あかつきさん
レビュアー:
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ホモ・サピエンスは進化の王道ではなく辺縁に在り、強者ではなく弱者だったが故に生き残ったという筆者の主張は感慨深い。歴史は常に辺境から渦を巻いて動いてきた。
何故、彼らは消え去り、我々は此処にいるのか。
我らと50万年前に進化の袂を分かち、我々より先にアフリカを出でて、我々より過酷な寒冷化を乗り切り、ごく最近までーー地球規模の歴史で言えばーー我々のごく身近にいた「兄弟」。
ネアンデルタール人終焉の地の一つと言われるジブラルタルで、海を挟んで故郷の地アフリカを眺めながら、彼らの一人ひとりはどのように生涯を終えて行ったのだろう。
現代人の子供の多くが、物心つく前であればアフリカのサバンナの景色に最も好感を持つという。そんな原始の記憶が、彼らにもあったのだろうか。
食料はあっただろうか、病気だったのだろうか、一家族だったのだろうか、他の集団との交流はなかったのか。
下らないロマンチシズムと嗤われても、彼らの最期に思いを馳せずにはいられないのである。
さて、本書の主人公はネアンデルタール人である、と筆者は述べているが、あまりそんな印象はない。
ホモ・サピエンスも、ホモ・エレクトスも、ホモ・フロレシエンシス(好きーー)も、ホモ・ハイデルベルゲンシスも、そしてホモ・ネアンデルターレンシスも、偶然と自然淘汰の結果として同じ重さで扱われている。
まぁ、途中まで同じ道筋辿っているしね。
正直なところ、最近読んだ初期人類の本と比べると、「ヒューマン」ほどテーマが明確ではなく、「ヒトは食べられて進化した」ほどユーモアはなく、「人類20万年 遥かなる旅路」ほど筆者の主観によっていないのは評価できるが、まぁ淡々とした印象ではあった。……って、真面目に時系列に従って新旧諸説紹介しながら現在考えられていることを過不足なく喋っているのに、なにが不満なのでしょうね、わたし。
何故、ネアンデルタール人(たち)は滅び、ホモ・サピエンスは生き残ったのか。
勿論、ホモ・サピエンスの肉体が頑健で、知能が高く、芸術性と言語によるコミュニケーションにすぐれていたから、ではない。
頑丈さでも、脳の容積でも、ホモ・サピエンスは進化の兄弟たちに劣ることがあった。芸術性にしても言語にしても、ホモ・サピエンスの専売特許ではない。
かつて、森林から草原に一歩を踏み出した、我々の祖先(ネアンデルタール人と袂を分かつ前の「我々」)は、集団の外縁部にいる者だった。
何かしらの理由で、恵まれた森林という環境を出ざるを得ない者だった。言い方を変えると、きっと、集団の中心にいるには何かしらの支障、もしくは欠点があったのだろう。
従来の環境にとどまる者と、新しい環境に出て行かねばならぬ者で、まず進化の分かれ道が訪れる。
そして、その場その場の環境に、的確に対応できた者たちが生き残る。
しかし、その対応が早ければ良いということではない。
彼らには未来は読めない。
ある環境に適応したからといって、次の環境変化に対応できるとは限らない。
ホモ・サピエンスは、有る意味ではロースターターだった。しかし、それゆえにネアンデルタール人が耐えられなかった環境変化に耐えられた。
それは、全くの偶然と幸運でしかないのであり、もし気候の変化の回数が変わっていたら、もし間氷期の長さが数百年違っていたら、農耕を始めて文明を築いていたのはネアンデルタール人だったのかもしれない。
辺縁にいるもの、弱者こそが環境に適応し生き残るという筆者の主張は感慨深い。
勿論、地球規模の災害が起きた時、真っ先に犠牲になるのは人的物流的支援の少ない場所に住む人々であろう。しかし、数十年数百年経ったら、最も生存しているのはそういう場所の人々であろうと思う。
