▼
19世紀末のロンドンに現われた名探偵、シャーロック・ホームズは科学の時代のニューヒーローだった。
献本で頂いてから楽しみにチビチビ読んでいたのですが、検査入院で丸一日ベッドに伏せている間にいっきに読み終えてしまいました。
ドイルのホームズ物は小学生の頃の愛読書で、今でもタイトルを聞けばそれと分る話が幾つもあります。「赤毛組合」、「まだらの紐」、「名馬シルバー・ブレイズ」、「マスグレイブ家の儀式書」、「最後の事件」、そしてホームズ復活の「空き家の冒険」、暗号解読がポイントの「踊る人形」、「六つのナポレオン像」などなど…。なおこれらのタイトルは本書の訳に従いましたが、僕が親しんだタイトルと違うものもあります。例えば「名馬シルバー・ブレイズ」は「流星号事件」で、「赤毛組合」は「赤毛連盟」だったような…。
上のタイトルは発表順に並べたもので、「赤毛組合」は4番目の作品で1891年、「六つのナポレオン像」は1904年で35番目の作品です。僕は1917年発表の48作目「最後の挨拶」以降は、最後の60作目にあたる「ショスコム荘」までほとんど記憶に残っていません。
これは僕の印象だけではなくて、著者によれば、全60作品の内人気があるのは前半の作品で、後半の作品はあまり評価されていないようです。
著者によればホームズの人物設定が前半と後半では変わってしまったようで、前半のホームズは化学実験が趣味で、血液の微量分析(今ならルミノール反応)の研究に没頭したり、灰から煙草の銘柄を当てたり、当時は最先端だった指紋による判定を試みたり、ワトスンとの天文学に関する会話をストーリーに紛れ込ませたり、暗号解読を事件解決に用いたり、筆跡鑑定を捜査に取り入れたり、タイプライターの印字の特徴を捜査に活用したり、つまり今でいえば科学捜査の先駆け的存在で、大衆の科学に関する興味に応えようとしていたようです。
でも後半になるとホームズの科学好きな側面は抑制されていきます。前半のホームズは引退したら化学の研究に没頭したいとワトスンに語っているのに、後半では引退後は犯罪学の本を書きたいと言っています。
著者によればこれはドイルが心霊学にはまっていったからだろうとしていますが、もしかしたら第一次世界大戦(1914-1918年)での科学技術を活用した大量殺人兵器(毒ガスなど)を目の当たりにして、英国人の大衆の、あるいはドイル自身の科学熱が冷えていったためかもと僕は思います。
この本の範囲外ですが、ドイルは優れたSF作家でもあったと思うのですが、チャレンジャー教授シリーズ最後の作品「毒ガス帯」が書かれたのが1913年で、以降こちらの分野でもドイルはぱっとしなくなります。
1917年に発表された48作目の「最後の挨拶」ではホームズはすで引退していて養蜂家になっており、愛国者としてドイツのスパイを捕まえるという話で、前半のホームズ物の輝きはもうありませんでした。
ちょっとしんみりとしてしまいましたが、そもそもドイルが何故ホームズとワトスンのコンビで探偵小説を書こうとしたかというと、エドガー・アラン・ポーの探偵小説(と言っても3,4篇しかないのですが)に刺激を受け、ポーのプロットを借りて科学を活用して捜査する探偵を創造したかったようです。1作目の「緋色の研究」で奇妙な化学実験に没頭する主人公としてホームズは登場しますが、当時の化学は最先端の話題だったのでしょうね。まだ「分子」の存在が科学界でも疑問視されていた時代です。
さて、「緋色の研究」の後半は舞台を米国に移すのですが、これが幸いして「緋色の研究」は英国では評判にならなかったのに米国で大ヒットになります。そうしてホームズ物は60作目まで書き続けられることになりました。
今日的な観点からすると眉をひそめたくなる話題はホームズが麻薬常用者だったということです。ホームズは初期の作品のなかでコカインの水溶液を注射しています。どうもこれはホームズ物を書き始めた頃、ドイルがホームズにエキセントリックな性格を与えようと考えたものらしい。しかし作品中で友人のワトスンは薬物の使用は中毒になるといってホームズをきつくたしなめています。その後のホームズは薬物を使わなくなったようです。
