rodolfo1さん
レビュアー:
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富士山での厳冬期の気象観測を世界に先駆けて行って天気予報の精度を上げたいと言う大望を抱いた夫到を守るべく、妻の千代子は明治の慣例に抗い、過酷な厳冬期の富士滞在を敢行する。しかし夫婦は。。。
千代子は夫の野中到と明治25年に結婚して3年経っていました。長女の園子が2歳になった頃、到は不正確だった天気予報を改善すべく、富士山頂上に私設の観測基地を作って世界のまだ誰も成し遂げた事がない、厳冬期の高山気象観測を思い立ちました。危険なその事業に反対したかった千代子でしたが、当時の女性は夫に黙って従うのが慣例であったため、反対を我慢していました。1月4日に到は富士登頂を試みましたが、装備が貧弱であった為、すぐに下山して来、千代子は心配で泣きそうになりながら出迎えました。
到は、フランス帰りの中央気象台の重鎮技師和田を訪ねてヨーロッパの登山用具について質問し、新たな登山用具を開発し、重い鶴嘴を持って一ヶ月後再度富士山に挑みました。そうした装備が生き、今回は無事登頂に成功し、深夜に戻り、千代子は喜んで出迎えました。千代子は姑のとみ子に、到と一緒に富士山に登り、到の仕事を手伝いたいと初めて決意表明し、とみ子は千代子の強い覇気に驚きました。とみ子は登山経験の無い千代子が冬に富士山に登山するのは無理だろうと言いましたが、千代子の決意は固かったのでした。千代子は富士山に行く積りなのだととみ子は悟り、その恐ろしさに震えました。。。
到は父勝良に、野中観測所が開設されれば、すべての気象観測装置を貸与し、気象観測を嘱託すると和田技師が言ったと報告し、名誉な事だと勝良は喜び、先祖代々の福岡の家を売り払って観測費用を弁じました。到は御殿場の旅館経営者佐藤與平治の家を根拠地にして、観測所建設を目指しました。與平治は大工石工の手配は自分に任せろと言い、到は御殿場で尽力しました。千代子は自分も手伝いに行くと言い切り、勝良は到に、千代子を連れて行けと言いました。
到は観測所の設計図を千代子に見せて説明しました。そしてしばらく帰れないと千代子に告げましたが、千代子は自分も園子も御殿場に行くから会えない事は無いとに今までに到が見た無い激しい何かを込めた眼差しで言い、到はまさか千代子は富士山頂までついてくる積りなのかと激しい不安に駆られました。とみ子は勝良に、千代子はきっと富士山頂までついて行く積りだから御殿場行きを止めてくれと勝良に頼み、それを聞いた勝良は驚きましたが、千代子の母親で自分の姉糸子もまた恐ろしく気の強い女であったと思い至り、暗澹としました。。。
しかし千代子は巧みに言い繕い、ついにとみ子に自分の御殿場行きを認めさせました。御殿場には與平治が迎えに来ていました。到は強力が集まらないと嘆き、與平治は西藤鶴吉と勝又熊吉を紹介し、この2人は気骨のある男で、到の事業を手伝う積りだと言いました。地元でも一目置かれている2人が手伝う事で、心ある強力達は集まり始め、千代子は彼らの給料支払いを一手に引き受けました。強力達は、あの綺麗な奥様に頼まれたらとても断れないと口々に言い。。。次に千代子は食糧と燃料の確保を始めました。しかし與平治は千代子が2人分の物資を確保している事に気づきました。千代子は自分も到に付いて富士山頂に登る積りだと初めて打ち明け、協力を願いました。
