hackerさん
レビュアー:
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「あの、どうしてなわとびなんですか? 僕が訊くと、おじいさんは、 何だってやってるうちにわかるようになるものですよ」(本書収録『なわとび』より)
現代韓国文学を読むのは三冊目でしたが、三度目の正直で、「あたり」でした。1983年生まれのキム・ヘジンは、2012年に本書収録の『チキン・ラン』で文壇デビューした女性作家です。2016年刊の本書は、デビュー以来発表した9作が収められています。ところで、作者は2008年に大学を卒業しているのですが、デビューするまでは、いわゆる「定職」に就いていなかったのではないでしょうか。本書の内容もそうですが、著者あとがきの次の言葉から、そう推測できそうです。
「両親にも感謝の言葉を贈りたいと思う。物を書くという仕事は、両親にとってはいまだに抽象的で不安定なものであるがゆえ、心配ばかりかけていることは重々承知だ。今さらながら、それを理解し、それを受け止めようと心を砕いてくれる二人の気持を振り返ってみる」
韓国というと、儒教を連想する私は、この文章はやや斜に見てしまうのですが、本書からも、肉親に対する想いというのは感じることができます。例によって、特に印象的な作品を簡単に紹介します。
●『オビー』
本の倉庫で非常勤をしている「私」が、そこで出会ったオビーという、ほとんど喋らず、周囲との融和性も協調性もなく、己の非は絶対認めようとしない女性と出会います。かと言って、仕事熱心でないわけではなく、人が見ていないところで、独りで自分に課せられていないことまでしたりします。結局、彼女も「私」もその職場は辞めるのですが、後に「私」はオビーが何とかネットの世界で居場所を見つけようとしているのを知ることになります。本作は、ラストが印象的です。
「前に進み続けるのも、後戻りするのも、気が遠くなりそうだった。どちらへ向かえば、少しは近道できるだろう。すぐに橋を抜けられるだろう。どうせそんな手などありはしない。そんな気がした。私は歩き始めた」
現実社会に帰属意識を持てない若者が、インターネットという虚構の世界にそれを求める姿を描いた作品です。それに、小説という虚構の世界で「居場所」をみつけようとする作者の姿が重なり、「近道なんかない」というエンディングには、どういう生き方をするにしても所詮一歩一歩進むしかないという、本作発表当時20代最後の歳だった作者の意気込みと、同世代へのやさしさとシンパシーを感じることができます。傑作だと思います。
●『アウトフォーカス』
20年間働いた会社から突然解雇された「僕」の母親は、自分の「居場所」に固執するあまり、毎日会社の前に出かけては抗議活動を続けます。同じ時期、祖母が埋葬されている墓地の移転話が持ち上がるのですが、土饅頭だけの墓で、長年親戚一同も訪ねていなかったため、どこに埋葬されているのかよく分かりません。「僕」は、この二つの出来事に振り回され、しょっちゅうバイトを休むので、首になります。
本作が描くのは、母の言いなりになっている「僕」の姿と、中年になってから自分の「居場所」と思っていた会社から追い出される母の姿と、死んでからは所詮忘れられるだけだという人生の姿です。おかしいのは、特に母親の姿で、自分は絶対解雇なんかされないと確信を持っていたのですが、そうなってからの行動を見ると、そうなっても無理ないと読む側は思ってしまうことです。裏を返すと、「普通」の人生を送っても、砂上の楼閣かもしれないなら、それを望んで何になるのかという作者及び若者の主張も感じられます。
●『真夜中の山道』
韓国で実際に起きた、再開発地区で立ち退きを拒否する住民たちが立てこもるビルに、警察特攻隊が突入した際、火災が起きて、住民と警察官に焼死者を出したという事件がモデルだそうです。ただ、事件そのものではなく、共にバイトで雇われた、籠城派の女子大生と、建築会社側で突入する二人の男の、滑稽と言えば滑稽ながら、ただ金のために何でもしていると結果的に殺人すらしかねない立場になってしまう可能性もあることを語っている怖い話です。飛躍しているかもしれませんが、森友学園関連で「赤木ファイル」を残した赤木さんを自殺に追い込んだ人たちのことを連想してしまいました。
●『なわとび』
「何か、つまんなくない?」
