本書の冒頭で、メグレは司法警察局の局長になることを打診され、残り少ない警察人生を現場で働きたいがゆえに、それを即座に断ったことが語られています。普通なら、絶対引き受ける大出世なのですが、書類の山に埋もれる生活は、メグレには耐えられません。このことからも、シムノンはまだまだこのシリーズを続ける意志を持っていたと思われます。本書の「訳者あとがき」に引用されている毎日新聞1972年2月8日付記事によると、シムノンは「私はこの一年以上目まいの発作に襲われている。部分的に治りはしたが、本を書くためには百パーセントの体調でなければならない。このあたりがひけ時と決めた次第だ」と語ったそうです。この決断の背景には、家庭の事情もあったとは思いますが、ここでは触れないでおきます。
1931年『怪盗レトン』から始まったこのシリーズは、75のロマン(長編)と28の短編を数えます。そのうち、私は67のロマンを読んでレビューを書き、23の短編を読んでいくつかの短編集のレビューを書きました。ロマンで私が未読のものは以下の通りになります。最初の番号は、シリーズ何作目かを表わしています。
3.『死んだギャレ氏』(1931年)
8.『オランダの犯罪』(1931年)
15.『メグレ警部と国境の町』(1932年)
20.『メグレと超高級ホテルの地階(別題:マジェスティックの酒蔵)』(1939年)
21.『メグレと判事の家の死体』(1940年)
22.『メグレと死んだセシール』(1940年)
23.『メグレと謎のピュクピュス』(1941年)
24。『メグレと奇妙な女中の謎(別題:フェリシーがそこに)』(1942年)
このうち、最初の三作は、私が持っていない上、いまや希少本になっていて、手に入らないか、べらぼうな値段になっているかです。残りの五作は雑誌掲載されたことはあるのですが、単行本にはなっておらず、これらは原書を取り寄せて、ゆっくり読むことにします。
さて、本書は、サバン=ルヴェルスクというパリでも高名な公証人の40歳ぐらいの夫人ナタリーから、メグレの元に事件が持ち込まれて始まります。彼女の説明によれば、夫がひと月もの間、行方不明だというのです。行方不明者探しなら、それ専門の部署があるとメグレは言いますが、実は彼女の夫は数日あるいは一週間程度行方不明になることはよくあることで、そういう時は水商売の女性と一緒にどこかで過ごしているのが常でした。そんな時でも仕事には律儀なので、事務所の方には必ず定期的に電話連絡があったのが今回はなく、しかも不在期間が長いので、犯罪に巻き込まれたのではないかと心配になって相談にきた、とのことでした。ただ、夫人は唇の端がけいれんし、何とか正気を保とうとしている不安定な様子でした。
メグレが、サバン=ヴェルクス氏の古風で立派な自宅を訪ねると、ナタリーは片時もコニャックの瓶を手放せないアルコール依存症であることが分かり、彼女の女中を除いては、召使からも運転手からも夫の事務所の使用人からも快く思われていないことを知ります。それだけでなく、夫の友人たちも、彼女をよくいう者はいませんでした。また、パリのキャバレーで聞き込みをすると、夫は金離れのよい上客シャルル氏として有名な存在であったことが分かります。
夫人は、結婚してから数カ月で、夫とは寝室を別にし、夫の「一時失踪」が始まったことをメグレに話します。メグレは思います、こんな状態でなぜ夫婦は離婚しなかったのだろう、と。
不幸な結婚、酒に溺れる妻、表向きとは別の人生に逃避する夫というのは、このシリーズに限らず、シムノンが度々取り上げる題材です。そういう意味で、新鮮味はありませんが、シムノンの人間描写の達者さには、いつもながら感心させられます。
ただ、本書で私が一番好きな場面は、重要な証人である、今ではキャバレーで花売りをしている「シャンゼリゼで客の袖を引いているもっとも美しい娼婦の一人だった」ルイザ婆さんと、メグレが数十年ぶりに再会し、短い会話をする場面です。
「本当に、あんたは偉くなっちゃって。まあ、あたしだって結構うまくやってきたわ。田舎に預けて育てた娘がいたでしょう。あの娘も今ではリヨン銀行の出納係の奥さんになってるわ...子供が三人いてね、だから、あたしはこれでも三人の子供のおばあちゃんなの」