8月に入って観測所建設が始まると、山頂での工事は困難を極めました。しかし鶴吉と熊吉は荷揚げが終わると蓑傘を着けて工事に加わって工事を推進し、建設は無事に終わりました。県、村井、地元民はみな到の事業に敬意を払っていたのでした。與平治は千代子に足を鍛えろと進言し、更に風を防ぐ服装についても教えました。そして到が鉄製のかんじきを特注しているからそれで足拵えすれば良いと言いました。千代子は何か言いたげな到の機先を制して、園子を連れて東京に帰ると告げました。しかし実は千代子は実家の福岡に園子を連れて戻り、装備を整え、近くの山に毎日登山して足を鍛え、園子を実家に預けて後ろ髪を引かれながらも富士山を目指しました。
御殿場について見ると、與平治は、千代子の登頂の意志を知った和田技師が、ままごと遊びで登山するなと言って激怒していると言いましたが、千代子は和田に、今さら引っ込みはつかないのだと手紙で知らせ、登頂を目指しました。舅の勝良が御殿場に現われ、千代子を連れ帰ろうとしましたが、千代子の厳重な装備を見て口をつぐみました。千代子が行くと面倒な事になるとだけ勝良は言いましたが、千代子は自分が女だから問題なのか、到が1人で1日12回2時間置きに気象観測をすれば、眠る時間を失って必ず死んでしまう。自分は到を助けに行くのだと言い、勝良は何も言えなくなりました。
勝良は帰京し、千代子は登山を開始しました。装備はうまく働き、佐藤本家の五郎、3合目の石室主人重三郎、さらにとみ子によって送り込まれた到の弟清が千代子を助けて無事千代子は明治28年10月12日に観測所に到着しました。疲れ切ってむくんだ顔をした到が出迎え、到は千代子の顔を見て驚愕しました。到は千代子に明日帰れ、ここは恐ろしい所だと言いましたが、千代子はそんな恐ろしい場所に到を1人では置いておけないと言い返し、到は沈黙しました。到が清に託した新聞社への手紙が新聞に載り、そこで読者は初めて千代子が登頂した事を知ったのでした。しかし世論は千代子を無視しました。。。
千代子は鏡で到のむくんだ顔を到に見せ、自分にも観測を手伝わせろ、寝ないで春まで観測を続けるのは無理だと言って、到にそんな事が出来るわけはないと言われました。しかし千代子は、それは自分が女だからか、と今まで見せた事の無いきつい目で到を睨み、千代子が観測した観測結果を見せて、到の結果と比べろと言いました。それらは全て合っており、到は何故出来るのかと千代子に尋ねました。千代子は、大体の事は到の気象観測の本で知り、あとは到の観測を見て覚えたと言い、何という怜悧で勝気な女だと到は呆れましたが、以後半分の観測を千代子に任せ、観測開始後到は到は初めてゆっくり寝ました。そして初めて到は千代子をねぎらい、千代子は喜びました。
しかしある寒い日、水銀気圧計が動かなくなり、自分が壊したのかと千代子は青くなりました。しかし到が行っても気圧計は動かず、実は気圧が460mm以下になるとその気圧計は動かなかったのでした。。。すると10月末、3人の男が観測所を訪問しました。1人は佐藤本家の五郎、2人は郡司大尉が主宰する報効義会の松井と女鹿でした。3人は夫妻に野菜などの慰問品と郡司大尉からの手紙を渡し、夫婦は家族に宛てた手紙を託しました。しかしその夜千代子は扁桃腺を腫らして発熱しました。熱は下がらず水すら飲めなくなった千代子は到に、扁桃腺を切開して膿を出してくれ、それで到に殺されるなら本望だと言いました。
到は千代子の扁桃腺を切開して膿を出し、千代子は回復しました。しかし千代子も到も身体が浮腫み出しました。食欲も全く無くなり、到は脚気だと言いました。しかし当時まだビタミンB1は発見されておらず、治療の方法はありませんでした。更に寒さの為に風向計の電池が破裂し、観測は気温を測るだけとなりました。すると千代子は園子の夢を見ました。園子は、これから自分はお母さまの身替りになって死ぬから千代子は助かるのだと言って消え、その日から次第に千代子は回復しました。実は園子はその日本当に。。。しかし千代子の回復と共に到は浮腫と熱発を生じ、次第に動けなくなり、ある日倒れました。