著者によれば、このようなコカインに対する否定的な見解は当時としては先進的なものだったらい。驚くべきことに当時はコカインは常習性がないとして一般的に使用が認められていたそうです。
ドイルの生い立ちについても知らないことがありました。彼はスコットランドのカソリックの家庭に生まれ、イエズス会系の学校に入りましたが次第に信仰に疑問を持ち、医学部を出た後でカソリックを棄てたことを親族に告白します。その結果叔父たちからのロンドンでの開業資金援助を断られてしまいます。心霊術にはまったのもイギリスではマイノリティーだという意識のためだったのかも。彼は実生活でもアジア移民の子息が冤罪で有罪になったのを再審査するように働きかけたり、マイノリティー側に立った行動をとっています。
なんだかまたホームズ物を読みたくなりました。本書を手元において読み直すと新しい発見があるかも知れません。
(派生読書)
シャーロック・ホームズ傑作選 (集英社文庫)
シャーロック・ホームズ最後の挨拶 (新潮文庫)
シャーロック・ホームズの回想 (角川文庫)
シャーロック・ホームズの冒険 (新潮文庫)
緋色の研究 (角川文庫)
バスカヴィル家の犬(新潮文庫)
四つの署名(新潮文庫)
恐怖の谷(角川文庫)
シャーロック・ホームズの生還(創元推理文庫文庫)
シャーロック・ホームズの事件簿(創元推理文庫文庫)
ドイルのホームズ物は小学生の頃の愛読書で、今でもタイトルを聞けばそれと分る話が幾つもあります。「赤毛組合」、「まだらの紐」、「名馬シルバー・ブレイズ」、「マスグレイブ家の儀式書」、「最後の事件」、そしてホームズ復活の「空き家の冒険」、暗号解読がポイントの「踊る人形」、「六つのナポレオン像」などなど…。なおこれらのタイトルは本書の訳に従いましたが、僕が親しんだタイトルと違うものもあります。例えば「名馬シルバー・ブレイズ」は「流星号事件」で、「赤毛組合」は「赤毛連盟」だったような…。
上のタイトルは発表順に並べたもので、「赤毛組合」は4番目の作品で1891年、「六つのナポレオン像」は1904年で35番目の作品です。僕は1917年発表の48作目「最後の挨拶」以降は、最後の60作目にあたる「ショスコム荘」までほとんど記憶に残っていません。
これは僕の印象だけではなくて、著者によれば、全60作品の内人気があるのは前半の作品で、後半の作品はあまり評価されていないようです。
著者によればホームズの人物設定が前半と後半では変わってしまったようで、前半のホームズは化学実験が趣味で、血液の微量分析(今ならルミノール反応)の研究に没頭したり、灰から煙草の銘柄を当てたり、当時は最先端だった指紋による判定を試みたり、ワトスンとの天文学に関する会話をストーリーに紛れ込ませたり、暗号解読を事件解決に用いたり、筆跡鑑定を捜査に取り入れたり、タイプライターの印字の特徴を捜査に活用したり、つまり今でいえば科学捜査の先駆け的存在で、大衆の科学に関する興味に応えようとしていたようです。
でも後半になるとホームズの科学好きな側面は抑制されていきます。前半のホームズは引退したら化学の研究に没頭したいとワトスンに語っているのに、後半では引退後は犯罪学の本を書きたいと言っています。
著者によればこれはドイルが心霊学にはまっていったからだろうとしていますが、もしかしたら第一次世界大戦(1914-1918年)での科学技術を活用した大量殺人兵器(毒ガスなど)を目の当たりにして、英国人の大衆の、あるいはドイル自身の科学熱が冷えていったためかもと僕は思います。
この本の範囲外ですが、ドイルは優れたSF作家でもあったと思うのですが、チャレンジャー教授シリーズ最後の作品「毒ガス帯」が書かれたのが1913年で、以降こちらの分野でもドイルはぱっとしなくなります。
1917年に発表された48作目の「最後の挨拶」ではホームズはすで引退していて養蜂家になっており、愛国者としてドイツのスパイを捕まえるという話で、前半のホームズ物の輝きはもうありませんでした。
ちょっとしんみりとしてしまいましたが、そもそもドイルが何故ホームズとワトスンのコンビで探偵小説を書こうとしたかというと、エドガー・アラン・ポーの探偵小説(と言っても3,4篇しかないのですが)に刺激を受け、ポーのプロットを借りて科学を活用して捜査する探偵を創造したかったようです。1作目の「緋色の研究」で奇妙な化学実験に没頭する主人公としてホームズは登場しますが、当時の化学は最先端の話題だったのでしょうね。まだ「分子」の存在が科学界でも疑問視されていた時代です。
