Yasuhiroさん
レビュアー:
▼
野村芳太郎映画は男女の三角関係を中心に描かれていたが、原作は「裁判」そのものが主人公であり、その迫力には息をのむ。
東京創元社文庫創刊60周年祝企画のブックリストを見ていて、懐かしい作品をみつけました。大岡昇平の「事件」です。大岡昇平といえば、「野火」「俘虜記」「レイテ戦記」などの太平洋戦争ものがすぐに思い浮かびますが、この作品は映画化されたことで有名になった作品だったと思います。
なにしろその映画は名匠野村芳太郎が監督、松坂慶子、大竹しのぶ、永島敏行、丹波哲郎等々の錚々たる俳優が名を連ね、あの「砂の器」と双璧を為す野村作品と言われているほどです。
当然ながら私も映画から入った口だったのですが、文庫版を今でも創元推理文庫さんが出してくださっていることに深い感慨を覚えました。昔読んだ本はもうありませんので、いい機会だと思って購入し読んでみました。
大岡昇平が作り上げた「事件」そのものは非常に単純です。時は昭和36年、舞台は戦後農村から工業地帯へ変わりつつある相模川河畔の町、19歳の少年が幼馴染みの姉妹の妹である恋人を妊娠させてしまいます。双方の親から反対させるに決まっているので駆け落ちしようとしたところ、恋人の姉に親に告げ口されそうになったため、山の中でナイフで刺殺し死体を遺棄したという事件でした。
刺したこと、死体を遺棄したことは間違いないので事実関係を争える筈もなく、検察側の殺人罪および死体遺棄罪での立件は当然で、未成年であること、普段の真面目な行状から情状酌量を期待するしかないと思われます。
ところがこの少年の中学時代の恩師が、あの真面目な子がどうして、と腑に落ちず、妻の親戚の敏腕弁護士に弁護を依頼したことにより、この事件の裁判中に被告に有利な新事実が一つ浮かびあがり、やや波乱含みの展開となります。
となると、映画のような三角関係を中心とした心理ドラマになっていくのか、というとさにあらず。また、弁護士が大活躍して裁判が二転三転するのかというと、それもさにあらず。作者の裁判に関する知識・意見を挟みつつひたすら公判の状況が詳細に語られていき、予定通り年内に結審してしまいます。後日談はあるものの、ほとんど裁判を記録しただけの小説といって差し支えありません。
実はこの物語、新聞連載当時の題名は「若草物語」でした。この題名から推測できるように、書き始めた時点では大岡昇平も少年と姉妹の恋愛関係に重点を置くつもりであったらしいのですが、取材を重ねるうちに「裁判」そのものに興味を惹かれていき、そちらへのめり込んでしまいました。
そして大岡が目指したものは、検察官と弁護士が丁々発止で争うような現実にはあり得ない安易な小説やペリーメイスンのような新証人を飛行機で連れてくるような派手なドラマではなく、立件された時にはほぼ事件の全貌はほぼ確定している、現実に限りなく近い裁判でした。つまり、
というのが、彼が取材を重ねていく中で辿り着いた結論であり、「若草物語」を改題して、この文章にある「事件」を新たな題名にしたわけです。
じゃあ平凡な裁判が進むだけの退屈な小説なのか、といえばさにあらず。さすがと言わせる骨太な筆致で人間関係、時代背景、裁判の状況を描き、ぐいぐい読む者を引っ張ります。その迫力には舌を巻く思いでした。この時代であれば松本清張、吉村昭、最近では高村薫女史に匹敵するくらいの筆力があると感じました。
最後に再読して気づいたことを記しておきます。大岡昇平がこの時代に物語を設定したのは、都会隣接地域の変貌が事件を起こしたという思いが強いことは内容から明らかですが、それと同時に裁判制度自体が大きな変革期を迎えていたことも今読むと鮮明に見えてきます。三点ほど挙げておきます。
1: 戦後民主主義に基づき刑事訴訟法が昭和22年に改正されました。この小説では「新刑訴法」と表現されています。被告人の人権に配慮し、自白が最大の証拠であった旧刑訴法から大きく変わりましたが、当時の法曹界には旧弊を引きずる雰囲気がまだ色濃く残っている時代でもありました。そのあたりの機微を大岡は微に入り細に穿ち解説し、登場する法曹界の人物に投影して描写しています。
2: 事前に裁判関係者が相談しておく「集中審理方式」が合法化されました。これは決して健全な審理のやり方ではなかったものの、犯罪の急速な増加によりあまりにも裁判所が抱える案件が増えたためやむを得ない面がありました。この小説でも舞台となる神奈川県の急速な世情変化で横浜地裁の抱える審理数が多すぎることが指摘されています。
3: 松川事件の存在。検察側が被告に有利な証拠を秘匿したことにより糾弾されたこの事件は、広津和郎、松本清張ら文壇からも多くの裁判批判の声が上がりました。この作品でもしばしば取り上げられていることから、大岡昇平も決して無関心ではなかったと思われます。
取り調べの透明化が進む現在でも冤罪事件は後をたたず、裁判員制度もうまく機能しているかどうか疑問な点も多いです。しかし、裁判は法曹関係者がその能力の限りを尽くして粛々とこなしているのであるからむやみやたらな批判は避けるべきだろう、という彼の思いは現在にも通用するものではないかと思います。
なにしろその映画は名匠野村芳太郎が監督、松坂慶子、大竹しのぶ、永島敏行、丹波哲郎等々の錚々たる俳優が名を連ね、あの「砂の器」と双璧を為す野村作品と言われているほどです。
当然ながら私も映画から入った口だったのですが、文庫版を今でも創元推理文庫さんが出してくださっていることに深い感慨を覚えました。昔読んだ本はもうありませんので、いい機会だと思って購入し読んでみました。
