言うのである。まんまとこの計画は成功するが・・。落ちは、その獣が途中で小便をすること。夫はそれも対策済で、タイムマシンに排水設備を備えて小便を機外に捨てた。1960年代のある都市のレストラン、店から出て来た男女は虹を見てロマンチックだと思う。その虹は件の獣の小便だった。評者のようなアマチュアが言ってはいけないことだが、落ちと本筋が遊離しており、後世の星新一はこんな風にしなかったのではないかと思う。全てそういう作品ではないが、こういった傾向の作品が印象に残ってしまった。「セキストラ」は商業誌に初採用の作品で南米のインカ帝国に絡めた日本人のある発明に関する物語である。だが落ちはたんなるダジャレでがっくりだった。「ずれ」は、マンションかビルの住人がシューター・サービス会社に何でも注文できるという時代の作品。何か注文するとシューターにそれが送られてくる。4人の人物がそれぞれ欲しいものを注文するが、それらがひとつずつずれて配送されると言うもの。シャワーを浴びて出て来た全裸の女性が、間違って送られて来た物品に困ると言う場面があって、中学生当時に買ったものだからこの場面はよく覚えているが、結果からすると落ちを投げてしまっているように読める。
また「処刑」や「殉教」は、人生の意義を問うような、いわば純文学的な作品でもある。こういう作品になると、ショートショートとしては長い20~30頁の短編となってしまう。それが悪いと言う訳ではないが、当然のことならが、落ちは、ある意味、どこかで聞いたような人生論になってしまっている。
これまでも海外の作家を中心に、作家の初期の作品を読むと作家理解につながると書いて来たが、本書を読むと後の作品群とはかなり作風が異なり、星新一に関してはこの考え方はあてはまらないかな、と思った。
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神奈川県に住むサラリーマン(技術者)でしたが24年2月に会社を退職して今は無職です。
読書歴は大学の頃に遡ります。粗筋や感想をメモするようになりましたのはここ10年程ですので、若い頃に読んだ作品を再読した投稿が多いです。元々海外純文学と推理小説、そして海外の歴史小説が自分の好きな分野でした。しかし、最近は、文明論、科学ノンフィクション、音楽などにも興味が広がってきました。投稿するからには評価出来ない作品もきっちりと読もうと心掛けています。どうかよろしくお願い致します。
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- 出版社:新潮社
- ページ数:372
- ISBN:9784101098029
- 発売日:1972年06月01日
- 価格:580円
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