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バルバルス
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「わたしたち」の「健やかな宗教」と「わたしたちではないもの」の「病める宗教」。
 4世紀のローマ皇帝ユリアヌスといえば歴史上「背教者」と称され、キリスト教の台頭著しい古代末期ローマ帝国において伝統的多神教の復興を志しながらも道のり半ば、と言うより足を踏み出してすぐに非業の死を遂げた人物であります。私はかつて読んだ辻邦夫の小説『背教者ユリアヌス』を読んで以来その「晴朗な古典文化の擁護者」としての人物像に惚れ込み、当サイトでもアイコンにしちゃうぐらい好きなのであります。しかし思えば歴史上の人物が好きな根拠がフィクション作品だけというのはなんだか心許ない。ちったぁ専門的な書物も読んだうえで好きと公言したいものよと思っていたのですね。あとは塩野七生の『ローマ人の物語 キリストの勝利』でも取り上げられているけれど、あのシリーズもまた厳密な学術書とは言い難い。ここはいっちょお堅いガクジツショに手を出してみようと思って身の程知らずにも本書を読んでみた次第。


***


 さてさて、本書はその題名が示す通りユリアヌス帝の信仰世界を彼自身の著作、そして彼に反論する者たちの著作を通じて考察した本であります。そういや「ギリシア・ローマ神教の復興者」と言っても、彼は具体的にはいったい何を、どの神を信仰していたのでしょう。本書で彼の信仰の基として紹介されるのは「イアンブリコス派新プラトン主義」という思想。新プラトン主義はこの世のあらゆる存在は至高神たる「一者」から流出した存在であると定義し、イアンブリコスはこの「一者」を中心にこの宇宙と、各民族に相応しい形で顕現した神々が存在し、形式主義として批判され勝ちな供儀や祭儀は可視的な営為を通じて不可視である神々の存在を感じ取らせるという意味で重要で、各人はそれぞれが属する民族に相応しい形での供儀を通して神々への感謝を捧げ、神々との合一を目指し、最終的には死後の魂の「一者」への回帰を果たすべきであると唱えたようです。

 ううむ、「一者」を「神」、「供儀と祭儀」を「神への祈り」に置き換えればなんだかとってもキリスト教染みた思想のように思えます。やはりローマ帝国という巨大な秩序が揺らいだ古代末期には、どの陣営に属す人々も現実的な次元を離れた形而上的な救済を求めるようになっていったのでしょうか。しかしそれにしてもこれでは哲学というより宗教であります。いやそもそも哲学と宗教の垣根とはなんでしょう。哲学とは疑うこと?宗教とは信じること?現代っ子たる我々にはそういうイメージが一般的ですが、本書が指摘するには古代における哲学と宗教の領分は相当に重なり合っていたようです。

 古代世界における「哲学」(philosophia)の概念をより適切なかたちで伝える表現としては、本邦でもしばしば「愛智」という表現が採用されてきた。「愛智」とは、世界の根源にある神的存在への敬愛と、神的な存在に発する世界の秩序の探求に貫かれた生を求める修養でもあった。「愛智」はたんなる思想の探求ではなく、近代以降の「宗教」概念が想定する「宗教」の機能の一端を備えていた。

 すなわち「哲学=愛智」は宇宙観と死生観、倫理観と道徳観を特定の思想体系に沿って提供し、かつそこに参与する者自身の生の実践を方向付ける営為でもある。


 とのこと。例えば聖典「ヴェーダ」の解釈を通じてヒンドゥー諸宗教とインド哲学の精緻な体系が出来上がったように、宗教と哲学というのは親を同じくする似た者兄弟なのかもしれません。こうなったらユリアヌスも”哲学の徒”だけではなく”宗教者”としても捉える必要がありそうです。そして彼が奉じたイアンブリコス派新プラトン主義は至高神たる「一者」を崇拝するという点で紛れもなく一神教的な性格を持っており、伝統的多神教の旗手ユリアヌスのイメージは大きく揺らぎます。しかし本書によればそもそも古代末期においては所謂ヘレニズム世界にも既に一神教的な思潮は存在し、それは決してユダヤ・キリスト教=ヘブライズムの専売特許ではなかったのだといいます。

