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紅い芥子粒
レビュアー:
戻ってきて! あなたの手を温めてあげるから。そして、あなたの手でわたしを温めて……!
海軍機関学校で英語教師をしていた当時のことを題材にした、”保吉もの”のひとつ。
発表は、大正十三年四月。

ある雪上がりの午前。
物理の教官室のストーブのまわりに、若い教官たちが集まって雑談しています。
物理教官の一人が、”伝熱作用の作用の法則”について説明します。
二つの物体が接触すると、高温の物体から低温の物体へ、両者の温度が等しくなるまで熱は移動する、これを伝熱作用の法則という。この法則は、男女の恋愛にも当てはまる。抱き合った男女の熱は……
理科の教官二人に英語教官の堀川保吉。いかにも若者らしい他愛もない会話でした。

それから四、五日経った朝。
堀川保吉は、霜柱の立った田舎道を停車場へと歩いていました。
彼が乗るのは、八時半発の下り列車。じゅうぶん間に合う。
保吉には、煙草を吹かす余裕さえありました。

踏切にさしかかった時、両側に人だかりがしているのに、気づきました。
柵の近くに見知りの肉屋の小僧がいたので、声をかけました。
おい、どうしたんだい
轢かれたんです。今の上りに轢かれたんです
答える小僧の顔は、妙に生き生きと輝いています。
さらに詳しくきいてみると、学校へ行く女の子が列車に轢かれそうになり、それを助けた踏切番の男が轢かれたということらしい。
踏切番の小屋の前には、筵をかけられた遺体。
筵の下から両足の靴がのぞいていました。

保吉は、周りを観察しながら、踏切を通り越します。踏切番の轢かれたのは、どの線路だろうと思いながら。
その線路は、すぐに見つかりました。赤い血のりがべったりとついていたからです。
薄々と水蒸気さえ立ち昇らせて流れる、一条の血の赤は、保吉の心に一瞬のうちに焼き付きました。

ついさっきまで生きていた男の身体から流れ出した、温かい血。
女の子を救うために殉職した男の熱い血。
その血の熱は、凍るように冷たい線路の上を、線路を温めながら流れて、やがて線路と同じ低温になって固まってしまうのだ……
保吉の脳裡に浮かぶのは、あの”伝熱作用の法則”なのでした。

プラットホームの先に立ち、彼は、落ち着かない気持ちで、煙草に火をつけます。
そこは、あの踏切の見える場所。人だかりはすでになく、工夫たちが囲む焚火の黄色い炎ばかりが目につきました。
人ごみの中に戻ろうとして、保吉は、赤革の手袋を片方、落としたことに気がつきます。さては、煙草に火をつけようとしたときに……

保吉は、振り返ります。
はたして、プラットホームの先に、赤い手袋がひとつ、手のひらを上に向けてころがっていました。
まるで、保吉を呼び止めるかのように。

ああ、手袋の声が聞こえてくるようです。

戻ってきて! またあなたの手を温めてあげたいから。そして、あなたの手で私を温めて……!

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紅い芥子粒
紅い芥子粒 さん本が好き!1級(書評数:559 件)

読書は、登山のようなものだと思っています。読み終わるまでが上り、考えて感想や書評を書き終えるまでが下り。頂上からどんな景色が見られるか、ワクワクしながら読書という登山を楽しんでいます。

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この書評へのコメント

  1. 三太郎2021-11-26 12:47

    >電熱作用

    これはたぶん「伝熱作用」が正しいかと思います。

    熱が伝わるから伝熱です。

    この場合、電気は関係なさそうです。

  2. 紅い芥子粒2021-11-26 15:22

    あら、ほんとだ。お恥ずかしい、タイプミスです。というより、校正ミスですね。ご指摘ありがとうございます。直します。

  3. noel2021-11-26 16:21

    大量の血の海をホースで洗い流そうとしたことがあります。まさに血糊というくらい、血液は凝固し、勢いよく水が出るようにホースを絞っても、血の塊となった糊状のものはなかなか流れて行ってくれません。血はその熱を伝えるよりも先に空気に触れて固まり、その塊の中の温度を保って血だまりを形成しているようです。

  4. 紅い芥子粒2021-11-26 22:13

    そ、そうなんですか? 血の塊の中は、いつまでも温かい? 言われてみれば、そんな気もします。 そして、いつまでも生臭い?

  5. noel2021-11-27 07:35

    そうなんです。血の跡はいつまでも「生臭い」のです。でも、血があんなに固まるとは思っていませんでした。水のなかを水流に押されてごろごろと流れていくですから……。

  6. No Image

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