ぽんきちさん
レビュアー:
▼
『人生論ノート』が語っていること。それが語られた背景。
100分de名著は、NHK Eテレの連続番組。その名の通り、週1回25分、1ヶ月4回で1クール、25x4=100分で1冊の名著を読み解いていく。
本テキストは、三木清『人生論ノート』を取り上げた月のものである(放送は2017年4月(2018年11月に再放送))。
解説は哲学者の岸見一郎。
『人生論ノート』自体を丁寧に読み解いていくのはもちろんだが、三木自身の人生にも迫る。
三木は1897(明治30)年生まれ。京都帝国大学文学部哲学科を卒業後、恩師の後押しで岩波書店の後援を受け、3年間ヨーロッパに留学して、ハイデガーの下で学んだり、パスカル研究に没頭したりする。将来を嘱望された才人であったが、帰国後、当人の要望に反して、母校・京大には受け入れられなかった(過去の女性関係が問題視されたという説もあるが真偽は不明)。
東京で私学で教える傍ら、岩波書店の編集顧問のような立場に付く。その後、共産党に資金を提供したとされ治安維持法違反で検挙・起訴(1930年)されたこともあって、教職を辞すことになる。以後は在野の哲学者・社会評論家として活躍する。
アカデミズムは離れたわけだが、一方で、一般向けの著述を多く世に出すことになった。『人生論ノート』も、そうして生まれた本である。
『人生論ノート』は、元々、雑誌「文学界」に1938年から41年に掛けて、中断を挟みながら掲載された連載エッセイである。
第二次世界大戦がひたひたと近付き、そしてそこに突入する、キナ臭い時代である。当局に睨まれてもいた三木が、摘発を免れるために、あえて持って回ったレトリカルな言い方をしていると考えられる箇所も多いという。
一方で、三木の言説には「希望」がにじむ。
困難な日々の中で、何事かを達成することに価値を置くのではなく、何事かを達成しようと真摯に努力することそのものに、希望を見出していたようにも思える。結果がすべてであるならば、目的を成し遂げられなかったとき、すべての努力には意味がなかったことになる。だが、人生が運命であり、不可知であるならば、生きていること自体が希望である。
力強い言葉である。
東洋思想というと禅がまずクローズアップされがちだが、三木は歎異抄に感銘を受け、親鸞に魅かれていたという。ソフィスティケートされすぎた禅よりも、庶民と共にあり、平民に寄り添う親鸞の教義。このあたりもなかなか興味深いところである。
三木はまた、温かな家族愛を示す人でもあった。本テキストには、戦時中の赴任先のマニラから日本にいる幼い娘に宛てた手紙も収録されている。特徴のある筆跡の手紙からは、細やかな心づかいと父親らしい教育的配慮が覗く。
戦況が進むにつれ、三木自身の人生も厳しさを増していく。論壇から締め出され、徴用されて外地に配属され、伴侶とも二度死に別れた。
ついには敗戦の年の3月、思想犯である旧友を一晩泊めたことを咎められ、疎開先で逮捕、投獄される。そもそも当局からは色眼鏡で見られていたわけで、口実は何でもよかったのだ。
8月、獄中で終戦を迎えたが、直ちに釈放されることはなかった。その翌月、疥癬から急性腎炎に罹患していた三木は、寝床から転げ落ちて絶命しているところを獄吏に発見される。
当時、思想犯・政治犯は、政府の思惑で、獄中に留め置かれる者が多かった。戦争責任論が高まることを恐れたのだろうか。
三木は、「死ななくてもよい命」だっただろうと言われている。
末期の三木は、獄房の冷たいベッドの上で、何を思っていただろうか。
怒りだろうか。悔しさだろうか。悲憤だろうか。
だがそこに一抹でも希望もあっただろうと後世の読者が想像することを、『人生論ノート』を遺した三木ならば、おそらく許容してくれるのではないだろうか。
本テキストは、三木清『人生論ノート』を取り上げた月のものである(放送は2017年4月(2018年11月に再放送))。
解説は哲学者の岸見一郎。
『人生論ノート』自体を丁寧に読み解いていくのはもちろんだが、三木自身の人生にも迫る。
三木は1897(明治30)年生まれ。京都帝国大学文学部哲学科を卒業後、恩師の後押しで岩波書店の後援を受け、3年間ヨーロッパに留学して、ハイデガーの下で学んだり、パスカル研究に没頭したりする。将来を嘱望された才人であったが、帰国後、当人の要望に反して、母校・京大には受け入れられなかった(過去の女性関係が問題視されたという説もあるが真偽は不明)。