そして、ルイザばあさんはメグレと別れる時、「あんたに会えただけでも来たかいがあったわ」と言って「おずおずと手を差し出した」のでした。
こういうところのシムノンは、本当にうまいですね。本書は「有終の美を飾る」というレベルの作品ではありませんが、それでも、読ませます。あらためて、これだけ量産しておきながら一つとして駄作のない、このシリーズの凄さに感じ入る次第です。
さて、このシリーズも大半を読んだので、ここでロマンのお勧め作品をまとめてみます。私のレビューのurlを紹介しておきます。よかったら、のぞいてみてください。
I.ベスト
このシリーズで、私がベストと思う作品群です。
5.『男の首』(1931年)
ドストエフスキーの『罪と罰』をベースにし、メグレがポルフィーリィ判事、殺人犯人がラスコーリニコフ役を演じる傑作
6.『黄色い犬』(1931年)
雨にけむる港町の情景描写、貧しい恋人たち、偽善に満ちた金持ちたち、これぞメグレという要素が詰まっています。
https://www.honzuki.jp/book/159088/review/27673/
11.『三文酒場』(1931年)
ある死刑囚が執行前に、メグレに別の殺人事件のことを仄めかします。メグレはそれとなく探るのですが…。メグレと犯人との奇妙な関係が印象的です。
https://www.honzuki.jp/book/287647/review/243907/
28.『メグレの休暇』(1948年)
支配欲が強いようで、実は被支配欲が強いという特異な犯人像が印象的です。
https://www.honzuki.jp/book/289383/review/246496/
36.『モンマルトルのメグレ』(1951年)
パリの歓楽街モンマルトルにある安キャバレーを舞台にした人間模様の描写が素晴らしいです。
https://www.honzuki.jp/book/291148/review/249418/
38.『メグレと消えた死体』(1951年)
後半三分の一を占める、メグレの容疑者への尋問が印象的です。
https://www.honzuki.jp/book/291918/review/250232/
43.『メグレ間違う』(1953年)
シリーズ屈指のモンスターが登場します。メグレは彼の行動を読み間違えるのです。
https://www.honzuki.jp/book/292987/review/252410/
47.『メグレと首無し死体』(1955年)
メグレが、ある不幸な女性の実態に、徐々に迫っていくプロセスが、心に残ります。
https://www.honzuki.jp/book/293307/review/253351/
48.『メグレ罠を張る』(1955年)
シリアル・サイコ・キラーに職を賭して罠を張るメグレ、そして犯人をめぐる二人の女性、傑作です。
https://www.honzuki.jp/book/284387/review/253543/
57.『メグレと優雅な泥棒』(1961年)
まさに熟成されたミステリー、殺された「優雅な泥棒」の遺族へのメグレの粋なはからいも印象的です。
https://www.honzuki.jp/book/294418/review/255297/
67.『メグレとリラの女』(1968年)
「釈放になるといいんだがな」という犯人逮捕後のメグレの言葉が印象的な、殺しても仕方がないと思ってしまう、とてもひどい whydunit の物語です。
https://www.honzuki.jp/book/295525/review/257308/
69.『メグレの幼な友達』(1968年)
おそらく、このシリーズ最高の本格ミステリーです。
https://www.honzuki.jp/book/295527/review/257710/]]
II.番外
シムノンは結構ミステリーを読んでいたのだと思わせてくれる異色の作品群、意外な影響を与えていた作品、二番煎じ、マンネリどこが悪い、『男はつらいよ』はどうなんだ、という作品を紹介します。
14.『サン・フィアクル殺人事件』(1932年)
最後に登場人物が一堂に会して謎解きが行われるという典型ですが、この会を招集するのも、謎解きをするのもメグレではありません!