大岡昇平が作り上げた「事件」そのものは非常に単純です。時は昭和36年、舞台は戦後農村から工業地帯へ変わりつつある相模川河畔の町、19歳の少年が幼馴染みの姉妹の妹である恋人を妊娠させてしまいます。双方の親から反対させるに決まっているので駆け落ちしようとしたところ、恋人の姉に親に告げ口されそうになったため、山の中でナイフで刺殺し死体を遺棄したという事件でした。
刺したこと、死体を遺棄したことは間違いないので事実関係を争える筈もなく、検察側の殺人罪および死体遺棄罪での立件は当然で、未成年であること、普段の真面目な行状から情状酌量を期待するしかないと思われます。
ところがこの少年の中学時代の恩師が、あの真面目な子がどうして、と腑に落ちず、妻の親戚の敏腕弁護士に弁護を依頼したことにより、この事件の裁判中に被告に有利な新事実が一つ浮かびあがり、やや波乱含みの展開となります。
となると、映画のような三角関係を中心とした心理ドラマになっていくのか、というとさにあらず。また、弁護士が大活躍して裁判が二転三転するのかというと、それもさにあらず。作者の裁判に関する知識・意見を挟みつつひたすら公判の状況が詳細に語られていき、予定通り年内に結審してしまいます。後日談はあるものの、ほとんど裁判を記録しただけの小説といって差し支えありません。
実はこの物語、新聞連載当時の題名は「若草物語」でした。この題名から推測できるように、書き始めた時点では大岡昇平も少年と姉妹の恋愛関係に重点を置くつもりであったらしいのですが、取材を重ねるうちに「裁判」そのものに興味を惹かれていき、そちらへのめり込んでしまいました。
そして大岡が目指したものは、検察官と弁護士が丁々発止で争うような現実にはあり得ない安易な小説やペリーメイスンのような新証人を飛行機で連れてくるような派手なドラマではなく、立件された時にはほぼ事件の全貌はほぼ確定している、現実に限りなく近い裁判でした。つまり、
検事の冒頭陳述も論告も、彼(弁護士)の弁論も、要するに言説に過ぎない。判決だけが犯行とともに「事件」である。
というのが、彼が取材を重ねていく中で辿り着いた結論であり、「若草物語」を改題して、この文章にある「事件」を新たな題名にしたわけです。
じゃあ平凡な裁判が進むだけの退屈な小説なのか、といえばさにあらず。さすがと言わせる骨太な筆致で人間関係、時代背景、裁判の状況を描き、ぐいぐい読む者を引っ張ります。その迫力には舌を巻く思いでした。この時代であれば松本清張、吉村昭、最近では高村薫女史に匹敵するくらいの筆力があると感じました。
最後に再読して気づいたことを記しておきます。大岡昇平がこの時代に物語を設定したのは、都会隣接地域の変貌が事件を起こしたという思いが強いことは内容から明らかですが、それと同時に裁判制度自体が大きな変革期を迎えていたことも今読むと鮮明に見えてきます。三点ほど挙げておきます。
1: 戦後民主主義に基づき刑事訴訟法が昭和22年に改正されました。この小説では「新刑訴法」と表現されています。被告人の人権に配慮し、自白が最大の証拠であった旧刑訴法から大きく変わりましたが、当時の法曹界には旧弊を引きずる雰囲気がまだ色濃く残っている時代でもありました。そのあたりの機微を大岡は微に入り細に穿ち解説し、登場する法曹界の人物に投影して描写しています。
2: 事前に裁判関係者が相談しておく「集中審理方式」が合法化されました。これは決して健全な審理のやり方ではなかったものの、犯罪の急速な増加によりあまりにも裁判所が抱える案件が増えたためやむを得ない面がありました。この小説でも舞台となる神奈川県の急速な世情変化で横浜地裁の抱える審理数が多すぎることが指摘されています。
3: 松川事件の存在。検察側が被告に有利な証拠を秘匿したことにより糾弾されたこの事件は、広津和郎、松本清張ら文壇からも多くの裁判批判の声が上がりました。この作品でもしばしば取り上げられていることから、大岡昇平も決して無関心ではなかったと思われます。
取り調べの透明化が進む現在でも冤罪事件は後をたたず、裁判員制度もうまく機能しているかどうか疑問な点も多いです。しかし、裁判は法曹関係者がその能力の限りを尽くして粛々とこなしているのであるからむやみやたらな批判は避けるべきだろう、という彼の思いは現在にも通用するものではないかと思います。
裁判批判はいくらやっても差しつかえない。ただそれを行う文化人も投書家も、まずなぜ自分がその事件について、意見を発表したくなるのか、ということを、自分の心に聞いてみる必要があるかもしれない。
お気に入り度:







掲載日:
外部ブログURLが設定されていません
投票する
投票するには、ログインしてください。
馬鹿馬鹿しくなったので退会しました。2021/10/8
- この書評の得票合計:
- 34票
| 読んで楽しい: | 2票 | |
|---|---|---|
| 参考になる: | 29票 | |
| 共感した: | 3票 |
|
あなたの感想は?
投票するには、ログインしてください。
この書評へのコメント

コメントするには、ログインしてください。
書評一覧を取得中。。。
- 出版社:東京創元社
- ページ数:550
- ISBN:9784488481117
- 発売日:2017年11月22日
- Amazonで買う
- カーリルで図書館の蔵書を調べる
- あなた
- この書籍の平均
- この書評
※ログインすると、あなたとこの書評の位置関係がわかります。






