到は園子が自分を迎えに来る夢を見たと言い、自分はもう駄目だと言いました。そして自分が死んだら身体を水桶に入れて器械室に置いてくれと遺言しましたが、驚いた事に勝又熊吉と村会議員の勝又恵造が観測所を訪問しました。他に清達3人も大量の慰問品を持って8合目までは上がったが、風が凄くて荷物は飛ばされ、3人はそこで待機していると言いました。夫婦が病気になっている事を察した2人はじきに人数を揃えて夫婦を迎えに来ると言いましたが、到は決して下山しない、自分達はここで死ぬ覚悟で来たのだと言いました。御殿場では夫婦は元気にしていたと言えと強制し、致し方なく2人は下山しました。
到は此処で死ぬ覚悟なのだと千代子は悟り、自分も此処で死ぬ、悔ゆる事はないと思い決めました。2人は家族からの手紙を読み、千代子は園子の事が殆ど書かれていなかった事に気づきました。。。やっとの事で8合目に辿り着いた熊吉と恵造は命を懸けた仲間に嘘を言えず、夫婦が病気で殆ど動けなくなっていると言いました。しかし清は夫婦が死ぬのを見過ごせないと言い、夫婦の病状を勝良に告げました。勝良は沈思黙考しましたが、とみ子は、到が死ぬのは到の望みであっても嫁の千代子を犠牲には出来ないと決意し、和田技師と中央気象台長の中村に夫婦の遭難の事を告げろと言い、勝良は自分が中村に陳情すると言いました。
一方御殿場でも夫婦の遭難が知れ渡り、新聞はそれを記事にしました。世論は夫婦を見殺しにするなと沸き立ち、和田はその時既に自ら御殿場に乗り込んで救助隊を組織していました。和田は到が作った鉄製かんじきを急遽量産させ、鶴吉と熊吉を含めた4人が浅間神社の石室小屋に到りました。12月21日は到の祖父の命日で、夫婦は仏壇を拵えて氷を備えて念仏していました。すると仏壇の戒名が口を利きました。驚いた夫婦でしたが、実は熊吉が扉の前で絶叫していたのでした。
しかし千代子は凍り付いた扉の閂をはずせず、夫婦の状態を聞いた熊吉は、明日人数を揃えて助けに来る、和田も助けに来ていると言って去り、到は自分は下山しない、初めから死を覚悟していたから、観測が失敗した以上死ぬべきだと強硬に主張しました。到にとって下山は死ぬよりも辛い事だったのでした。8合目に和田が到着し、4人の話を聞き、夫妻を背負って降りるとすればどういうルートを辿るのか考えろと熊吉と鶴吉に命じ、2人はその任務の重大さに震えました。
2人は、9合目に氷結したルートがあり、そこに足場を刻めば降ろせると言いました。和田はそのルート確保を命じ、翌日登頂を開始しました。観測所に辿り着いた一行は扉を開けろと千代子に言い、なんとか湯を沸かして氷を取り除いた千代子は扉を開け、一行を迎えいれました。和田は、大臣から官命が出たから下山しろと到に言いましたが、到はその官命文書を見せろと抵抗し。。。しかし和田は同行した警官に夫婦を降ろす準備を始めろと命じました。
千代子は、自分が看病して到を治すから到をここに置いてやってくれと頼みましたが、和田は女の知った事ではないと言いました。それを聞いた千代子は激昂し、いったい今まで気象台は何をしてくれたのか、壊れる観測機器を押し付け、鐚銭一枚寄越さずに到を痛めつけて挙句の果てに官命をふりかざすとは何事かと食ってかかりました。しかし和田は冷たく、我が子を犠牲にするような女にかける言葉はないと言い、千代子は思わず、園子になにか?と和田に尋ね、和田は突然狼狽しました。園子は元気だと和田は下手に出、事情を察した千代子は号泣しました。。。
ここに至ってついに到は諦め、千代子に下山しようと言い、それを聞いた千代子は到の無念を察してまた泣きました。救助隊は艱難辛苦を乗り越えて何とか2人を下山させ、御殿場で千代子は勝良に園子はいつ死んだのかと尋ねました。勝良は何故それを知ったのかと尋ね、千代子は園子が会いに来て自分の命を助けてくれたのだと言って泣き伏しました。。。到と千代子は次の夏、観測所の再興を和田に願いましたが、厳冬期に有効である観測機器はまだ開発されず、到の体調も戻っていなかった事から和田は許可しませんでした。
