紅い芥子粒さん
レビュアー:
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主人公は、生涯”お嬢さん”と呼ばれた女性。彼女の人生には、恋も友情も冒険もない。夫もいないし子もいない。ひたすら蓄財と倹約に励んだ一生だった。作者は、1961年にノーベル文学賞を受賞している。
図書館で借りて読んだ。どうして借りちゃったんだろうと思うぐらい地味で、読後感がどんよりする物語だった。
お嬢さんが、ベオグラードの自宅で死んでいるところから物語は始まる。
1935年2月のこと。
発見者は郵便配達夫だった。前日も前々日も、ベルを鳴らしても応答がなかったので、不審に思って家の周囲をぐるっとまわって窓からのぞいてみたら、いつもと同じ黒い服に身を包んだお嬢さんが、仰向けに倒れていたというわけだ。
かれこれ五十にもなるお嬢さんは、尋常ではない倹約家として有名だった。
倹約といえば聞こえがいいが、要するにケチなのである。
町の人たちは、ヒソヒソお嬢さんのうわさをしていた。
ほんとはすごくお金持ちなのよ、とか、いやいや見てのとおりの貧乏なのさ、とか……
”お嬢さん”と呼ばれていたのは、結婚していないからだ。
彼女は、1919年にサラエボから母親とともに引っ越してきた。母親は、ふつうに人付き合いをする人だったが、二年ばかりで死んでしまった。以来、同居人はなく、訪れる人もなく、世間とも交わらず、お嬢さんは、サラエボから送られてくる家賃と貯蓄で暮らしていた。
彼女にとって倹約は美徳だった。服や靴下を繕って、繕って、繕って、繕いすぎて小さくなり、体に合わず、不具合極まりなくなっても、それは倹約の証であり、大いなる悦びとなるのだった。
1935年の2月のある日、燃料をケチって、細々と薪を燃やした暖炉の前で靴下を繕いながら、お嬢さんは自分の人生を回想する。死が近くなると、走馬灯のように過ぎし日が脳裏を駆け巡るという、アレである。
お嬢さんの父親は、セルビア人の高名な商人だった。ボスニアの田舎町に生まれたが、オーストラリア領となったサラエボに出て、サラエボの旧家の娘と結婚し、商売で大成功を収めたのだ。
大好きな尊敬する父親だったが、彼女が15歳の時に死んでしまう。
借金のため破産して、病気になって……
いまわのきわに父親は愛する娘をベッドの脇によび、ながいながい教訓をいい遺す。
収入はあてにならないが倹約はおまえを裏切らない、他人のことにはかまうな、利己主義に徹しろ……
父親の遺訓を要約すれば、そんなところか。
お嬢さんは、敬愛する父親の遺訓をかたくなに守りとおした。
サラエボで高利貸しや不動産の売買をして、そこそこうまくいっていたのだが、1914年、サラエボ事件からセルビア人への迫害が始まる。そして、第一次世界大戦へ……
読み終えてから、世界地図をつくづくとながめた。
サラエボは、現在はボスニア・ヘルツェゴヴィナの首都。
しかし、お嬢さんが高利貸しをしていた1910年代は、オーストリア・ハンガリー帝国に占領されていた。
ベオグラードは、現在はセルビアの首都。
しかし、お嬢さんがサラエボから逃れていった1919年は、ユーゴスラビア王国の首都。
作者のイヴォ・アンドリッチがノーベル文学賞を受賞した1961年は、ユーゴスラビアは社会主義連邦だった。
戦争や内紛に翻弄され続けたバルカン半島の人々。
国家や政治体制が代わるたびに、大切な財産が消えてなくなったり、貨幣が紙くずになったりしたこともあっただろう。
自分の身と財産は自分で守るしかなかったのだ。
お嬢さんは、父親の遺訓どおりに、大戦中もうまくたちまわったといえなくもない。
死ぬ間際、お嬢さんは壁に掛けた黒いコートを強盗と見まちがえた。
彼女は、自分の財産が強盗に奪われることを死ぬほど悔やんで、息絶えたのだった。
お嬢さんが、ベオグラードの自宅で死んでいるところから物語は始まる。
1935年2月のこと。
