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紅い芥子粒
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関東大震災で逮捕され、独房で縊死した金子文子。彼女は、獄中で自らの過酷な生い立ちを書き綴っていた。その手記は、同志であり最愛の人である朴烈への求婚で終わっている……
1923年9月1日、午前11時58分32秒、関東大地震発生。
その後も続く余震。倒壊する家々、燃え上がる街。逃げまどう人々の間に、あるうわさが流れる。
「社会主義者や朝鮮人が、火をつけた」「井戸に毒を入れた」
9月1日の夜から、軍隊・警察官・民衆の手による朝鮮人虐殺事件が起こる。
3日の夜、東京府豊多摩郡に住んでいた金子文子は、夫の朴烈とともに、保護検束の名目で逮捕拘留された。
金子文子と朴烈は、「社会主義でもなく、民族主義でもなく、只反逆ということ」を精神とする結社『不逞社』の発起人であり主宰者だった。
1925年の秋、文子は、判事に命じられ自らの生い立ちの記を書き始める。
1926年2月26日公判が開始され、3月25日、文子と朴烈に死刑判決が下された。
4月5日に恩赦で無期懲役に減刑されたが、文子はこれを拒否。
彼女が独房で縊死したのは、同年の7月23日早朝だった。享年23歳。

『何が私をこうさせたか』は、金子文子が獄中でしたためた手記である。
文子の過酷な生い立ちがつづられている。

父と母は正式に結婚しておらず、文子には戸籍がなかった。
父は文子が5歳のときオンナをつくって家を出て行った。
母は、文子を山梨の実家に置き去りにして再婚した。
9歳のとき、父方の祖母が迎えにきて、当時植民地だった朝鮮に連れて行かれた。
祖母の家は、大地主で高利貸しだったが、文子は女中のようにあつかわれた。
食事も満足に与えられず、体罰を受け、家事労働に酷使された。
学校だけが救いだった。
文子に親切にしてくれたのは、日本人に搾取されていた貧しい朝鮮人だった。
16歳のとき、文子は、朝鮮の祖母の家を出た。
日本に帰り、山梨や静岡の親戚の家を転々としながら勉学と自立の道を探った。
17歳で東京に出て、苦学を始める。
新聞店、石鹸の行商、女中と、職をかえながら、英語や数学の専門学校に通う。
どこも低賃金の長時間労働で、生活も勉学も成り立たない。
苦しい生活の中で、キリスト者や社会主義者と出会う。男から性暴力を受ける。不実で身勝手な男に傷つき、憤る。
そして、ついに運命の人、朴烈との出会い……

手記は、文子が朴烈に求婚し、受け入れられたところで終わっている。
そのとき、文子は幸福であったにちがいない。
炉辺の小さなしあわせからは遠い。もとより文子はそんなことは望んでいなかった。
国家や権力への”反逆”を仕事ととして、愛する人といのちをかける……

さらに苛烈な運命が彼女を待ち受けているとわかってはいても、苦しい生い立ちを読んできたわたしは、彼女の愛の成就に救われたような気持になった。

朴烈は、獄中で戦争の時代を生き延び、1945年の日本の敗戦で出獄する。
民族運動に邁進し、1974年に77歳で平壌で死去した。
金子文子の遺骨は朴烈の実家にひきとられ、朝鮮の地に眠っている。
彼女の魂は、きっと夫が死ぬまで、彼と共にあったのだろう。

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紅い芥子粒
紅い芥子粒 さん本が好き!1級(書評数:560 件)

読書は、登山のようなものだと思っています。読み終わるまでが上り、考えて感想や書評を書き終えるまでが下り。頂上からどんな景色が見られるか、ワクワクしながら読書という登山を楽しんでいます。

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