野中夫妻は東京を引き払って御殿場に移住し、富士観象会を作って民間の観測所を富士山頂の東安の河原に作って国に寄付しようと企てましたが、最大の後援者和田が朝鮮総督府気象台長として朝鮮に赴任すると事業は頓挫しました。到と千代子の間には三男二女が産まれ、千代子は観測所建設に奔走する到抜きで良く家計を支えました。
大正の初め頃、高山用の観測機器が揃い、資金の手当てもつき、野中夫妻はついに再挙しようと動き始めました。しかし大正12年、スペイン風邪が猛威をふるい、野中一家は全員罹患しました。千代子は病をおして皆を看病し、ついに。。。それ以後到は。。。後日昭和7年に国立の富士山観測所が出来上がり、7月1日より通年観測が始まったのでした。。。
私が今も愛読する関川夏央原作谷口ジロー作画の漫画「坊ちゃんの時代」には「凛冽たり近代 なお生彩あり明治人」というキャッチフレーズから始まる夏目漱石を巡る明治を彩る人々の群像劇が描かれています。野中千代子はこの漫画に名を連ねる資格を持つ仕事を成し遂げた明治人の1人であったと思います。千代子は絶体絶命の冒険を敢行しようとする夫を守るべく、旧態依然とした夫唱婦随の慣行を打破し、一人敢然と立ち上がり、世界で誰も経験しなかった厳冬期の高山での三ヵ月もの生活を夫と共にし、自らも死を覚悟しながら愛に殉じようと夫を守るべく戦い抜いたのでした。
そうした明治の女の気骨を、高山気象観測と富士登山に精通した新田次郎が迫真の筆で描いた傑作です。この分断とエゴが渦巻く現代社会に、もう一度千代子の愛と忍耐と知恵と決断力を蘇らせてもらいたい。何度も映像化されておりますが、この物語を再度映画化し、厳冬の富士山の様子を是非映画ゴジラー1.0を作った白組のVRで見せてもらいたいと思いました。
到は、フランス帰りの中央気象台の重鎮技師和田を訪ねてヨーロッパの登山用具について質問し、新たな登山用具を開発し、重い鶴嘴を持って一ヶ月後再度富士山に挑みました。そうした装備が生き、今回は無事登頂に成功し、深夜に戻り、千代子は喜んで出迎えました。千代子は姑のとみ子に、到と一緒に富士山に登り、到の仕事を手伝いたいと初めて決意表明し、とみ子は千代子の強い覇気に驚きました。とみ子は登山経験の無い千代子が冬に富士山に登山するのは無理だろうと言いましたが、千代子の決意は固かったのでした。千代子は富士山に行く積りなのだととみ子は悟り、その恐ろしさに震えました。。。
到は父勝良に、野中観測所が開設されれば、すべての気象観測装置を貸与し、気象観測を嘱託すると和田技師が言ったと報告し、名誉な事だと勝良は喜び、先祖代々の福岡の家を売り払って観測費用を弁じました。到は御殿場の旅館経営者佐藤與平治の家を根拠地にして、観測所建設を目指しました。與平治は大工石工の手配は自分に任せろと言い、到は御殿場で尽力しました。千代子は自分も手伝いに行くと言い切り、勝良は到に、千代子を連れて行けと言いました。
到は観測所の設計図を千代子に見せて説明しました。そしてしばらく帰れないと千代子に告げましたが、千代子は自分も園子も御殿場に行くから会えない事は無いとに今までに到が見た無い激しい何かを込めた眼差しで言い、到はまさか千代子は富士山頂までついてくる積りなのかと激しい不安に駆られました。とみ子は勝良に、千代子はきっと富士山頂までついて行く積りだから御殿場行きを止めてくれと勝良に頼み、それを聞いた勝良は驚きましたが、千代子の母親で自分の姉糸子もまた恐ろしく気の強い女であったと思い至り、暗澹としました。。。