https://www.honzuki.jp/book/287794/review/244394/
32.『メグレ保安官になる』(1949年)
アメリカに研修旅行に出かけたメグレが、ある裁判を傍聴する一種の法廷ものですが、判決がメグレにも読者にも知らされないで終わってしまいます。
https://www.honzuki.jp/book/290370/review/247920/
54.『メグレの打ち明け話』(1956年)
逮捕したのが本当に殺人犯なのか、メグレも確信が持てず、さらにこの男は有罪を受けて処刑されるという、とんでもない異色作です。
https://www.honzuki.jp/book/294047/review/254720/
56.『メグレと老外交官の死』(1960年)
ガルシア=マルケスの傑作『コレラの時代の愛』の元ネタという貴重な作品です。
https://www.honzuki.jp/book/294252/review/255090/
74.『メグレと匿名の密告者』(1971年)
シリーズも最後の方になると、事件設定に二番煎じも見られるようになりますが、「それで?何か?」と言いたくなる出来ばえです。
https://www.honzuki.jp/book/295532/review/259022/
以上、もし参考になれば、幸いです。これにて、メグレ・シリーズの連続レビューは一区切りです。



「本職」は、本というより映画です。
本を読んでいても、映画好きの視点から、内容を見ていることが多いようです。
この書評へのコメント
- マーブル2021-03-19 20:48
お疲れさまでした。随分と楽しませていただきました。ありがとうございます。
私が所有するメグレは亡くなった義父から譲られた古い蔵書なのですが、残念ながら2冊しかありません。古書で手に入れたいと思っていたのですがなかなか見つけられません。ブックオフなどでは発見できませんね。
街の古書店ではたまに見かけるのですが、ああいうところに行くと目移りしてしまい、気づけば持ちきれぬ程の本を抱え、泣く泣く戻すのが常で諦めてしまっていました。次に見つけたら迷わずシード本として購入して帰って来ようと思います。クリックすると、GOOD!と言っているユーザーの一覧を表示します。 - hacker2021-03-20 06:15
シムノンは、いわゆる普通小説もたくさん書いていて、そちらも30冊以上レビューを載せています。傑作も多いのですが、メグレもの同様、多作家ゆえに個々の作品名が希薄になっているのは、この作家の不幸な点です。参考として、二冊だけご紹介します。お時間があれば、のぞいてみてください。
『雪は汚れていた』
https://www.honzuki.jp/book/163176/review/28708/
『ちびの聖者』
https://www.honzuki.jp/book/159078/review/32061/
メグレの映像化作品は、そんなに観ていませんが、メグレ役として個人的にはジャン・ギャバンの印象が強いです。あと、どこかで読んだのですが、シムノンは、テレビの『東京メグレ警視』シリーズに出ていた市原悦子はメグレ夫人のイメージにぴったりだと言ったそうです。クリックすると、GOOD!と言っているユーザーの一覧を表示します。 - hacker2021-03-20 09:13
シムノンのレビューはちゃんと数えていないのですが、メグレものも含めて、全部で100以上書いています。そのぐらい好きなのです。ですから、マーブルさんが『雪は汚れていた』もお手にする機会があれば、嬉しいです。ちなみに、シムノンの次にレビュー数の多い作家は、87分署シリーズを読んだエド・マクベイン、その次は全集を読破したフォークナーになります。
私も、このテレビドラマは見ていないのですが、確かに、市原悦子を少し肥らせると、メグレ夫人のイメージですよね。愛川欣也は、ジャン・ギャバンと比較すると...ですが、それもちょっと致し方ないと思います。クリックすると、GOOD!と言っているユーザーの一覧を表示します。 - ゆうちゃん2021-03-21 01:04
