hackerさん
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「吁希子(ときこ)は時折、亡父に対面する。彼女が請う時には必ず、そして時には自分のほうからも訪れてくれる亡父と、不思議な、親しい対面をする」(本書の出だし)
本書は見事な心理ホラー小説です。
先日読んでレビューも書いた増田みず子の『火夜』(1998年)は、江戸時代までさかのぼって、作者の家系に登場する「化け物」たちや「幽霊」たちを描いた作品でしたが、その中で、これも先日読んだ高橋たか子の『空の果てまで』と並んで、1968年刊の本書が紹介されており、こちらも手に取った次第です。
『蟹』(1963年)で芥川賞を受けた河野多恵子(1926-2015)の作品を読むのは初めてですが、谷崎潤一郎のファンであり研究家で、その分野では知られた存在だったようです。本書に関しては、まず増田みず子の『火夜』で語られている文章を紹介します。
「私は『不意の声』を学生時代に読み、人はこのように夢想によって人を殺すことができるのか、と得体の知れない気味悪さを感じた覚えがある。同時に、頭脳で理解しがたいものを感覚で理解させてしまう小説というものに、魔法のような魅力を感じたのも、この作品だった。(中略)
人はただ生きてそこにいるだけで、その人に特有の毒素を発散している。私は、そのことを河野多恵子さんの、この作品から学んだ。私の育った家庭は、死んだ人の分まで含めて、様々な種類の毒素が漂っていたのだとなっとくできる」
本書のヒロイン吁希子は、『空の果てまで』のヒロイン久緒と同じく、外側からはそうと見えない「化け物」です。大きく違うのは、久緒が現実に犯罪を犯すのに対し、本書で語られる殺人は現実に起こったものなのか、吁希子の夢想であるのか、はっきりしない点です。
そもそも、亡父と時々会話をするヒロインという設定自体からして、吁希子の精神状態を表しているわけですが、本書の大きな特徴としては、全編ヒロインの視点から語られている点です。ですから、三人称で書かれているとはいえ、内容の現実性について疑念を感じさせるようになっています。本書は、元々雑誌に連載されたものなのですが、作者あとがきによると、単行本にする際に「分量的には僅かであるが、思い切って訂正を行った」そうで、この点については、次のように説明しています。
「この小説の主人公にとっては、非現実的なもうひとつの世界は、現実生活と全く変らぬ鮮明なリアリティをもっている。その両者をそなえた世界こそ、彼女にとっての本当の現実なのだ。従って、ふたつの世界のリアリティは同質のものでなければならない。ところが、同質の現実的なリアリティである以上、主人公のその真実を生かそうとすればするほど、読者を混乱させる危険が増す。
その板挟みを克服するためには、どうすればよいのか。(中略)
ところが、ある日ふと私は心づいた。『同質の現実的なリアリティ』と読者の混乱とを思うあまり、いつの間にか主人公の真実と私の視線とのあいだに生じていた死角に気づいたのである。板挟みを克服するためには、主人公の真実を生かし通すしかない。妥協や姑息な手段を拒否するしかない」
本書で登場する亡父は、決してヒロインの気持ちを否定しません。それどころか、ヒロインの心の奥の欲望を暴き出してくれます。彼女が夫婦生活に行き詰まった時、「離婚すべきかどうか」という問いかけに対し、亡父はにこやかに三本の指を立て、彼女は三回までなら男と別れて良いと勝手に解釈し、今の夫の前に付き合った男ー彼のせいで子供が産めない体になったようなのですがーも含め、まだ二人だと安心するのですが、それは殺したい若しくは殺してもいい人間が三人いるということだったのです。すなわち、母親、夫、今では別の女性と結婚している最初の男の子供です。そして、これらの殺人の描写が、生理的に実に生々しく描かれています。
ただし、繰り返しになりますが、作者が意図したように、狂気を抱いた側の視点からだけ、その精神世界からだけ描かれているため、これが実際に起きたのかは曖昧なままです。増田みず子は「重要なのは、吁希子の夢想内容についての是非ではなく、夢想が強烈な現実感をともなっていることだろう。ひょっとするとこれは現実に殺人があったのではないかと。読者がしつこく疑って何度も読み返すほどの」と書いていますが、夢想だと言われれば、そうかもしれないと思わせる箇所はあるものの、現実に起こった殺人だという前提で読めば、気づかないでしょう。
そう考えると、昨今のホラー小説のように、人間の皮を被った「化け物」が登場する、人間の心の闇を執拗に描いた先駆的作品と言えそうです。その意味で、興味深い作品です。また、ヒロインの名前に含まれる「吁」という字ですが、中国語では「懇願する」「叫ぶ」という意味で、彼女の苦悩を表した名前になっています。
なお、私が読んだのは単行本版ですが、登録できないので、こちらでレビューを書かせてもらいました。念のため。