発見者は郵便配達夫だった。前日も前々日も、ベルを鳴らしても応答がなかったので、不審に思って家の周囲をぐるっとまわって窓からのぞいてみたら、いつもと同じ黒い服に身を包んだお嬢さんが、仰向けに倒れていたというわけだ。
かれこれ五十にもなるお嬢さんは、尋常ではない倹約家として有名だった。
倹約といえば聞こえがいいが、要するにケチなのである。
町の人たちは、ヒソヒソお嬢さんのうわさをしていた。
ほんとはすごくお金持ちなのよ、とか、いやいや見てのとおりの貧乏なのさ、とか……
”お嬢さん”と呼ばれていたのは、結婚していないからだ。
彼女は、1919年にサラエボから母親とともに引っ越してきた。母親は、ふつうに人付き合いをする人だったが、二年ばかりで死んでしまった。以来、同居人はなく、訪れる人もなく、世間とも交わらず、お嬢さんは、サラエボから送られてくる家賃と貯蓄で暮らしていた。
彼女にとって倹約は美徳だった。服や靴下を繕って、繕って、繕って、繕いすぎて小さくなり、体に合わず、不具合極まりなくなっても、それは倹約の証であり、大いなる悦びとなるのだった。
1935年の2月のある日、燃料をケチって、細々と薪を燃やした暖炉の前で靴下を繕いながら、お嬢さんは自分の人生を回想する。死が近くなると、走馬灯のように過ぎし日が脳裏を駆け巡るという、アレである。
お嬢さんの父親は、セルビア人の高名な商人だった。ボスニアの田舎町に生まれたが、オーストラリア領となったサラエボに出て、サラエボの旧家の娘と結婚し、商売で大成功を収めたのだ。
大好きな尊敬する父親だったが、彼女が15歳の時に死んでしまう。
借金のため破産して、病気になって……
いまわのきわに父親は愛する娘をベッドの脇によび、ながいながい教訓をいい遺す。
収入はあてにならないが倹約はおまえを裏切らない、他人のことにはかまうな、利己主義に徹しろ……
父親の遺訓を要約すれば、そんなところか。
お嬢さんは、敬愛する父親の遺訓をかたくなに守りとおした。
サラエボで高利貸しや不動産の売買をして、そこそこうまくいっていたのだが、1914年、サラエボ事件からセルビア人への迫害が始まる。そして、第一次世界大戦へ……
読み終えてから、世界地図をつくづくとながめた。
サラエボは、現在はボスニア・ヘルツェゴヴィナの首都。
しかし、お嬢さんが高利貸しをしていた1910年代は、オーストリア・ハンガリー帝国に占領されていた。
ベオグラードは、現在はセルビアの首都。
しかし、お嬢さんがサラエボから逃れていった1919年は、ユーゴスラビア王国の首都。
作者のイヴォ・アンドリッチがノーベル文学賞を受賞した1961年は、ユーゴスラビアは社会主義連邦だった。
戦争や内紛に翻弄され続けたバルカン半島の人々。
国家や政治体制が代わるたびに、大切な財産が消えてなくなったり、貨幣が紙くずになったりしたこともあっただろう。
自分の身と財産は自分で守るしかなかったのだ。
お嬢さんは、父親の遺訓どおりに、大戦中もうまくたちまわったといえなくもない。
死ぬ間際、お嬢さんは壁に掛けた黒いコートを強盗と見まちがえた。
彼女は、自分の財産が強盗に奪われることを死ぬほど悔やんで、息絶えたのだった。
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読書は、登山のようなものだと思っています。読み終わるまでが上り、考えて感想や書評を書き終えるまでが下り。頂上からどんな景色が見られるか、ワクワクしながら読書という登山を楽しんでいます。
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- 出版社:恒文社
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- ISBN:9784770404930
- 発売日:1982年07月30日
- 価格:2680円
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