くにたちきちさん
レビュアー:
▼
縄文時代に、文字はあったのでしょうか。当時の中国の文献に「倭国」はどのように書かれていたのでしょうか。時代はずっと下って、幕末の「異国船打払令」はいかに発せられたのでしょうか。これらの疑問に答えます。
現在の日本人は、日本語を話し、書き、読み、聞く生活をしています。しかし、漢字・漢文が書き言葉になっていたのは、それほど前ではないようです。いつから、今のような言葉になり、文字を使うようになったのかを調べると、日本人のルーツが見えて来るようです。
鹿児島県種子島の遺跡から出た弥生時代の人骨にはさまざまな貝製の腕輪や貝札(貝に彫刻を施した装身具)が着けられていて、貝札の中に漢字の「山」のように見える陰刻が施されているものがあるそうです。これを漢字と見るか、図形や模様と見るか、それは、装身具に「山」という漢字を書いた理由を明らかにしなければならないが、きちんとした訳が分からないので、積極的には文字として認めることは出来ない、というのが筆者の考えです。
これまでに「有銘刀剣」といわれるものが、九例出土されていますが、これらの刀剣に刻まれている文字から、その製作年代や書かれている文意などが推定されます。漢字で書かれていても、当時の日本的な表現や日本語に基づく発想がみられる例があり、いずれも確実な「文字資料」であると述べています。
飛鳥時代になると、聖徳太子が著したとされている「憲法十七條」がどんな言葉で書かれているかを問題にしています。これは中国の文献の表現を使って作られているのは当然であるとしても、随所に和語に置き換えて理解しているところがあると筆者はいいます。
『日本書紀』をよみ、そこに書かれていることが、近年の発掘調査によって、ある程度具体的に裏付けられてきたことが、「飛鳥宮跡」によりわかったことが紹介されています。そして筆者も、これらの遺跡を訪れ、『日本書紀』に書かれていることと一致していることに不思議な気がしたと書いています。しかし、漢字で書かれている「本文」の背後に、漢語や和語がどのように存在しているかは依然として判然としない点が多々あるとのことです。
平安時代になると、『大宝律令』や『養老律令』が制定され、律令国家になったとされていますが、これらのうち『養老律令』は現在『律令』(1976年、岩波書店)で読むことができます。そこに書かれている文字と文章(言語環境)はどのようなものであったのかを、気が遠くなるような作業で解き明かしています。
漢字がどのように書かれたかを「三筆」と「三跡」について考え、これは「中国風文化を和化して成り立った流れ」と見ています。ここでは、三筆とは、嵯峨天皇、空海、橘逸勢を、また、三跡は、小野道風、藤原佐理、藤原行成だとしていますが、これには異論もあるようです。しかし、三跡の頃(10世紀)には、仮名が生まれ「国風文化(仮名文学)」に時代になったとしています。
『古事記』(701年)から『古今和歌集』(905年)、この二百年の間に「日本語による表現」が成熟したとか、格段の進歩を遂げたというように表現するのは、『古事記』は未熟なもの、遅れているものとみなすことになり、筆者は「ずいぶんとかたちをかえたようにみえる」としています。
このような経過をたどって、日本語が読み書きされるようになり、武家社会には、和風漢文で書かれていたものが、江戸時代になって、公文書も仮名交じり文となったところでこの本は終わっています。融通無碍とされている、現代日本語作法のルーツを知ることができたように思いました。
鹿児島県種子島の遺跡から出た弥生時代の人骨にはさまざまな貝製の腕輪や貝札(貝に彫刻を施した装身具)が着けられていて、貝札の中に漢字の「山」のように見える陰刻が施されているものがあるそうです。これを漢字と見るか、図形や模様と見るか、それは、装身具に「山」という漢字を書いた理由を明らかにしなければならないが、きちんとした訳が分からないので、積極的には文字として認めることは出来ない、というのが筆者の考えです。
これまでに「有銘刀剣」といわれるものが、九例出土されていますが、これらの刀剣に刻まれている文字から、その製作年代や書かれている文意などが推定されます。漢字で書かれていても、当時の日本的な表現や日本語に基づく発想がみられる例があり、いずれも確実な「文字資料」であると述べています。
飛鳥時代になると、聖徳太子が著したとされている「憲法十七條」がどんな言葉で書かれているかを問題にしています。これは中国の文献の表現を使って作られているのは当然であるとしても、随所に和語に置き換えて理解しているところがあると筆者はいいます。
『日本書紀』をよみ、そこに書かれていることが、近年の発掘調査によって、ある程度具体的に裏付けられてきたことが、「飛鳥宮跡」によりわかったことが紹介されています。そして筆者も、これらの遺跡を訪れ、『日本書紀』に書かれていることと一致していることに不思議な気がしたと書いています。しかし、漢字で書かれている「本文」の背後に、漢語や和語がどのように存在しているかは依然として判然としない点が多々あるとのことです。
平安時代になると、『大宝律令』や『養老律令』が制定され、律令国家になったとされていますが、これらのうち『養老律令』は現在『律令』(1976年、岩波書店)で読むことができます。そこに書かれている文字と文章(言語環境)はどのようなものであったのかを、気が遠くなるような作業で解き明かしています。
漢字がどのように書かれたかを「三筆」と「三跡」について考え、これは「中国風文化を和化して成り立った流れ」と見ています。ここでは、三筆とは、嵯峨天皇、空海、橘逸勢を、また、三跡は、小野道風、藤原佐理、藤原行成だとしていますが、これには異論もあるようです。しかし、三跡の頃(10世紀)には、仮名が生まれ「国風文化(仮名文学)」に時代になったとしています。
『古事記』(701年)から『古今和歌集』(905年)、この二百年の間に「日本語による表現」が成熟したとか、格段の進歩を遂げたというように表現するのは、『古事記』は未熟なもの、遅れているものとみなすことになり、筆者は「ずいぶんとかたちをかえたようにみえる」としています。
このような経過をたどって、日本語が読み書きされるようになり、武家社会には、和風漢文で書かれていたものが、江戸時代になって、公文書も仮名交じり文となったところでこの本は終わっています。融通無碍とされている、現代日本語作法のルーツを知ることができたように思いました。
お気に入り度:





掲載日:
外部ブログURLが設定されていません
投票する
投票するには、ログインしてください。
後期高齢者の立場から読んだ本を取り上げます。主な興味は、保健・医療・介護の分野ですが、他の分野も少しは読みます。でも、寄る年波には勝てず、スローペースです。画像は、誕生月の花「紫陽花」で、「七変化」ともいいます。ようやく、700冊を達成しました。
この書評へのコメント

コメントするには、ログインしてください。
書評一覧を取得中。。。
- 出版社:河出書房新社
- ページ数:240
- ISBN:9784309625102
- 発売日:2018年08月11日
- Amazonで買う
- カーリルで図書館の蔵書を調べる
- あなた
- この書籍の平均
- この書評
※ログインすると、あなたとこの書評の位置関係がわかります。






