 古代地中海世界、とりわけローマ帝政期の宗教文化のなかには集合概念としての「至高神」「高神」を想定する地域的慣習や、諸神格のなかから特定の神を選んで崇拝する結社ないしは慣習が存在した。これらの祭祀の痕跡と祭祀の実態、そして祭祀の背景にある思想は碑文史料からは必ずしも明確にはならないが、ユダヤ教・キリスト教の外部にあるローマ帝政期の宗教に「伝統的多神教」の総称を無批判に冠することは必ずしも適切であるとはいえない。


 至高神以外にも多くの神々の存在を認めるという意味で多神教であっても、「至高の一者」を設定する新プラトン主義と「全知全能の神」を設定するキリスト教は相互に影響しあった歴史があるらしく、両者の相克は「真の愛智」の座を巡る新旧思潮のぶつかり合いであったと言えそうです。

 そしてユリアヌスは大宇宙と一体となった「小宇宙」としての人間の魂の陶冶と救済につらなる思想を「哲学=愛智」として捉え、思想を言いあらわす言葉と生活のなかに信念と思索の結果を具現化させる行為の一貫性を奉じている。彼はキリスト教も犬儒派も「哲学=愛智」の一派として捉えていた。(・・・)キリスト教史料が自集団への「棄教」「裏切り」とみなす現象も、彼にとっては生の規範を与える知の体系からまた別の体系への転向であったとすれば、古代末期に於ける教団宗教外の霊性のありかたとして観察に値する対象となろう。


 ローマ帝国を覆い尽くす勢いで伸長するキリスト教を「病める宗教(=愛智)」と断じ、自らが奉じるイアンブリコス派新プラトン主義によって再解釈された「ヘレネス(=ギリシア)の宗教」こそが「真の愛智」であると信じたユリアヌス。そんな彼こそが「病める宗教(=愛智)」を奉じる「ギリシア病」患者であると断じたキリスト教論客たち。互いに「わたしたち」と「わたしたちではないもの」として敵対しあう両者の主張を通して立ち現れるのは「晴朗な古典文化の擁護者」だけでは収まらない皇帝ユリアヌスの光と影なのです。


***


 本書は6つの章から成り、【第1章 万華鏡のなかの哲人皇帝】では「背教者」から「教権への批判者」「古典文化の守護者」と時代を経るごとに変転するユリアヌスへの評価に触れ、【第2章 幻影の文人共同体を求めて】では単独統治権を得るまでに形成されたユリアヌスの信仰世界のルーツを辿り、【第3章 理想の潰走】では単独統治権を得たユリアヌスがどのような方法で「伝統的多神教」の復興を試みたかを語り、【第4章 ユリアヌスの信仰世界Ⅰ】ではユリアヌス自身の著作を基にいよいよ彼の信仰世界の深層に言及し、【第5章 ユリアヌスの信仰世界Ⅱ】ではそんな彼が目指した理想的な国家と宗教の在り方を再構築し、【第6章 理想化されたギリシアへの当惑】ではユリアヌスへの反駁を行ったキリスト教側論客たちの著作を基に、あまりにもギリシア文化を愛しすぎたユリアヌスの思想と施策の限界と偏狭性を抉ります。

 さて、『背教者ユリアヌス』で描かれたユリアヌス像に惚れ込んだ者からすれば本書を通して描き出される彼の姿には正直言って幻滅を覚えることでしょう。彼はなによりもギリシア文化を至高のものとし、それ以外の文化を一段下の「バルバロイ=蛮族」のものとして見下します。彼は旧約の神を嫉妬に駆られる邪神と見なし、そのような神を信じるユダヤ民族を所詮弱小民族と断じ、そのような神が与えた戒律をすら満足に守れず生まれの不確かな”反逆者”を教祖として崇めるキリスト教徒たちを「病める宗教」を奉じる者たちと断じ、真に正しい「ヘレネスの宗教」に帰ることを呼びかけます。

 彼はギリシアの神々を善意に満ちた存在と断定し、神話に散見される神々の猥雑さや欠点を示すエピソードを”信じるに値しない捏造物”と断じ、精選された”清く正しい”古典作品のみを信じるに足る「聖典」として扱い、神々に捧げられた祝祭を愉しむ人々を”神々への感謝を捧げるという本来の目的を忘れて享楽に走る堕落した人々”として譴責するのです。彼はギリシア語という言語そのものをすら神聖視し、それをもたらしたヘレネスの神々を信じないキリスト教徒たちがギリシア語の文法や修辞学、それらによって織りなされる諸々の学芸を学ぶことを良しとしません。

