かもめ通信さん
レビュアー:
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ああこれはまさに“打ちのめされるようなすごい本”だ。
原題は“Gehen, ging, gegangen.”
行く、行った、行ってしまった、ドイツ語不規則動詞の活用だ。
いずれにせよ、大学を定年で退官した古典文献学の教授リヒャルトはもう、
毎朝決まった時間に起きる必要はなく、ただ時間があるばかり。
「成功」は手に入れた。
でもこれからは?
旅行をする?本を読む?音楽を聴く?
妻は既に他界し、子や孫はいない。
かつては若い愛人もいたが、後味の悪い別れ方をしてから長い年月が経っていた。
時間があることになれるのにどれほどの時間が必要なのだろうか。
そんなある日、偶然目にしたTVのニュースが彼の注意を引く。
「我々は目に見える存在になる」と英語で書かれたプラカードを掲げて、
アレクサンダー広場でアフリカ難民がハンガーストライキをしているというのだ。
その日、公園を横切ったはずのリヒャルトの目にはなにも映らなかったのに。
その後、リヒャルトは、オラニエン広場でも
別の難民たちがテントを張って生活していることを知る。
しかも一年も前から。
難民たちはベルリン州政府と合意を結んで広場から立ち退くが、
彼らの一部は、長らく空き家だった郊外の元高齢者施設に収容される。
彼らに関心を持ったリヒャルトは、施設を訪ね、彼らの話を直接聞いてみることに。
彼らの話す言語はもちろん、アフリカの地理さえも、よく知らなかったリヒャルトは
自宅で世界地図を広げて会話に出てきた場所を確認してみたりもするのだが、
「どこから来たの?」という問いへのある青年の答えにハッとする。
「砂漠から」
国とは、国境とはなんだろうか。
アフリカから逃げてきた男たちの多くは、アフリカ各地から、
カダフィ政権の下で豊富な石油資源を背景に経済的に繁栄していたリビアへと移住し、
仕事や家庭を持ってごく普通に生活していた。
ところが内戦が勃発し、家族を失って
軍に捕えられ、強制的にボートに押し込まれ地中海へと追いやられた。
命からがらやっとの思い出辿り着いたイタリアで訳も分からないまま難民登録するも、
しばらくすると収容施設を追い出され、仕事も金もなくドイツへと流れてきたのだった。
やがてリヒャルトは理解する。
難民は最初に入ったシェンゲン協定適用圏内の国で庇護申請しなければならない。
つまり、ダブリンⅡ規約によって、地中海に面していないすべてのヨーロッパの国々は、
地中海を渡ってやってくる難民たちの話を聞かずに済む権利を買ったのだ、と。
足繁く施設を訪ね、インタビューを繰り返すうちに、
リヒャルトは徐々に彼らと親しくなっていく。
ドイツ語の授業の教師役も引き受けたリヒャルトにとって
難民たちとの交流は、日常生活の一部となり、
同時に彼らの置かれた厳しい状況から目を背けることが出来なくなっていくのだった。
たとえば“トリスタン”の場合。
イタリアを経由してドイツに入ったこと
リビアで育っていたとしても生まれたのがガーナだということ
ガーナは安全な国とみなされているということ
こうした事実が彼の「認定」を幾重にも阻む。
自分の中にあった差別や偏見を直視する時間でもある。
そしてまたリヒャルト自身の過去、ある日突然、一晩のうちに「ドイツ民主共和国」の市民から「ドイツ連邦共和国」の市民になり、地図は描き替えられたあの頃の記憶を激しく揺さぶりもする。
昔、まだ壁があった頃、西側に行こうとして射殺された人がいた。
難民たちを阻む新たな「壁」の前にリヒャルトは考える。
「壁」は敵を生む。
他のどこでもないこのベルリンの地でも、人々はそのことを忘れ去ってしまったのだろうか?と。
難民問題という深刻なテーマを扱ってはいるが、語り口は静かで時にユーモラスですらある。
リヒャルトは決して聖人君子的な存在ではなく、若い女性にはすぐ言い寄りたくなるらしいし、難民たちの名前が覚えづらいからと、勝手にギリシャ神話にちなんだあだ名をつけて呼んでいたりもする。
それでもこの初老の教授を通して、読者もまた次第に難民たちとの距離を縮めていく。
結末は少々甘い気はするが、かえってそれが、この問題もこの物語の登場人物たちにも、まだまだ厳しい前途が待ち受けているあかしだといえるのかもしれない。
行く、行った、行ってしまった、ドイツ語不規則動詞の活用だ。
未来はこれからまだ何年も続くかもしれないし、
ほんの数年しか続かないのかもしれない。
いずれにせよ、大学を定年で退官した古典文献学の教授リヒャルトはもう、
毎朝決まった時間に起きる必要はなく、ただ時間があるばかり。
「成功」は手に入れた。
でもこれからは?
旅行をする?本を読む?音楽を聴く?
