ぽんきちさん
レビュアー:
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点字考案者はいかに生まれ、どう生きたか。当時のパリの視覚障害者の状況も合わせ。
点字を考案したフランス人ルイ・ブライユ(1809-1852)の伝記。視覚障害者であったブライユの手紙の翻訳(英語からの重訳)や、写真・図版なども多く収める。
「手作り感」のある、大判のソフトカバー。
原著者は、視覚障害者の歴史を研究してきたC.マイケル・メラー。ある時、ブライユゆかりの地を巡り、ブライユの直筆手紙(点字ではなく、手書き文字)に感銘を受け、所有者であるパリ国立盲学校に掛け合って英訳する許可を得たことに端を発する。
これを知ったアメリカ・ボストンのナショナル・ブレイル・プレス(*ブレイルBrailleはブライユの英語読み。英語圏ではブライユ考案の点字は彼の名を取ってブレイルと呼び習わされている)が、出版を申し出、別の人物が所有する写真などと合わせ、伝記の形で出すことになったもの。
邦訳版は日本点字委員会が発行している。
ブライユ自身の生涯に合わせて、当時のフランスの政治状況、視覚障害者が置かれていた環境なども合わせて興味深い。
ルイ・ブライユは、フランスの田舎、クールベの馬具職人の家に生まれた。両親が比較的高齢になってから末っ子として生まれた彼は、非常に愛されて育った。だが、不幸にも3歳のときに、父の仕事道具で目を傷つけたことをきっかけに、右目を失明、後に左目も光を失う。
両親は嘆き悲しんだ。しかし彼らはともかく、ルイの教育をあきらめなかった。目が見える他の子と同等の教育を受けさせ、家でもアルファベットを学ばせた。
ルイ自身、ずば抜けて賢い子だった。地区の司祭も彼の聡明さを認め、個人教授をするなどして才能を伸ばしてやった。後に、パリの盲学校への道が拓けたのは、司祭が土地の荘園領主を通じて紹介してくれたためだった。
パリ盲学校の初代校長はヴァランタン・アユイという人物だった。アユイは当時の視覚障害者たちが物乞いや見世物など、虐げられて暮らしていることに義憤を抱き、1784年、パリに盲学校を設立した。啓蒙主義の時代にあって、高い理想を持ち、また盲目の学者や音楽家と接することで、視覚障害者にも教育を与えれば才能が伸ばせるとアユイは考えた。その尽力で学校は次第に大きくなるが、激動の時代、革命政府が樹立するとアユイの立場は揺らぐ。トップダウン方式で厳しい統制が課され、生徒たちの外出が禁じられたり、教育方針に口を挟まれたりする。反発したアユイは学校を追い出されることになる。
次の校長のギリエがときに、ブライユが入学する。ギリエは厳しい規律を課していた。当時はまだ、視覚障害者に文字を教える際には浮き出し文字を用いていた。
点字の原型となる夜間用の文字(凸点で文字を表わすもの)を考案したバルビエは、この文字が視覚障害者の役に立つのではないかと盲学校を訪れた。だが、ギリエは理解を示さず、この方式を取り入れようとはしなかった。
ところがギリエはスキャンダルを起こし、学校を解雇される。
この後、赴任したピニエは、バルビエの文字に興味を示す。そして生徒たちにも試させた。その中に、ブライユも混じっていた。
バルビエの方式は浮き出し文字よりも格段に読み取りやすかったが、アルファベットではなく音に対応しており、使い勝手が悪かった。
特に優秀な生徒であったブライユは、みずからこれを改良し、アルファベットに対応した6点一組の点字を構築した。
ピニエとブライユの関係は非常に良好だった。
ピニエはブライユの並外れた知能を認め、ブライユはピニエを敬愛した。
ブライユは学問だけでなく、音楽にも才能を示した。楽才は、教会でオルガンの演奏をして収入を得るのにも役立った。また、ブライユは楽譜を点字で示す方法も考えだした。それまでは、視覚障害者たちは、通常の五線譜を浮き出させたものを読み取っていたので、これは格段の進歩だった。
パリでの生活は、ブライユに学問を身につけさせ、点字の発明という後世まで残る業績を生んだが、彼の健康は蝕んだ。
盲学校は元々監獄として使われていた建物で、衛生状態が悪かった。入浴も月1回に限られており、伝染病が蔓延しがちだった。
彼は結核を患い、43歳の生涯を閉じる。
終生、クールベを愛し、生前はしばしば里帰りをしていた彼の亡骸は、当初、故郷に葬られた。だが死後100年経って、その業績を認めたフランス当局は、国民的英雄としてパンテオンに埋葬し直すことを決める。
この偉人とのつながりを残しておきたかったクールベの人々のため、ブライユの両手の骨は故郷に残された。
視覚障害者たちに読み書きの手段を与えた手は、墓石の上に置かれた大理石の箱の中に安置されている。
「手作り感」のある、大判のソフトカバー。
原著者は、視覚障害者の歴史を研究してきたC.マイケル・メラー。ある時、ブライユゆかりの地を巡り、ブライユの直筆手紙(点字ではなく、手書き文字)に感銘を受け、所有者であるパリ国立盲学校に掛け合って英訳する許可を得たことに端を発する。