さて、「緋色の研究」の後半は舞台を米国に移すのですが、これが幸いして「緋色の研究」は英国では評判にならなかったのに米国で大ヒットになります。そうしてホームズ物は60作目まで書き続けられることになりました。
今日的な観点からすると眉をひそめたくなる話題はホームズが麻薬常用者だったということです。ホームズは初期の作品のなかでコカインの水溶液を注射しています。どうもこれはホームズ物を書き始めた頃、ドイルがホームズにエキセントリックな性格を与えようと考えたものらしい。しかし作品中で友人のワトスンは薬物の使用は中毒になるといってホームズをきつくたしなめています。その後のホームズは薬物を使わなくなったようです。
著者によれば、このようなコカインに対する否定的な見解は当時としては先進的なものだったらい。驚くべきことに当時はコカインは常習性がないとして一般的に使用が認められていたそうです。
ドイルの生い立ちについても知らないことがありました。彼はスコットランドのカソリックの家庭に生まれ、イエズス会系の学校に入りましたが次第に信仰に疑問を持ち、医学部を出た後でカソリックを棄てたことを親族に告白します。その結果叔父たちからのロンドンでの開業資金援助を断られてしまいます。心霊術にはまったのもイギリスではマイノリティーだという意識のためだったのかも。彼は実生活でもアジア移民の子息が冤罪で有罪になったのを再審査するように働きかけたり、マイノリティー側に立った行動をとっています。
なんだかまたホームズ物を読みたくなりました。本書を手元において読み直すと新しい発見があるかも知れません。
(派生読書)
シャーロック・ホームズ傑作選 (集英社文庫)
シャーロック・ホームズ最後の挨拶 (新潮文庫)
シャーロック・ホームズの回想 (角川文庫)
シャーロック・ホームズの冒険 (新潮文庫)
緋色の研究 (角川文庫)
バスカヴィル家の犬(新潮文庫)
四つの署名(新潮文庫)
恐怖の谷(角川文庫)
シャーロック・ホームズの生還(創元推理文庫文庫)
シャーロック・ホームズの事件簿(創元推理文庫文庫)
お気に入り度:







掲載日:
外部ブログURLが設定されていません
投票する
投票するには、ログインしてください。
1957年、仙台に生まれ、結婚後10年間世田谷に住み、その後20余年横浜に住み、現在は仙台在住。本を読んで、思ったことあれこれを書いていきます。
長年、化学メーカーの研究者でした。2019年から滋賀県で大学の教員になりましたが、2023年3月に退職し、10月からは故郷の仙台に戻りました。プロフィールの写真は還暦前に米国ピッツバーグの岡の上で撮ったものです。
この書評へのコメント
- ゆうちゃん2021-02-17 21:30
検査入院どうか大事ないことを祈っております。
書評面白く拝読いたしました。最近、ドイルの評伝を読みました。お書きの通り、カソリックの信仰を捨てたこともマイノリティの側に立ったことも、合点の行くことばかりでした。僕が読んだ評伝ではSFのうち名作なのはチャレンジャー教授の登場する作品で、「毒ガス帯」の評価はイマイチでしたが・・(僕はドイルのSFは未読です)。
ホームズのキャラクターが前半と後半で変わってしまったことはその通りですね。有名なのは後半で殆どヴァイオリンを弾かなくなったことかと思います。作品のレベルも、よく引き合いにだされる晩年の名作「ソア橋」などは例外で、平均すれば末期に行くに従い、落ちていきます。僕は初期の「冒険」と「思い出」の短編が一番好きです。クリックすると、GOOD!と言っているユーザーの一覧を表示します。 コメントするには、ログインしてください。
書評一覧を取得中。。。
- 出版社:東京化学同人
- ページ数:320
- ISBN:9784807909834
- 発売日:2021年01月21日
- 価格:3080円
- Amazonで買う
- カーリルで図書館の蔵書を調べる
- あなた
- この書籍の平均
- この書評
※ログインすると、あなたとこの書評の位置関係がわかります。