しかし千代子は巧みに言い繕い、ついにとみ子に自分の御殿場行きを認めさせました。御殿場には與平治が迎えに来ていました。到は強力が集まらないと嘆き、與平治は西藤鶴吉と勝又熊吉を紹介し、この2人は気骨のある男で、到の事業を手伝う積りだと言いました。地元でも一目置かれている2人が手伝う事で、心ある強力達は集まり始め、千代子は彼らの給料支払いを一手に引き受けました。強力達は、あの綺麗な奥様に頼まれたらとても断れないと口々に言い。。。次に千代子は食糧と燃料の確保を始めました。しかし與平治は千代子が2人分の物資を確保している事に気づきました。千代子は自分も到に付いて富士山頂に登る積りだと初めて打ち明け、協力を願いました。
8月に入って観測所建設が始まると、山頂での工事は困難を極めました。しかし鶴吉と熊吉は荷揚げが終わると蓑傘を着けて工事に加わって工事を推進し、建設は無事に終わりました。県、村井、地元民はみな到の事業に敬意を払っていたのでした。與平治は千代子に足を鍛えろと進言し、更に風を防ぐ服装についても教えました。そして到が鉄製のかんじきを特注しているからそれで足拵えすれば良いと言いました。千代子は何か言いたげな到の機先を制して、園子を連れて東京に帰ると告げました。しかし実は千代子は実家の福岡に園子を連れて戻り、装備を整え、近くの山に毎日登山して足を鍛え、園子を実家に預けて後ろ髪を引かれながらも富士山を目指しました。
御殿場について見ると、與平治は、千代子の登頂の意志を知った和田技師が、ままごと遊びで登山するなと言って激怒していると言いましたが、千代子は和田に、今さら引っ込みはつかないのだと手紙で知らせ、登頂を目指しました。舅の勝良が御殿場に現われ、千代子を連れ帰ろうとしましたが、千代子の厳重な装備を見て口をつぐみました。千代子が行くと面倒な事になるとだけ勝良は言いましたが、千代子は自分が女だから問題なのか、到が1人で1日12回2時間置きに気象観測をすれば、眠る時間を失って必ず死んでしまう。自分は到を助けに行くのだと言い、勝良は何も言えなくなりました。
勝良は帰京し、千代子は登山を開始しました。装備はうまく働き、佐藤本家の五郎、3合目の石室主人重三郎、さらにとみ子によって送り込まれた到の弟清が千代子を助けて無事千代子は明治28年10月12日に観測所に到着しました。疲れ切ってむくんだ顔をした到が出迎え、到は千代子の顔を見て驚愕しました。到は千代子に明日帰れ、ここは恐ろしい所だと言いましたが、千代子はそんな恐ろしい場所に到を1人では置いておけないと言い返し、到は沈黙しました。到が清に託した新聞社への手紙が新聞に載り、そこで読者は初めて千代子が登頂した事を知ったのでした。しかし世論は千代子を無視しました。。。
千代子は鏡で到のむくんだ顔を到に見せ、自分にも観測を手伝わせろ、寝ないで春まで観測を続けるのは無理だと言って、到にそんな事が出来るわけはないと言われました。しかし千代子は、それは自分が女だからか、と今まで見せた事の無いきつい目で到を睨み、千代子が観測した観測結果を見せて、到の結果と比べろと言いました。それらは全て合っており、到は何故出来るのかと千代子に尋ねました。千代子は、大体の事は到の気象観測の本で知り、あとは到の観測を見て覚えたと言い、何という怜悧で勝気な女だと到は呆れましたが、以後半分の観測を千代子に任せ、観測開始後到は到は初めてゆっくり寝ました。そして初めて到は千代子をねぎらい、千代子は喜びました。