『蟹』(1963年)で芥川賞を受けた河野多恵子(1926-2015)の作品を読むのは初めてですが、谷崎潤一郎のファンであり研究家で、その分野では知られた存在だったようです。本書に関しては、まず増田みず子の『火夜』で語られている文章を紹介します。
「私は『不意の声』を学生時代に読み、人はこのように夢想によって人を殺すことができるのか、と得体の知れない気味悪さを感じた覚えがある。同時に、頭脳で理解しがたいものを感覚で理解させてしまう小説というものに、魔法のような魅力を感じたのも、この作品だった。(中略)
人はただ生きてそこにいるだけで、その人に特有の毒素を発散している。私は、そのことを河野多恵子さんの、この作品から学んだ。私の育った家庭は、死んだ人の分まで含めて、様々な種類の毒素が漂っていたのだとなっとくできる」
本書のヒロイン吁希子は、『空の果てまで』のヒロイン久緒と同じく、外側からはそうと見えない「化け物」です。大きく違うのは、久緒が現実に犯罪を犯すのに対し、本書で語られる殺人は現実に起こったものなのか、吁希子の夢想であるのか、はっきりしない点です。
そもそも、亡父と時々会話をするヒロインという設定自体からして、吁希子の精神状態を表しているわけですが、本書の大きな特徴としては、全編ヒロインの視点から語られている点です。ですから、三人称で書かれているとはいえ、内容の現実性について疑念を感じさせるようになっています。本書は、元々雑誌に連載されたものなのですが、作者あとがきによると、単行本にする際に「分量的には僅かであるが、思い切って訂正を行った」そうで、この点については、次のように説明しています。
「この小説の主人公にとっては、非現実的なもうひとつの世界は、現実生活と全く変らぬ鮮明なリアリティをもっている。その両者をそなえた世界こそ、彼女にとっての本当の現実なのだ。従って、ふたつの世界のリアリティは同質のものでなければならない。ところが、同質の現実的なリアリティである以上、主人公のその真実を生かそうとすればするほど、読者を混乱させる危険が増す。
その板挟みを克服するためには、どうすればよいのか。(中略)
ところが、ある日ふと私は心づいた。『同質の現実的なリアリティ』と読者の混乱とを思うあまり、いつの間にか主人公の真実と私の視線とのあいだに生じていた死角に気づいたのである。板挟みを克服するためには、主人公の真実を生かし通すしかない。妥協や姑息な手段を拒否するしかない」
本書で登場する亡父は、決してヒロインの気持ちを否定しません。それどころか、ヒロインの心の奥の欲望を暴き出してくれます。彼女が夫婦生活に行き詰まった時、「離婚すべきかどうか」という問いかけに対し、亡父はにこやかに三本の指を立て、彼女は三回までなら男と別れて良いと勝手に解釈し、今の夫の前に付き合った男ー彼のせいで子供が産めない体になったようなのですがーも含め、まだ二人だと安心するのですが、それは殺したい若しくは殺してもいい人間が三人いるということだったのです。すなわち、母親、夫、今では別の女性と結婚している最初の男の子供です。そして、これらの殺人の描写が、生理的に実に生々しく描かれています。
ただし、繰り返しになりますが、作者が意図したように、狂気を抱いた側の視点からだけ、その精神世界からだけ描かれているため、これが実際に起きたのかは曖昧なままです。増田みず子は「重要なのは、吁希子の夢想内容についての是非ではなく、夢想が強烈な現実感をともなっていることだろう。ひょっとするとこれは現実に殺人があったのではないかと。読者がしつこく疑って何度も読み返すほどの」と書いていますが、夢想だと言われれば、そうかもしれないと思わせる箇所はあるものの、現実に起こった殺人だという前提で読めば、気づかないでしょう。
そう考えると、昨今のホラー小説のように、人間の皮を被った「化け物」が登場する、人間の心の闇を執拗に描いた先駆的作品と言えそうです。その意味で、興味深い作品です。また、ヒロインの名前に含まれる「吁」という字ですが、中国語では「懇願する」「叫ぶ」という意味で、彼女の苦悩を表した名前になっています。
なお、私が読んだのは単行本版ですが、登録できないので、こちらでレビューを書かせてもらいました。念のため。
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「本職」は、本というより映画です。
本を読んでいても、映画好きの視点から、内容を見ていることが多いようです。
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- 出版社:講談社
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- ISBN:9784061962392
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