この一言がきっかけとなって「完璧だと信じていた彼女との関係が断ち切られ」た「僕」は、ぼんやり時間を過ごしていた公園で、サングラスをかけながら、なわとびをしているおじいさんに話しかけられ、知り合いになります。おじいさんは、もう十年も毎日公園に来て、なわとびをしているのです。誘われて、一緒になわとびをするようになりますが、七百回ぐらい跳ぶと息があがります。おじいさんに「一日に何回ぐらい跳ぶんですか?」と聞くと、こういう返事がかえってきます。
「十年もやってるんですから、あなたよりはずっと多いでしょうね。一日に千五百回跳んでごらんなさい。きっと何かが変わったことに気がつきますよ」
おじいさんとなわとびをするようになって、ふと気づくと、彼女と会わなくなってニヶ月経っていました。その頃、彼女と偶然出会い、お互いにこれが最後だと意識し、「じゃあね」「おまえもな」と言い合って、完全に別れます。そして、おじいさんに誘われて、なわとび愛好者の日曜日の夜のなわとびを集まりにも参加してみます。そこでは、「僕」以外は全員サングラスをかけていました。そして、なわとびをしている「僕」の姿が、本作のラストです。そして、このラストが、私はとても好きです。少し長くなりますが、引用します。
「できることなら、僕も話してあげたかった。なわとびを心から必要とする誰かに、僕もここでなわとびをしているのだと。この闇の向こうに、なわとびを始めようとしている人がどれだけたくさんいるのか、目を閉じると、地面を蹴り上げながらジャンプする彼らの足音が聞こえるようだった。公園を抜け、彼女の住む路地を通り抜け、都市を跳び越え海を渡ると、みんなが地面をけって空中にジャンプする音が、一度に大きなリズムを作り出しそうにも思えた。
これぐらい跳んだら、何回ぐらいになるんでしょうか。
と訊くと、向こうのほうから答えが返ってきた。
さあねえ。
僕は、毎日少しずつ増えていく『一』を体験することになるかもしれなかった。数多くの一が千五百になり、二千になって、いつか三千に届くかもしれない。彼女が前もって先の見えない日々を予想しなかったら、僕らは今でも僕らでいられたのだろうか。一、二ではなく、一、一に集中するためには、きっと僕にも練習が必要なのだろう。僕はおじいさんを横目で見た。なわとびが一人立ちできるための運動だとしたら、誰もが初めてヒモを跳び越えた記憶を持っているはずだ。僕は、それぞれの暗い過去を想像しながら、真っ暗な宙に向かって思い切りジャンプした」
「なわとび」は、おそらく作者にとっては、小説を書くことなのでしょう。そして、誰にでも何かが「なわとび」であるはずなのです。他の作品は社会の中の「居場所」を扱ったものですが、この作品は自分の中にあるはずの自分の「居場所」を探す話です。若い頃の私にとっては、映画がそうでした。「なわとび」仲間が、夜でもサングラスをかけているのは、自分の世界に入るための小道具なような気がします。「居場所」の世界に入る時に、現実世界をありのまま見る必要はないのです。
●『ドア・オブ・ワワ』
「ワワはベトナム人だった。マレーシア人だったろうか。いや、ミャンマー人だったかもしれない。とにかく韓国人ではなかった」
英語の授業で知り合った、何人かもよく覚えていないワワという「小柄で、年配の女性」と「私」の、短い期間の付き合いを語った作品です。韓国語が出来ないワワでしたが、英語も決して上手くはなく、「私」もコミュニケーションをとるのに苦労します。授業でも、カナダ人講師の質問に答えないことが珍しくありません。しかし、ワワの生まれた場所では大きな地震があったことがあり、多数の死者が出たこと、ワワは家族や自分のことは話さないことが分ってきます。しかし、「私」にはそんな彼女を思いやることができません。
これも社会の中の「居場所」をめぐる話です。ワワは難民全般の状況を、彼女と話をするのが嫌になってしまう「私」は我々の姿を表しているように思えます。
さて、最後ですが、あまり目立たないのですが、収録作に政治や社会問題や労働問題がよく描かれていることに気づかされます。ここに紹介しなかった作品では、『チキン・ラン』では若者の自殺、『カンフー・ファイティング』では労働争議、治安の悪化、若者の就職難、『広場近く』では貧困家庭、『シャボン玉吹き』ではデモ隊と警官隊の衝突が出て来ますが、それが目立たないのは、それらが中心テーマから外れているような印象を受けるのと、登場人物がそういうことに興味を示さないからだと思います。ただ、この頻度は、韓国社会での「居場所」を語る作者が意識して配したものなのでしょう。社会の中の「居場所」を語る時に、社会の姿を無視するわけにはいかないのですから。この作者は、長編小説も読んでみます。