しかしある寒い日、水銀気圧計が動かなくなり、自分が壊したのかと千代子は青くなりました。しかし到が行っても気圧計は動かず、実は気圧が460mm以下になるとその気圧計は動かなかったのでした。。。すると10月末、3人の男が観測所を訪問しました。1人は佐藤本家の五郎、2人は郡司大尉が主宰する報効義会の松井と女鹿でした。3人は夫妻に野菜などの慰問品と郡司大尉からの手紙を渡し、夫婦は家族に宛てた手紙を託しました。しかしその夜千代子は扁桃腺を腫らして発熱しました。熱は下がらず水すら飲めなくなった千代子は到に、扁桃腺を切開して膿を出してくれ、それで到に殺されるなら本望だと言いました。
到は千代子の扁桃腺を切開して膿を出し、千代子は回復しました。しかし千代子も到も身体が浮腫み出しました。食欲も全く無くなり、到は脚気だと言いました。しかし当時まだビタミンB1は発見されておらず、治療の方法はありませんでした。更に寒さの為に風向計の電池が破裂し、観測は気温を測るだけとなりました。すると千代子は園子の夢を見ました。園子は、これから自分はお母さまの身替りになって死ぬから千代子は助かるのだと言って消え、その日から次第に千代子は回復しました。実は園子はその日本当に。。。しかし千代子の回復と共に到は浮腫と熱発を生じ、次第に動けなくなり、ある日倒れました。
到は園子が自分を迎えに来る夢を見たと言い、自分はもう駄目だと言いました。そして自分が死んだら身体を水桶に入れて器械室に置いてくれと遺言しましたが、驚いた事に勝又熊吉と村会議員の勝又恵造が観測所を訪問しました。他に清達3人も大量の慰問品を持って8合目までは上がったが、風が凄くて荷物は飛ばされ、3人はそこで待機していると言いました。夫婦が病気になっている事を察した2人はじきに人数を揃えて夫婦を迎えに来ると言いましたが、到は決して下山しない、自分達はここで死ぬ覚悟で来たのだと言いました。御殿場では夫婦は元気にしていたと言えと強制し、致し方なく2人は下山しました。
到は此処で死ぬ覚悟なのだと千代子は悟り、自分も此処で死ぬ、悔ゆる事はないと思い決めました。2人は家族からの手紙を読み、千代子は園子の事が殆ど書かれていなかった事に気づきました。。。やっとの事で8合目に辿り着いた熊吉と恵造は命を懸けた仲間に嘘を言えず、夫婦が病気で殆ど動けなくなっていると言いました。しかし清は夫婦が死ぬのを見過ごせないと言い、夫婦の病状を勝良に告げました。勝良は沈思黙考しましたが、とみ子は、到が死ぬのは到の望みであっても嫁の千代子を犠牲には出来ないと決意し、和田技師と中央気象台長の中村に夫婦の遭難の事を告げろと言い、勝良は自分が中村に陳情すると言いました。
一方御殿場でも夫婦の遭難が知れ渡り、新聞はそれを記事にしました。世論は夫婦を見殺しにするなと沸き立ち、和田はその時既に自ら御殿場に乗り込んで救助隊を組織していました。和田は到が作った鉄製かんじきを急遽量産させ、鶴吉と熊吉を含めた4人が浅間神社の石室小屋に到りました。12月21日は到の祖父の命日で、夫婦は仏壇を拵えて氷を備えて念仏していました。すると仏壇の戒名が口を利きました。驚いた夫婦でしたが、実は熊吉が扉の前で絶叫していたのでした。
しかし千代子は凍り付いた扉の閂をはずせず、夫婦の状態を聞いた熊吉は、明日人数を揃えて助けに来る、和田も助けに来ていると言って去り、到は自分は下山しない、初めから死を覚悟していたから、観測が失敗した以上死ぬべきだと強硬に主張しました。到にとって下山は死ぬよりも辛い事だったのでした。8合目に和田が到着し、4人の話を聞き、夫妻を背負って降りるとすればどういうルートを辿るのか考えろと熊吉と鶴吉に命じ、2人はその任務の重大さに震えました。
2人は、9合目に氷結したルートがあり、そこに足場を刻めば降ろせると言いました。和田はそのルート確保を命じ、翌日登頂を開始しました。観測所に辿り着いた一行は扉を開けろと千代子に言い、なんとか湯を沸かして氷を取り除いた千代子は扉を開け、一行を迎えいれました。和田は、大臣から官命が出たから下山しろと到に言いましたが、到はその官命文書を見せろと抵抗し。。。しかし和田は同行した警官に夫婦を降ろす準備を始めろと命じました。
