かもめ通信さん
レビュアー:
▼
「人ではなく本を選ぶ者は容赦なく厳しくあるべきだ。人柄ではなく仕事のでき栄えが肝心なのだから」もちろんその言葉の裏には、自身が生涯をかけて編んだロシア語の辞典への自信があった。
「彼は詩人ではない。話を創作する術を持たないし、創作する気もない……。書くものはすべて実際に現実から得たものそのままだ。小説家がおおいに頭を悩ませる発端や結末に頼ることなく、ロシアの地で起きたことや、目にしたことを取りあげるだけで、それがもう最高におもしろい物語になっている……」
「私に言わせれば、彼は物語作家を全部合わせたより力がある……。彼の書くどの一行もロシアの生活習慣と民衆の暮らしをよりよく理解させてくれ、私を教え、得心させてくれる」
他ならぬゴーゴリにそう言わしめた人物、それが“言葉の収集家”、ウラジーミル・ダーリ。
全4巻20万語を収録した『現用大ロシア語詳解辞典』をたったひとりで完成させた人だ。
本書は1801年に帝政ロシアに生まれ、およそ半世紀にわたり辞書を編纂し続け、晩年にはなんと14回も校正をした上でこの辞典を世に送り出したダーリの伝記だ。
ダーリの子どもの頃、ロシアの「上流階級」ではフランス語が常用され、「マダムとマドモアゼルは翻訳することができない」とすらされていた。
だがダーリの生家では話が違った。
両親とも多言語を司る家庭に生まれ育ち、自らも様々な言語に精通していたダーリだが、育った家庭は厳格なほど生粋のロシア語で満たされていたという。
生きものが皆、よい食物を摂取して己の血肉とするように、民衆の語る素朴で率直なロシア語を学んでそれを身につけるべきだ
生涯その信念を持ち続けることになった少年は、“物心ついて以来、ロシア語の文章語と庶民の話し言葉の不一致に落ちつかず心乱されてきた”。
父親の意向で海軍幼年学校に学び、卒業後海軍少尉となるも、ほどなく方向転換をして医学部に。
やがて戦争が始まり医学生も戦場へと駆り立てられることに。
規定の年数を満了していないが最優秀な彼は、研修医としてではなく過程を終了した医師として従軍、今度は陸軍だ。
結果としてこの従軍経験はダーリに貴重な蓄えをもたらすことになる。
彼は休みとなれば、いろいろな地方出身の兵士達をあつめて、これこれのものは何県ではどういうのか、別の件ではどうかなどと質問攻めにして手帳に書き留めていたという。
多くの民族が暮らす広大な国土。
その土地土地の様々な言葉やことわざや慣用句を集めて比べて整理するには、人々の暮らしを垣間見るだけでなく、その生活に分け入って溶け込む必要があった。
そんな「調査」の道程でプーシキンと知り合う。
プーシキンは民衆の言葉を学ぶことに強い関心を示し、このことがふたりを近づけた。ダーリがあの辞典に取りかかったのはプーシキンの強い求めによるものだったというのだ。
友情の証に形見として贈られたのは、詩人の命を奪った弾の貫通により穴の空いたフロックと、詩人が身につけていたエメラルドの指輪。
これをさするとわたしのなかに火花が散って、書きたくなるのです……とダーリは言う。
軍医を退き官吏になってからも、民衆の間で使われている生きた言葉を集め続けたダーリ。
アルファベットによらず、言葉の意味に重点を置いた独自の配列の辞書にたどりついたダーリ。
この配列の話がまたとても興味深く、こんな辞典ならいつ読んでも、どこから読んでも、きっと面白いに違いないと思わせる。
そしてまた、その偉業は、ダーリの名が、トルストイをはじめ、その後に続いた世代にとって辞書の代名詞ともなったことからも察せられる。
そんな彼の伝記が、読み物として面白いだけでなく、「言葉」についてあれこれ考えさせられもするのは、ある意味当然のことと言えるだろう。
ダーリの『詳解辞典』では、「変わり者」のことを「風変わりで独特で、世論や慣習に従わず、なにごとも自分流に行う人のこと。変わり者は人の言うことを意に介さず、自分が有益だと思ったことをする」と解釈する。
まさに「変わり者」。
すばらしい「変わり者」の物語だった。
お気に入り度:







掲載日:
外部ブログURLが設定されていません
投票する
投票するには、ログインしてください。
本も食べ物も後味の悪くないものが好きです。気に入ると何度でも同じ本を読みますが、読まず嫌いも多いかも。2020.10.1からサイト献本書評以外は原則★なし(超絶お気に入り本のみ5つ★を表示)で投稿しています。
- この書評の得票合計:
- 40票
| 読んで楽しい: | 3票 | |
|---|---|---|
| 参考になる: | 37票 |
あなたの感想は?
投票するには、ログインしてください。
この書評へのコメント
- かもめ通信2020-09-24 22:18
lemmaって、あのレンマ学のレンマですよね?
そういう言葉は出てこなかったかと。
(ちなみにロゴスという言葉も使われていなかったような…。記憶に残らなかっただけかもしれませんが。)
ダーリの辞書は、言葉を「語群」で…語根がおなじグループごとに…整理していたようです。
適切な例えかどうか、今ひとつ自信はないのですが、日本語でたとえるならば…
「読む」という語群をつくったとしたら、「読書」とか「閲覧」「拝読」「先を読む」などをひとまとめにして紹介していく……という感じなのかなあと。クリックすると、GOOD!と言っているユーザーの一覧を表示します。 - ぴょんはま2020-10-17 16:37
最近図書館から借りてきたこんな本を読んでいる(日本語のところを!ロシア語は一文字も読めません)のですが、辞書が引用されているときはほぼ「ダーリ」と「ウシャコフ」なので、知らない人のような気がしません。
「ダーリ」は1880年代初頭(明治13~15年)、「ウシャコフ」は1930年代末(昭和11~15年)発行だそうです。クリックすると、GOOD!と言っているユーザーの一覧を表示します。 
コメントするには、ログインしてください。
書評一覧を取得中。。。
- 出版社:群像社
- ページ数:272
- ISBN:9784903619781
- 発売日:2017年08月15日
- Amazonで買う
- カーリルで図書館の蔵書を調べる
- あなた
- この書籍の平均
- この書評
※ログインすると、あなたとこの書評の位置関係がわかります。























