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ぱせりさん
ぱせり
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そして問いかける。「この世は生きるに値するか」
宇藤聖子は五十歳。子が一人立ちして、夫と二人暮しになった。「どうやらあがったようだ」という言葉は、身体の事もそうだけれど、生活のさまざまなことに通じる。
そんな、あがりの年の聖子のほぼ一年間、十二章は、夫婦二人の生活に感じるお互いの事、遠くにいる息子の事、同僚や友人知人との付き合いの中で感じる事など、ちょっとしたこと(でも大きな事件の火種になりそうなことでもある)などで、読みながら、確かにそういうことある、と共感し、時々くすっと笑ってしまう。
若くはないけれど、オバアチャンと呼ばれるには早すぎる聖子の五十代。若い頃とは違う責任や重荷を感じたりもするけれど、一方で、身軽になったような気がする五十代でもあるのだ。


実は、この十二章の章題は、ほぼ六十年前の伊藤整の女性論『女性に関する十二章』の章題と一緒なのだ。聖子は、ある探し物をきっかけに、伊藤整の随筆を、生活の合間に少しずつ読んでいる。
聖子の日常のなかで起ることや考えることが、この伊藤整の随筆の十二の章題とリンクしていく。


聖子の身の回りの話と合わせての伊藤整の随筆の噛み砕きはとてもおもしろかった。
最初はただ古臭く、鼻持ちならない、60年前の男性による女性論、と思っていた随筆が、読むほどに、別な顔に見えてくるのもおもしろかった。
女性について語ることは、必ずしも女性について「だけ」語っていたのではない事。誰に対しても大切なことを、なぜ戦後のこのときに女性に向かって語る必要があったのかという事などを考えている。
言葉だけ聞くと美しく感じられる自己犠牲の精神、日本的情緒(個人をだいじにしようとするとワガママって非難されるような雰囲気、とか)のこと。
誰かに自己犠牲を強いることは(あるいは、誰かが自己犠牲を引き受けることは)、他の人にも、別の場面でそういうことを強制することになっているのではないか。
戦争の記憶が生々しい1956年に、伊藤聖の女性論は書かれたのだった。


この物語が書かれてからすでに十年がたっている。十年でじわじわといろいろ変わってきた。いろいろ露わになってきた。不安はある。
それでも……。
この物語の最後の章は『この世は生きるに値するか』だ。いま、この問いかけにはどのように答えればいいのだろう。ことに、これから生まれてくる子に対して。
やはり、心込めて「値する」と答えたい。そのように暮らしていきたい。





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ぱせり
ぱせり さん本が好き!免許皆伝(書評数:1742 件)

いつまでも読み切れない沢山の本が手の届くところにありますように。
ただたのしみのために本を読める日々でありますように。

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