千代子は、自分が看病して到を治すから到をここに置いてやってくれと頼みましたが、和田は女の知った事ではないと言いました。それを聞いた千代子は激昂し、いったい今まで気象台は何をしてくれたのか、壊れる観測機器を押し付け、鐚銭一枚寄越さずに到を痛めつけて挙句の果てに官命をふりかざすとは何事かと食ってかかりました。しかし和田は冷たく、我が子を犠牲にするような女にかける言葉はないと言い、千代子は思わず、園子になにか?と和田に尋ね、和田は突然狼狽しました。園子は元気だと和田は下手に出、事情を察した千代子は号泣しました。。。
ここに至ってついに到は諦め、千代子に下山しようと言い、それを聞いた千代子は到の無念を察してまた泣きました。救助隊は艱難辛苦を乗り越えて何とか2人を下山させ、御殿場で千代子は勝良に園子はいつ死んだのかと尋ねました。勝良は何故それを知ったのかと尋ね、千代子は園子が会いに来て自分の命を助けてくれたのだと言って泣き伏しました。。。到と千代子は次の夏、観測所の再興を和田に願いましたが、厳冬期に有効である観測機器はまだ開発されず、到の体調も戻っていなかった事から和田は許可しませんでした。
野中夫妻は東京を引き払って御殿場に移住し、富士観象会を作って民間の観測所を富士山頂の東安の河原に作って国に寄付しようと企てましたが、最大の後援者和田が朝鮮総督府気象台長として朝鮮に赴任すると事業は頓挫しました。到と千代子の間には三男二女が産まれ、千代子は観測所建設に奔走する到抜きで良く家計を支えました。
大正の初め頃、高山用の観測機器が揃い、資金の手当てもつき、野中夫妻はついに再挙しようと動き始めました。しかし大正12年、スペイン風邪が猛威をふるい、野中一家は全員罹患しました。千代子は病をおして皆を看病し、ついに。。。それ以後到は。。。後日昭和7年に国立の富士山観測所が出来上がり、7月1日より通年観測が始まったのでした。。。
私が今も愛読する関川夏央原作谷口ジロー作画の漫画「坊ちゃんの時代」には「凛冽たり近代 なお生彩あり明治人」というキャッチフレーズから始まる夏目漱石を巡る明治を彩る人々の群像劇が描かれています。野中千代子はこの漫画に名を連ねる資格を持つ仕事を成し遂げた明治人の1人であったと思います。千代子は絶体絶命の冒険を敢行しようとする夫を守るべく、旧態依然とした夫唱婦随の慣行を打破し、一人敢然と立ち上がり、世界で誰も経験しなかった厳冬期の高山での三ヵ月もの生活を夫と共にし、自らも死を覚悟しながら愛に殉じようと夫を守るべく戦い抜いたのでした。
そうした明治の女の気骨を、高山気象観測と富士登山に精通した新田次郎が迫真の筆で描いた傑作です。この分断とエゴが渦巻く現代社会に、もう一度千代子の愛と忍耐と知恵と決断力を蘇らせてもらいたい。何度も映像化されておりますが、この物語を再度映画化し、厳冬の富士山の様子を是非映画ゴジラー1.0を作った白組のVRで見せてもらいたいと思いました。
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こんにちは。ブクレコ難民です。今後はこちらでよろしくお願いいたします。
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- 出版社:文藝春秋
- ページ数:283
- ISBN:9784167901226
- 発売日:2014年06月10日
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