妻は既に他界し、子や孫はいない。
かつては若い愛人もいたが、後味の悪い別れ方をしてから長い年月が経っていた。
時間があることになれるのにどれほどの時間が必要なのだろうか。
これから一日中誰とも話さずひとりで過ごすとなったら、と生真面目に考えていた。
正気を失わないよう気をつけなければ
そんなある日、偶然目にしたTVのニュースが彼の注意を引く。
「我々は目に見える存在になる」と英語で書かれたプラカードを掲げて、
アレクサンダー広場でアフリカ難民がハンガーストライキをしているというのだ。
その日、公園を横切ったはずのリヒャルトの目にはなにも映らなかったのに。
その後、リヒャルトは、オラニエン広場でも
別の難民たちがテントを張って生活していることを知る。
しかも一年も前から。
難民たちはベルリン州政府と合意を結んで広場から立ち退くが、
彼らの一部は、長らく空き家だった郊外の元高齢者施設に収容される。
彼らに関心を持ったリヒャルトは、施設を訪ね、彼らの話を直接聞いてみることに。
彼らの話す言語はもちろん、アフリカの地理さえも、よく知らなかったリヒャルトは
自宅で世界地図を広げて会話に出てきた場所を確認してみたりもするのだが、
「どこから来たの?」という問いへのある青年の答えにハッとする。
「砂漠から」
国とは、国境とはなんだろうか。
アフリカから逃げてきた男たちの多くは、アフリカ各地から、
カダフィ政権の下で豊富な石油資源を背景に経済的に繁栄していたリビアへと移住し、
仕事や家庭を持ってごく普通に生活していた。
ところが内戦が勃発し、家族を失って
軍に捕えられ、強制的にボートに押し込まれ地中海へと追いやられた。
命からがらやっとの思い出辿り着いたイタリアで訳も分からないまま難民登録するも、
しばらくすると収容施設を追い出され、仕事も金もなくドイツへと流れてきたのだった。
やがてリヒャルトは理解する。
難民は最初に入ったシェンゲン協定適用圏内の国で庇護申請しなければならない。
つまり、ダブリンⅡ規約によって、地中海に面していないすべてのヨーロッパの国々は、
地中海を渡ってやってくる難民たちの話を聞かずに済む権利を買ったのだ、と。
足繁く施設を訪ね、インタビューを繰り返すうちに、
リヒャルトは徐々に彼らと親しくなっていく。
ドイツ語の授業の教師役も引き受けたリヒャルトにとって
難民たちとの交流は、日常生活の一部となり、
同時に彼らの置かれた厳しい状況から目を背けることが出来なくなっていくのだった。
たとえば“トリスタン”の場合。
イタリアを経由してドイツに入ったこと
リビアで育っていたとしても生まれたのがガーナだということ
ガーナは安全な国とみなされているということ
こうした事実が彼の「認定」を幾重にも阻む。
自分の中にあった差別や偏見を直視する時間でもある。
人生のほとんどの時間、リヒャルトは心の片隅のどこかで、アフリカの人たちは自分たちほど死者を悼まないのではないかと思ってきた。アフリカでは昔からずっと人がたくさん死んできたからだ。いま、その心の片隅には、代わりに恥がある。人生のほとんどの時間を、そんなふうに軽々しく考えてきたことに対する恥が。 (p204)
そしてまたリヒャルト自身の過去、ある日突然、一晩のうちに「ドイツ民主共和国」の市民から「ドイツ連邦共和国」の市民になり、地図は描き替えられたあの頃の記憶を激しく揺さぶりもする。
昔、まだ壁があった頃、西側に行こうとして射殺された人がいた。
難民たちを阻む新たな「壁」の前にリヒャルトは考える。
「壁」は敵を生む。
他のどこでもないこのベルリンの地でも、人々はそのことを忘れ去ってしまったのだろうか?と。
どこへ行けばいいか/わからないとき、/人はどこへ行くのだろう?
難民問題という深刻なテーマを扱ってはいるが、語り口は静かで時にユーモラスですらある。
リヒャルトは決して聖人君子的な存在ではなく、若い女性にはすぐ言い寄りたくなるらしいし、難民たちの名前が覚えづらいからと、勝手にギリシャ神話にちなんだあだ名をつけて呼んでいたりもする。
それでもこの初老の教授を通して、読者もまた次第に難民たちとの距離を縮めていく。
結末は少々甘い気はするが、かえってそれが、この問題もこの物語の登場人物たちにも、まだまだ厳しい前途が待ち受けているあかしだといえるのかもしれない。
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本も食べ物も後味の悪くないものが好きです。気に入ると何度でも同じ本を読みますが、読まず嫌いも多いかも。2020.10.1からサイト献本書評以外は原則★なし(超絶お気に入り本のみ5つ★を表示)で投稿しています。
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- 出版社:白水社
- ページ数:0
- ISBN:9784560090688
- 発売日:2021年07月15日
- 価格:3630円
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