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紅い芥子粒
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1936年8月1日。ナチス・ドイツの威信をかけて、ベルリン・オリンピックの幕が開いた。
巻末に、作者による三篇の「あとがき」が付されている。

「あとがきⅠ」は、1998年3月。集英社から単行本として刊行されたときのもの。
「あとがきⅡ」は、2020年3月。二度目の東京オリンピックを前に、新潮文庫版として刊行される予定だった時のもの。オリンピックの延期とともに、本の発行も延期となった。
「あとがきⅢ」は、2021年4月。もう延期も中止もない。それは、オリンピックも本も同じ。

「あとがきⅠ」の1998年から振り返っても、1936年のベルリン・オリンピックは60年も前の出来事である。当時の新聞雑誌の記事、生存している当事者の証言、記録映画「オリンピア」の映像をもとに、著者は第十一回オリンピックの再現を試みる。

第十一回オリンピックの開催地がベルリンに決まったのは、1931年のこと。
その二年後の1933年1月、ナチスは政権を奪取する。
ナチスの人種差別政策に抗議して、アメリカやヨーロッパの国々にボイコット運動が起きるが、ヒトラーは表面をとりつくろうことで開催にこぎつけた。オリンピックの期間中は、ベルリンの街からユダヤ人迫害のポスターが消えたという。
何としても成功させ、国際社会に名乗りをあげたいーーナチス・ドイツの威信をかけたオリンピックだったのだ。

開会式は、1936年8月1日。参加国は51。4000人の選手と2000人の役員。
参加国は52の予定だったが、直前にスペインに内乱が勃発し、スペインの選手団は、帰国してしまっていた。それでも、史上最大の大会だった。

この日のために建設された、十万人収容の壮麗な競技場。
オープンカーに乗ったヒトラーが登場すると、観衆は熱狂的な歓呼の声で迎えた。
鳴り響くファンファーレ。貴賓席に着いたヒトラー。参加国の国旗掲揚。荘厳な「オリンピックの鐘」の音。鐘が鳴り終わると、各国選手団の入場行進が始まった。

天気は快晴、とはいかなかった。重く垂れこめた曇り空。
日本選手団は、二十七番目に入場した。
灰色の地味な服装で、評判は散々だったいう。
あれは、ドイツでは囚人の服だ、なんていわれたらしい。
平和の祭典だというのに、日本の男子選手は戦闘帽を被らされていたという。

当時、日本からヨーロッパに行くには、陸路と海路しかなかった。
陸路は、シベリア鉄道に乗ってモスクワ経由で。
海路は、インド洋からスエズ運河を抜けて地中海へ。
馬術の選手は馬を連れていたから海路で、他の競技の選手たちは陸路でベルリンに向かった。海路だと35日余り、陸路でも十二、三日はかかったという。

長旅の疲れをものともせず、陸上でも水泳でも、日本代表選手の活躍はめざましく、六個の金メダルを獲得した。
その中には、「前畑ガンバレ」の実況放送で伝説化した前畑秀子や、マラソンの孫基禎がいる。

孫基禎は、朝鮮半島出身の選手だ。
それなのに、自分は「日の丸」をつけて走った。勝者をたたえる国旗掲揚台には「日の丸」が揚がり、「君が代」が流れる。このときほど、亡国の悲しみを痛切に感じたことはなかったという。
孫が故国に戻っても、朝鮮総督府は、どんな祝賀会にも出席することを許さなかった。祝賀会の開催さえ許されなかった。故国でインタビューを受けても、母国語で答えることは許されなかった。孫の話す日本語に通訳がついたという。
彼は以後、マラソンを走ることはなかった。

開会式の前日に、1940年のオリンピックの開催地が、東京に決まっていた。
ベルリンオリンピックで実力が発揮できた選手も、リベンジを誓った選手も、自国で開催されるオリンピックを大きな目標にしたに違いない。
しかし、日本は戦争に突き進んだ。
選手の多くが、戦場に駆り出され、命を落とした。
1940東京オリンピックは、幻となって消えた。

いま、コロナ禍で二度目の東京オリンピックが開かれようとしている。
中止すべきという意見もあるが、もう止めようがない。

著者は、「あとがきⅢ」を、こう結んでいる。

 なんと可哀そうな「二度目の東京オリンピック」さん。
いま、その可哀そうな「二度目の東京オリンピック」さんを前に、私はどのように対応したらいいか迷っている。
 以前と同じように、あくまで「大儀」のない大会として黙ってやり過ごせばいいのか。あるいは、惨めで哀れな大会だからこそ、最後まですべてを見届けてあげるべきなのか。
 さて……。


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紅い芥子粒
紅い芥子粒 さん本が好き!1級(書評数:559 件)

読書は、登山のようなものだと思っています。読み終わるまでが上り、考えて感想や書評を書き終えるまでが下り。頂上からどんな景色が見られるか、ワクワクしながら読書という登山を楽しんでいます。

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