これを知ったアメリカ・ボストンのナショナル・ブレイル・プレス(*ブレイルBrailleはブライユの英語読み。英語圏ではブライユ考案の点字は彼の名を取ってブレイルと呼び習わされている)が、出版を申し出、別の人物が所有する写真などと合わせ、伝記の形で出すことになったもの。
邦訳版は日本点字委員会が発行している。
ブライユ自身の生涯に合わせて、当時のフランスの政治状況、視覚障害者が置かれていた環境なども合わせて興味深い。
ルイ・ブライユは、フランスの田舎、クールベの馬具職人の家に生まれた。両親が比較的高齢になってから末っ子として生まれた彼は、非常に愛されて育った。だが、不幸にも3歳のときに、父の仕事道具で目を傷つけたことをきっかけに、右目を失明、後に左目も光を失う。
両親は嘆き悲しんだ。しかし彼らはともかく、ルイの教育をあきらめなかった。目が見える他の子と同等の教育を受けさせ、家でもアルファベットを学ばせた。
ルイ自身、ずば抜けて賢い子だった。地区の司祭も彼の聡明さを認め、個人教授をするなどして才能を伸ばしてやった。後に、パリの盲学校への道が拓けたのは、司祭が土地の荘園領主を通じて紹介してくれたためだった。
パリ盲学校の初代校長はヴァランタン・アユイという人物だった。アユイは当時の視覚障害者たちが物乞いや見世物など、虐げられて暮らしていることに義憤を抱き、1784年、パリに盲学校を設立した。啓蒙主義の時代にあって、高い理想を持ち、また盲目の学者や音楽家と接することで、視覚障害者にも教育を与えれば才能が伸ばせるとアユイは考えた。その尽力で学校は次第に大きくなるが、激動の時代、革命政府が樹立するとアユイの立場は揺らぐ。トップダウン方式で厳しい統制が課され、生徒たちの外出が禁じられたり、教育方針に口を挟まれたりする。反発したアユイは学校を追い出されることになる。
次の校長のギリエがときに、ブライユが入学する。ギリエは厳しい規律を課していた。当時はまだ、視覚障害者に文字を教える際には浮き出し文字を用いていた。
点字の原型となる夜間用の文字(凸点で文字を表わすもの)を考案したバルビエは、この文字が視覚障害者の役に立つのではないかと盲学校を訪れた。だが、ギリエは理解を示さず、この方式を取り入れようとはしなかった。
ところがギリエはスキャンダルを起こし、学校を解雇される。
この後、赴任したピニエは、バルビエの文字に興味を示す。そして生徒たちにも試させた。その中に、ブライユも混じっていた。
バルビエの方式は浮き出し文字よりも格段に読み取りやすかったが、アルファベットではなく音に対応しており、使い勝手が悪かった。
特に優秀な生徒であったブライユは、みずからこれを改良し、アルファベットに対応した6点一組の点字を構築した。
ピニエとブライユの関係は非常に良好だった。
ピニエはブライユの並外れた知能を認め、ブライユはピニエを敬愛した。
ブライユは学問だけでなく、音楽にも才能を示した。楽才は、教会でオルガンの演奏をして収入を得るのにも役立った。また、ブライユは楽譜を点字で示す方法も考えだした。それまでは、視覚障害者たちは、通常の五線譜を浮き出させたものを読み取っていたので、これは格段の進歩だった。
パリでの生活は、ブライユに学問を身につけさせ、点字の発明という後世まで残る業績を生んだが、彼の健康は蝕んだ。
盲学校は元々監獄として使われていた建物で、衛生状態が悪かった。入浴も月1回に限られており、伝染病が蔓延しがちだった。
彼は結核を患い、43歳の生涯を閉じる。
終生、クールベを愛し、生前はしばしば里帰りをしていた彼の亡骸は、当初、故郷に葬られた。だが死後100年経って、その業績を認めたフランス当局は、国民的英雄としてパンテオンに埋葬し直すことを決める。
この偉人とのつながりを残しておきたかったクールベの人々のため、ブライユの両手の骨は故郷に残された。
視覚障害者たちに読み書きの手段を与えた手は、墓石の上に置かれた大理石の箱の中に安置されている。
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分子生物学・生化学周辺の実務翻訳をしています。
本の大海を漂流中。
日々是好日。どんな本との出会いも素敵だ。
あちらこちらとつまみ食いの読書ですが、点が線に、線が面になっていくといいなと思っています。
「実感」を求めて読書しているように思います。
赤柴♀(もも)は3代目。
この夏、有精卵からヒヨコ4羽を孵化させました。そろそろ大雛かな。♂x2、♀x2。ニワトリは割と人に懐くものらしいですが、今のところ、懐く気配はありませんw
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- 出版社:日本点字委員会
- ページ数:216
- ISBN:9784860556587
- 発売日:2012年06月01日
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