「両親にも感謝の言葉を贈りたいと思う。物を書くという仕事は、両親にとってはいまだに抽象的で不安定なものであるがゆえ、心配ばかりかけていることは重々承知だ。今さらながら、それを理解し、それを受け止めようと心を砕いてくれる二人の気持を振り返ってみる」
韓国というと、儒教を連想する私は、この文章はやや斜に見てしまうのですが、本書からも、肉親に対する想いというのは感じることができます。例によって、特に印象的な作品を簡単に紹介します。
●『オビー』
本の倉庫で非常勤をしている「私」が、そこで出会ったオビーという、ほとんど喋らず、周囲との融和性も協調性もなく、己の非は絶対認めようとしない女性と出会います。かと言って、仕事熱心でないわけではなく、人が見ていないところで、独りで自分に課せられていないことまでしたりします。結局、彼女も「私」もその職場は辞めるのですが、後に「私」はオビーが何とかネットの世界で居場所を見つけようとしているのを知ることになります。本作は、ラストが印象的です。
「前に進み続けるのも、後戻りするのも、気が遠くなりそうだった。どちらへ向かえば、少しは近道できるだろう。すぐに橋を抜けられるだろう。どうせそんな手などありはしない。そんな気がした。私は歩き始めた」
現実社会に帰属意識を持てない若者が、インターネットという虚構の世界にそれを求める姿を描いた作品です。それに、小説という虚構の世界で「居場所」をみつけようとする作者の姿が重なり、「近道なんかない」というエンディングには、どういう生き方をするにしても所詮一歩一歩進むしかないという、本作発表当時20代最後の歳だった作者の意気込みと、同世代へのやさしさとシンパシーを感じることができます。傑作だと思います。
●『アウトフォーカス』
20年間働いた会社から突然解雇された「僕」の母親は、自分の「居場所」に固執するあまり、毎日会社の前に出かけては抗議活動を続けます。同じ時期、祖母が埋葬されている墓地の移転話が持ち上がるのですが、土饅頭だけの墓で、長年親戚一同も訪ねていなかったため、どこに埋葬されているのかよく分かりません。「僕」は、この二つの出来事に振り回され、しょっちゅうバイトを休むので、首になります。
本作が描くのは、母の言いなりになっている「僕」の姿と、中年になってから自分の「居場所」と思っていた会社から追い出される母の姿と、死んでからは所詮忘れられるだけだという人生の姿です。おかしいのは、特に母親の姿で、自分は絶対解雇なんかされないと確信を持っていたのですが、そうなってからの行動を見ると、そうなっても無理ないと読む側は思ってしまうことです。裏を返すと、「普通」の人生を送っても、砂上の楼閣かもしれないなら、それを望んで何になるのかという作者及び若者の主張も感じられます。
●『真夜中の山道』
韓国で実際に起きた、再開発地区で立ち退きを拒否する住民たちが立てこもるビルに、警察特攻隊が突入した際、火災が起きて、住民と警察官に焼死者を出したという事件がモデルだそうです。ただ、事件そのものではなく、共にバイトで雇われた、籠城派の女子大生と、建築会社側で突入する二人の男の、滑稽と言えば滑稽ながら、ただ金のために何でもしていると結果的に殺人すらしかねない立場になってしまう可能性もあることを語っている怖い話です。飛躍しているかもしれませんが、森友学園関連で「赤木ファイル」を残した赤木さんを自殺に追い込んだ人たちのことを連想してしまいました。
●『なわとび』
「何か、つまんなくない?」
この一言がきっかけとなって「完璧だと信じていた彼女との関係が断ち切られ」た「僕」は、ぼんやり時間を過ごしていた公園で、サングラスをかけながら、なわとびをしているおじいさんに話しかけられ、知り合いになります。おじいさんは、もう十年も毎日公園に来て、なわとびをしているのです。誘われて、一緒になわとびをするようになりますが、七百回ぐらい跳ぶと息があがります。おじいさんに「一日に何回ぐらい跳ぶんですか?」と聞くと、こういう返事がかえってきます。
「十年もやってるんですから、あなたよりはずっと多いでしょうね。一日に千五百回跳んでごらんなさい。きっと何かが変わったことに気がつきますよ」
