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ぽんきち
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「他人は話した。今度は私が話す番だ!」 饒舌すぎるほど饒舌な語りの向こうに見えてくる真の姿はどのようなものか?
アドルフ・アイヒマン(1906-1962)。ナチ親衛隊員にして、ユダヤ人移送局長官。多くのユダヤ人の収容所移送で指導的役割を果たし、つまりは大量殺戮の一端を担った人物である。戦後はアルゼンチンに逃れ、潜伏生活を送っていたが、1960年、イスラエル諜報特務庁(モサド)に捕らえられ、イスラエルに連行される。そこで裁判に掛けられ、絞首刑に処される。
イスラエルでの裁判を傍聴し、その顛末を記したのが、ハンナ・アーレントによる『イェルサレムのアイヒマン―悪の陳腐さについての報告』である。アイヒマンは裁判で、一貫して自らの責任を認めなかった。大量殺人など自分は知らなかった。ただ官僚として職務を果たしただけである。自分の職務は移送のみで、その先に何があったかは感知するものではなかった。自分はユダヤ人に害意などなかったのだ、と。アーレントは著書の中で、アイヒマンの「悪」を「陳腐(banality)」と呼ぶ。強大で邪なものではなくとも、唯々諾々と命令に従うものがいれば、何百万人もの殺戮が可能であるのだ。それはむしろ、なまじ強大なものよりもよほど怖ろしいことであるのかもしれない。

アーレントの著作は物議を醸した。批判も大きかったが、人々に衝撃を与える考察を含み、アイヒマンを考えるうえで、避けては通れない著作となった。
だが、実のところ、その時点では十分には明らかになっていない一連の資料があった。それがアルゼンチン潜伏時代のアイヒマンの記録である。
ジャーナリストであるヴィレム・サッセンはアルゼンチン時代にアイヒマンの知己を得て、インタビューに成功している。1対1のものではなく、アイヒマンを囲み、何人かが話を聞く、座談会のようなものである。この間、テープが回され、のちにこの録音がテープ起こしされて、大量のトランスクリプトが生まれた。
これに加えて、アイヒマン自身の手稿も整理され、1300ページを超える書類となった。
冒頭の「他人は話した。今度は私が話す番だ!」というのは、アイヒマンによる1956年の手稿の一節である。自身についてさまざまなことが語られているが、そろそろ俺にも話させろ、というわけだ。そこには、アイヒマン裁判で見せた顔とは異なる顔が覗く。

本書はアルゼンチン資料をもとに、エルサレム「以前」、つまりアルゼンチン時代、そして法廷に立つ前のアイヒマンの「真の」姿に迫ろうというものである。もちろん、タイトルが示唆するように、本書もまた、アーレントの巨大な著作に向き合おうというものでもある。

読みにくい手書き文字、時に誰が話したか判然としないトランスクリプトの分析は、相当の困難を要したことは想像に難くない。しかもアイヒマンは饒舌で執筆意欲も高く、とにかく資料が膨大である。何しろエルサレムにいる間だけでも8000ページもの雑多な文書を遺したというのだから、潜伏時代にどれほどのものを書き散らしたのか推して知るべしである。
それらを読み解いていくと、彼が受け身なだけの人物ではなく、復権を願っていたこと、ユダヤ人に対する敵意があったこと、(ぼんやりとではあっても)敵(イスラエル)の敵である「東方」と組む構想もあったことなども見えてくる。
彼はナチス時代を悔いていたり恥じていたりしたわけではなかった。むしろ、公的生活に戻るにはどういった手立てがあるのか、自らの「名誉」を取り戻すにはどうすればよいのか、ずっと考え続けていた節がある。
これらの資料はアイヒマン裁判の時点では十分に明らかになってはいなかった。
アイヒマンは、無知であったふりをして、死刑を逃れようとしたが失敗した、という見方もできる。彼の演技にアーレントも一部、乗せられた面も否定できない。

アイヒマンの思想に加え、アルゼンチンでの生活ぶりも興味深い。当時のアルゼンチンにはナチスも多く逃れ、一種のコミュニティが出来ていたという。社交もあったし、仕事の紹介なども互いに行っていたようだ。
同時に、ユダヤ人でも南米に逃れた人が多く、実は隣人がかつての仇敵ということも珍しくなかったようだ。

アイヒマンについては、アイヒマン自身が遺した記録に加え、多くの研究も続けられており、全貌を解きほぐすのは相当な労力を要するだろう。いや、そもそも「全貌」などわからないのかもしれない。
ことを困難にしているのは、アイヒマンに関わる人物も多いことだろう。すべてが明るみに出た場合、まずい立場に立たされる人は今現在でもそれなりにいるのではないだろうか。これはそれほど遠い昔のことではないのだから。

著者は日本の読者向けのあとがきも記している。ともかくも長大で、そして決して愉快ではない本作は、以下の言葉で締められる。
起きなければよかったこと、本当は誰も語る必要などなければよかったことについて書かねばならなかった旅路を、ともにたどってくださることに感謝します。私たちの子孫が過去を探求するときには、これほどの力を求められないように、全力を尽くしたいものです!

研究者諸氏の地道な努力に敬意を表したい。
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ぽんきち
ぽんきち さん本が好き!免許皆伝(書評数:1827 件)

分子生物学・生化学周辺の実務翻訳をしています。

本の大海を漂流中。
日々是好日。どんな本との出会いも素敵だ。

あちらこちらとつまみ食いの読書ですが、点が線に、線が面になっていくといいなと思っています。

「実感」を求めて読書しているように思います。

赤柴♀(もも)は3代目。
この夏、有精卵からヒヨコ4羽を孵化させました。そろそろ大雛かな。♂x2、♀x2。ニワトリは割と人に懐くものらしいですが、今のところ、懐く気配はありませんw

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この書評へのコメント

  1. かもめ通信2021-08-03 07:03

    検証を続ける…というつながりで、みすずの本ではないのですが、
    読み始めたばかりのこの本もすごい労作で、いろいろ考えさせられます。

  2. ぽんきち2021-08-03 08:49

    アイヒマンについては、後からの解釈の部分も膨大になり過ぎて、実像が見えにくくなっている部分があるのではないかと思います。
    アイヒマン実験というのもありましたけど、その辺も考え直す必要があるのかも。

    あとは、民族への差別という意味では一般化はできるけれども、やはりユダヤ人問題は感覚として日本人には「わかりにくい」のかなと思ったり。著者さんのあとがきで日本人読者がいることへの若干の戸惑いがありましたが、それはそれでわかるような気はします。

    ご紹介の本、共和国さんのレンガ本ですよね。
    レビュー、楽しみにお待ちしています。

  3. noel2021-08-03 12:33

    いつも言っていることですが、歴史の当事者はその全体を把握できず、どうしても当時のことを憶い出すには後出し的なものになりがちです。後で言うのは、いくらでも言えますが、当事者はそこに「いる」だけで精一杯なのです。

  4. ぽんきち2021-08-03 13:05

    そうですねぇ・・・。

    私はずっと「渦中」にいたら、私はどこにいて、何をしていたのか、考え続けているような気がします。なかなか答えは出ないのですが。

  5. noel2021-08-03 22:27

    まさに「渦中」ということばがいちばん適切だと思います。わたしはそれを「途上の真」と呼んでいます。その時には真でも後になって「偽」となる可能性も含んでの「真」です。

  6. No Image

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