 これではまるで昨今のヘイト本のようであり、どちらが狂信者か分かりません。彼の宗教政策のうちで名高いユダヤ神殿の再建命令もまた、神殿再建とともに供儀の習慣を復活させることでユダヤ教を自分が理解可能な宗教観へ回収するための施策であるとさえ受け取れます。

 本書ではむしろユリアヌス死後に反撃の狼煙を挙げたナジアンゾスのグレゴリウスらキリスト教論客たちの彼の「ギリシアおたく」振りへの駁論の方が大きな説得力を持って迫ってきます。いわく「ギリシア語は飽くまで”言語”に過ぎず、聖性を持つものではない」「ギリシア語によって織りなされた各種学芸もまた宗教的帰属を超えた共有財産であって、特定の人々の専有物であってはならない」「そもそもギリシア人とギリシア語話者は現実には多種多様な宗教に帰依しており、彼らを”ヘレネス”として一括して語るユリアヌスは現実とそこにある多様性を無視している」etc...

 なかには「お前たちに言われたくねぇ」よとツッコみたくなるものもありますが、その多くは的を射たものと思えます。ユリアヌスの親ギリシア思想・反キリスト教思想は単に自分の人生に暗い影を投げかけたものに対するルサンチマンの結晶に過ぎないのではないか・・・。読み進めるごとにその思いは強くなって行きます。所詮彼は哲学者であって人々を導く皇帝の器ではなかったのだと。

 先哲たちが夢想したユートピア、志操清らかな哲人と僧侶の国。それを地上に具現化できるものと信じてやまないやんごとなき生まれの文人が政治の実務に関わるとき、本人さえも予想もしなかったディストピアが開かれてゆく。哲人と僧侶の国の宗教は情念と反知性性を徹底的にまぬかれたものであるべきだ、そのような信念に従って猥雑な想念を喚起する説話や祝祭に集う楽しみや喜びすらも徹底的に排除しようと欲したがゆえに、人間のもっとも人間らしい痛みや悲しみを容れることのできない清すぎる水のような思想が生まれる。立場ゆえに自由で真摯な思想の探求を封じられて、お仕着せの信仰を立場にふさわしく擁護せよ、そして讃えよと迫られる苦しみ。生活と栄達のためにそれまでの生き方も信条もあっさりと捨て、身も心も主君の思想に染まろうとするひとびと。力あるものによって探求と表現の手段を奪われるあの窒息するような怒りと絶望。「わたしたち」の足元を掘り崩そうとする「わたしたちではないもの」の存在に向かって互いに真摯な悪罵を投げつけるひとびと。古代末期の混沌のなかに開かれる「よりよき信仰」をめぐる蹉跌と闘争は、現在のこの現実とも通じ合う、斬れば血を吹くような手触りを備えていた。


 「怪物と戦うには自らもまた怪物にならねばならない」「暗闇を見つめるとき、暗闇もまた自分を見つめている」という言葉がありますが、本書を読んで私が感じ取ったユリアヌス像はまさにそれ。キリスト教と戦うためにギリシア・ローマ神教を始めとする諸宗教にキリスト教のような統一的再解釈を施し、神官たちにキリスト教司祭のような潔癖さを求め、人々にキリスト教徒のような敬虔さと清廉さを求める姿勢は、「多様性や寛容などというものは所詮、価値観や世界観を同じくする者同士の理想語りに過ぎないのではないか?」という私の個人的な疑問への負の裏付けとなりました。彼は多様性を重んずる「晴朗な古典の擁護者」ではなく、明確な暴力にこそ訴えなかったものの排他を武器に別の排他を取り除こうとした一個の権力者に過ぎなかったのでしょうか。少なくとも本書を通して現れるユリアヌス像は「ヘレニズム・ヤンキー」とも言えそうな、そのようなものでした。

 個人の信念の次元で特定の言語や思想の体系を神聖視することはありえないことではない。しかし、宗教的・民族的帰属を超えた共通財産を神聖化する権力者が不特定多数のひとびとにみずからの信念を迫る態度には、まぎれもなく全体主義的な危うさが介在する。さらに、その結果として特定の信仰世界に生きるひとびとから思考と表現の手段と機会を奪おうとすることは、物理的な暴力や科料の徴収よりもさらに致命的な暴力であろう。