おじいさんとなわとびをするようになって、ふと気づくと、彼女と会わなくなってニヶ月経っていました。その頃、彼女と偶然出会い、お互いにこれが最後だと意識し、「じゃあね」「おまえもな」と言い合って、完全に別れます。そして、おじいさんに誘われて、なわとび愛好者の日曜日の夜のなわとびを集まりにも参加してみます。そこでは、「僕」以外は全員サングラスをかけていました。そして、なわとびをしている「僕」の姿が、本作のラストです。そして、このラストが、私はとても好きです。少し長くなりますが、引用します。
「できることなら、僕も話してあげたかった。なわとびを心から必要とする誰かに、僕もここでなわとびをしているのだと。この闇の向こうに、なわとびを始めようとしている人がどれだけたくさんいるのか、目を閉じると、地面を蹴り上げながらジャンプする彼らの足音が聞こえるようだった。公園を抜け、彼女の住む路地を通り抜け、都市を跳び越え海を渡ると、みんなが地面をけって空中にジャンプする音が、一度に大きなリズムを作り出しそうにも思えた。
これぐらい跳んだら、何回ぐらいになるんでしょうか。
と訊くと、向こうのほうから答えが返ってきた。
さあねえ。
僕は、毎日少しずつ増えていく『一』を体験することになるかもしれなかった。数多くの一が千五百になり、二千になって、いつか三千に届くかもしれない。彼女が前もって先の見えない日々を予想しなかったら、僕らは今でも僕らでいられたのだろうか。一、二ではなく、一、一に集中するためには、きっと僕にも練習が必要なのだろう。僕はおじいさんを横目で見た。なわとびが一人立ちできるための運動だとしたら、誰もが初めてヒモを跳び越えた記憶を持っているはずだ。僕は、それぞれの暗い過去を想像しながら、真っ暗な宙に向かって思い切りジャンプした」
「なわとび」は、おそらく作者にとっては、小説を書くことなのでしょう。そして、誰にでも何かが「なわとび」であるはずなのです。他の作品は社会の中の「居場所」を扱ったものですが、この作品は自分の中にあるはずの自分の「居場所」を探す話です。若い頃の私にとっては、映画がそうでした。「なわとび」仲間が、夜でもサングラスをかけているのは、自分の世界に入るための小道具なような気がします。「居場所」の世界に入る時に、現実世界をありのまま見る必要はないのです。
●『ドア・オブ・ワワ』
「ワワはベトナム人だった。マレーシア人だったろうか。いや、ミャンマー人だったかもしれない。とにかく韓国人ではなかった」
英語の授業で知り合った、何人かもよく覚えていないワワという「小柄で、年配の女性」と「私」の、短い期間の付き合いを語った作品です。韓国語が出来ないワワでしたが、英語も決して上手くはなく、「私」もコミュニケーションをとるのに苦労します。授業でも、カナダ人講師の質問に答えないことが珍しくありません。しかし、ワワの生まれた場所では大きな地震があったことがあり、多数の死者が出たこと、ワワは家族や自分のことは話さないことが分ってきます。しかし、「私」にはそんな彼女を思いやることができません。
これも社会の中の「居場所」をめぐる話です。ワワは難民全般の状況を、彼女と話をするのが嫌になってしまう「私」は我々の姿を表しているように思えます。
さて、最後ですが、あまり目立たないのですが、収録作に政治や社会問題や労働問題がよく描かれていることに気づかされます。ここに紹介しなかった作品では、『チキン・ラン』では若者の自殺、『カンフー・ファイティング』では労働争議、治安の悪化、若者の就職難、『広場近く』では貧困家庭、『シャボン玉吹き』ではデモ隊と警官隊の衝突が出て来ますが、それが目立たないのは、それらが中心テーマから外れているような印象を受けるのと、登場人物がそういうことに興味を示さないからだと思います。ただ、この頻度は、韓国社会での「居場所」を語る作者が意識して配したものなのでしょう。社会の中の「居場所」を語る時に、社会の姿を無視するわけにはいかないのですから。この作者は、長編小説も読んでみます。
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「本職」は、本というより映画です。
本を読んでいても、映画好きの視点から、内容を見ていることが多いようです。
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- 出版社:書肆侃侃房
- ページ数:248
- ISBN:9784863854338
- 発売日:2020年11月29日
- 価格:1980円
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