東京で私学で教える傍ら、岩波書店の編集顧問のような立場に付く。その後、共産党に資金を提供したとされ治安維持法違反で検挙・起訴(1930年)されたこともあって、教職を辞すことになる。以後は在野の哲学者・社会評論家として活躍する。
アカデミズムは離れたわけだが、一方で、一般向けの著述を多く世に出すことになった。『人生論ノート』も、そうして生まれた本である。
『人生論ノート』は、元々、雑誌「文学界」に1938年から41年に掛けて、中断を挟みながら掲載された連載エッセイである。
第二次世界大戦がひたひたと近付き、そしてそこに突入する、キナ臭い時代である。当局に睨まれてもいた三木が、摘発を免れるために、あえて持って回ったレトリカルな言い方をしていると考えられる箇所も多いという。
一方で、三木の言説には「希望」がにじむ。
人生は運命であるように、人生は希望である。運命的な存在である人間にとって生きていることは希望を持っていることである。<希望について>
困難な日々の中で、何事かを達成することに価値を置くのではなく、何事かを達成しようと真摯に努力することそのものに、希望を見出していたようにも思える。結果がすべてであるならば、目的を成し遂げられなかったとき、すべての努力には意味がなかったことになる。だが、人生が運命であり、不可知であるならば、生きていること自体が希望である。
力強い言葉である。
東洋思想というと禅がまずクローズアップされがちだが、三木は歎異抄に感銘を受け、親鸞に魅かれていたという。ソフィスティケートされすぎた禅よりも、庶民と共にあり、平民に寄り添う親鸞の教義。このあたりもなかなか興味深いところである。
三木はまた、温かな家族愛を示す人でもあった。本テキストには、戦時中の赴任先のマニラから日本にいる幼い娘に宛てた手紙も収録されている。特徴のある筆跡の手紙からは、細やかな心づかいと父親らしい教育的配慮が覗く。
戦況が進むにつれ、三木自身の人生も厳しさを増していく。論壇から締め出され、徴用されて外地に配属され、伴侶とも二度死に別れた。
ついには敗戦の年の3月、思想犯である旧友を一晩泊めたことを咎められ、疎開先で逮捕、投獄される。そもそも当局からは色眼鏡で見られていたわけで、口実は何でもよかったのだ。
8月、獄中で終戦を迎えたが、直ちに釈放されることはなかった。その翌月、疥癬から急性腎炎に罹患していた三木は、寝床から転げ落ちて絶命しているところを獄吏に発見される。
当時、思想犯・政治犯は、政府の思惑で、獄中に留め置かれる者が多かった。戦争責任論が高まることを恐れたのだろうか。
三木は、「死ななくてもよい命」だっただろうと言われている。
末期の三木は、獄房の冷たいベッドの上で、何を思っていただろうか。
怒りだろうか。悔しさだろうか。悲憤だろうか。
だがそこに一抹でも希望もあっただろうと後世の読者が想像することを、『人生論ノート』を遺した三木ならば、おそらく許容してくれるのではないだろうか。
掲載日:
外部ブログURLが設定されていません
投票する
投票するには、ログインしてください。
分子生物学・生化学周辺の実務翻訳をしています。
本の大海を漂流中。
日々是好日。どんな本との出会いも素敵だ。
あちらこちらとつまみ食いの読書ですが、点が線に、線が面になっていくといいなと思っています。
「実感」を求めて読書しているように思います。
赤柴♀(もも)は3代目。
この夏、有精卵からヒヨコ4羽を孵化させました。そろそろ大雛かな。♂x2、♀x2。ニワトリは割と人に懐くものらしいですが、今のところ、懐く気配はありませんw
この書評へのコメント

コメントするには、ログインしてください。
書評一覧を取得中。。。
- 出版社:NHK出版
- ページ数:116
- ISBN:9784142230730
- 発売日:2017年03月25日
- Amazonで買う
- カーリルで図書館の蔵書を調べる
- あなた
- この書籍の平均
- この書評
※ログインすると、あなたとこの書評の位置関係がわかります。






