一区切りなのですね。書評、いつも楽しく読ませて頂きました。大変お疲れ様でした。
僕もいくつかの推理作家を年代順に追って読んだりしていますが、やはり途中で力尽きると言うか、作品の質が下がってくる場合があると認識しています。最後まで水準を落とさなかったシムノンは凄い作家なのですね。hackerさんが未読のメグレ物のうち、いくつかは短編でミステリマガジン掲載のものかと思います。適当な数ですから早川書房から短編集として出版してほしいとずっと思っていました。そう思ったのが20年近く前ですから、これはもうだめか、と思っていますが。
古い作品は本当に希少ですね。普通は国会図書館に行かないと読めないのかなと思います。河出書房新社の新書版も36巻までが普及版でなぜか37巻以降が入手性が落ちます。水準が落ちなかった作家なのですからこれは残念なことだと思います。クリックすると、GOOD!と言っているユーザーの一覧を表示します。 - hacker2021-03-21 08:31
ゆうちゃんさん、ありがとうございます。
実は、先日レビューを書いた『メグレの回想録』が収録されている「世界ミステリ全集<9>」に、都築道夫も参加している座談会も入っていて、出席者たちが「シムノンはなぜか日本では売れないんですね」という主旨の発言をし、嘆いています。「河出書房新社の新書版も36巻までが普及版でなぜか37巻以降が入手性が落ちます」というのは、もしかしたら、この辺りに理由があるのかもしれません。
にもかかわらず、メグレに限らず、シムノンの翻訳がこれだけ出版された、ということは、作家や出版に携わるプロの方々のシムノンへの評価が高かったことへの証だと思います。まぁ、私はファンですから、そう思うのかもしれませんが。
シムノンに関しては、もうあまり未読の翻訳本は残っていないのですが、洋書も含めて、これからも少しずつ読んでいきたいと思います。クリックすると、GOOD!と言っているユーザーの一覧を表示します。 - hacker2021-03-25 10:41
Jun Shino さん、コメントありがとうございます。
生きているうちに終わるのだろうかと思いながら、始めた試みですが、途中からピッチを上げたせいもあって、一応の区切りをつけることができました。完読というわけではないのですが、なんとなくほっとしています。残っている本は、ゆっくり原語で読むこととします。
確かに、メグレは面白いのですよねぇ~。今や、簡単に読めなくなってしまったのは、本当に残念です。75の長編のうち、70作が出版されたというのは、このシリーズの小説に携わる玄人受けのよさの表れだと思っているのですが、本当に、どこか再出版してほしいものです。クリックすると、GOOD!と言っているユーザーの一覧を表示します。 - Sibaccio2021-05-29 22:05
hackerさん、ごぶさた?しております。
メグレ・シリーズの連続レビュー一区切りとのことで、とても楽しませていただきました。
hackerさんも、はじめは普通小説からシムノンを読まれ、そのあとメグレに入ったとのことで、自分の読書の経緯と似ていてちょっとうれしかったです。私の場合は、はじめにメグレを2冊ほど読んだあとに『仕立て屋の恋』や『猫』を読んで、シムノンにはまりました。
挙げられているメグレのベスト、頷くものばかりです! 個人的には『死体刑事』と『若い女の死』なども加えたいところです。あと、ご指摘されているように、絶版かつ古書が高値で手に入りくいものがあり、気軽に読めないのは本当に残念です。私は辛抱たまらず、いくつかフランス語で読みましたが、どれも読み応えのあるシムノンの代表作だと思いました。
未読のメグレ作品についても、hackerさんのレビューが出ることを首を長くして待っております。クリックすると、GOOD!と言っているユーザーの一覧を表示します。 コメントするには、ログインしてください。
- 出版社:河出書房新社
- ページ数:0
- ISBN:B000J8MLKA
- 発売日:1978年09月15日
- 価格:1194円
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