 もちろん本書は「ユリアヌスは大した人物ではなかった」で完結する単純な親キリスト教的書物ではありません。だいたい上記のような「致命的な暴力」はコンスタンティヌス以降の、そして後の中世暗黒時代にキリスト教陣営が大いに奮い、奮うことになるものなのですから。彼を巡る研究は現代社会に通じる「わたしたち」と「わたしたちではないもの」の間で展開する熾烈な闘争の歴史の研究であり、それはまさに斬れば血を吹くような現代的意義を備えた研究なのです。


***以下お小言&おふざけ御免***

 はい、皆さま遅ればせながら明けましておめでとうございます。今年の抱負も「色物街道まっしぐら」のbarbarusでございます。本書は多くの知的刺激に満ちた良書なんですけど誤植が多いのが玉に瑕なんですね。例えば「~が~である」というところを「~をが~である」としてしまっているケアレスミスから、「アブラハム」が「アブラ公」になっていたりというネタまがいのおもしろ誤植まで。重版の暁には是非とも改訂してもらいたいものですねぇ。 え?本書は高いしマニアックだし重版されんのって?だよねーそうそう売れねーわなこんなほn...あ、なんだキサマr...ぐふっ

ツー、ツー、ツー(©barbarus)
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バルバルス
バルバルス さん本が好き!1級(書評数:422 件)

読書とスター・ウォーズをこよなく愛するもと本嫌いの本読みが知識もないのに好き放題にくっちゃべります。バルバルス(barbarus)とは野蛮人の意。

周りを見渡すばかりで足踏みばかりの毎日だから、シュミの世界でぐらいは先も見ずに飛びたいの・・・。というわけで個人ブログもやり始めました。

Gar〈ガー〉名義でSW専門ブログもあり。なんだかこっちの方が盛況・・・。ちなみにその名の由来h…(ry

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この書評へのコメント

  1. Yasuhiro2020-01-28 09:05

    あけましておめでとうございます。最後に笑いを忘れないバルバル師匠、さすがです。ちなみにうちの娘は昔ハムスターに公(きみ)ちゃんという名前をつけていました。

  2. バルバルス2020-01-28 18:07

    うむ、流石はY氏の娘御、わかっておるな。(←何を)
    しかしアブラ公ってなんかアラブの石油王みたいでなんかツボだなぁ...なんにせよ本書は慶應義塾大学出版会なるコワそうな出自であるにも関わらずこのようなチョンボをするとは慶應恐るるに足りz...む、余の財布から諭吉が消えた!

  3. ゆうちゃん2020-02-01 12:58

    これは力作ですね。特にユリアヌス帝が特定の宗派に入れ込んでいたとは。
    塩野さんの著作にはキリスト教偏重を止めたのはよくても、神官制などを採用してギリシャの宗教をキリスト教的な視点でとらえており、(自分のやろうとしていることを)「わかっているのか?」と批判的に書かれていました。たぶん、融通の利かない一神教ではなく、多様性と寛容性を持つ多神教への回帰が本来のあるべき姿だったのが、目的が手段と化して「キリスト教排斥」に重心が移ってしまった点を批判しているのだと思います。

    最後の落ちは笑えました。大学の出版会なのに一体誰が校正しているのでしょう(^O^)。

  4. バルバルス2020-02-01 18:36

    本書を読んでいて頭に浮かんだのはフランケンシュタイン博士でした。死体を継ぎ接ぎして人間を蘇生させようとした彼に似て、ユリアヌスもまた本来の姿を歪めてまで死に体の宗教の蘇生を試みたのかも、と。というか、彼自身が余りにも真面目で融通が利かない性格でギリシア・ローマ神教を始めとする伝統的多神教の良く言えば鷹揚、悪く言えばいい加減な世界観に馴染めていなかったのではないかとさえ思います。もし彼の幼年期を暗くした一連の事件がなければ清廉なキリスト教者になっていてもおかしくなかったかもとさえ思いました。

    塩野作品でも言われていたように、彼の治世が19か月ではなく19年続いて反キリスト教政策が根付いていても、代わって新プラトン主義による一神教的価値観が世界を覆ったように思えます。しかしギリシア・ローマ文明に敵愾心を持たないヘレニズム的一神教ならば中世以降の文化破壊はなかったかも、とも思う次第です。

  5. バルバルス2020-02-01 18:37

    >大学の出版会なのに一体誰が校正しているのでしょう(^O^)。

    慶応大学出版会「よし、あの者の財布からも諭吉先生を取り上げよう」

  6. No Image

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