少なくとも、エアーコンディショナーに慣れ、自分で食べ物を狩ったり収穫する術を知らず、清潔な水しか飲んだことのない先進諸国の人間は物流が途絶えた瞬間に絶滅するに違いない。
歴史は常に辺境から渦を巻いて動いてきた。
「馬の世界史」でも言及されていたが,それはのちのホモ・サピエンスが築いた文明の歴史においても、ホモ属の歴史においても変わらない。
「中央」にいる者たちに、その歴史の渦は見えない。
台風の目は無風であり、中央に胡座をかいて座っている者は、永遠の日和見主義に微睡み、滅んでいくのだ。
我らと50万年前に進化の袂を分かち、我々より先にアフリカを出でて、我々より過酷な寒冷化を乗り切り、ごく最近までーー地球規模の歴史で言えばーー我々のごく身近にいた「兄弟」。
ネアンデルタール人終焉の地の一つと言われるジブラルタルで、海を挟んで故郷の地アフリカを眺めながら、彼らの一人ひとりはどのように生涯を終えて行ったのだろう。
現代人の子供の多くが、物心つく前であればアフリカのサバンナの景色に最も好感を持つという。そんな原始の記憶が、彼らにもあったのだろうか。
食料はあっただろうか、病気だったのだろうか、一家族だったのだろうか、他の集団との交流はなかったのか。
下らないロマンチシズムと嗤われても、彼らの最期に思いを馳せずにはいられないのである。
さて、本書の主人公はネアンデルタール人である、と筆者は述べているが、あまりそんな印象はない。
ホモ・サピエンスも、ホモ・エレクトスも、ホモ・フロレシエンシス(好きーー)も、ホモ・ハイデルベルゲンシスも、そしてホモ・ネアンデルターレンシスも、偶然と自然淘汰の結果として同じ重さで扱われている。
まぁ、途中まで同じ道筋辿っているしね。
正直なところ、最近読んだ初期人類の本と比べると、「ヒューマン」ほどテーマが明確ではなく、「ヒトは食べられて進化した」ほどユーモアはなく、「人類20万年 遥かなる旅路」ほど筆者の主観によっていないのは評価できるが、まぁ淡々とした印象ではあった。……って、真面目に時系列に従って新旧諸説紹介しながら現在考えられていることを過不足なく喋っているのに、なにが不満なのでしょうね、わたし。
何故、ネアンデルタール人(たち)は滅び、ホモ・サピエンスは生き残ったのか。
勿論、ホモ・サピエンスの肉体が頑健で、知能が高く、芸術性と言語によるコミュニケーションにすぐれていたから、ではない。
頑丈さでも、脳の容積でも、ホモ・サピエンスは進化の兄弟たちに劣ることがあった。芸術性にしても言語にしても、ホモ・サピエンスの専売特許ではない。
かつて、森林から草原に一歩を踏み出した、我々の祖先(ネアンデルタール人と袂を分かつ前の「我々」)は、集団の外縁部にいる者だった。
何かしらの理由で、恵まれた森林という環境を出ざるを得ない者だった。言い方を変えると、きっと、集団の中心にいるには何かしらの支障、もしくは欠点があったのだろう。
従来の環境にとどまる者と、新しい環境に出て行かねばならぬ者で、まず進化の分かれ道が訪れる。
そして、その場その場の環境に、的確に対応できた者たちが生き残る。
しかし、その対応が早ければ良いということではない。
彼らには未来は読めない。
ある環境に適応したからといって、次の環境変化に対応できるとは限らない。
ホモ・サピエンスは、有る意味ではロースターターだった。しかし、それゆえにネアンデルタール人が耐えられなかった環境変化に耐えられた。
それは、全くの偶然と幸運でしかないのであり、もし気候の変化の回数が変わっていたら、もし間氷期の長さが数百年違っていたら、農耕を始めて文明を築いていたのはネアンデルタール人だったのかもしれない。
辺縁にいるもの、弱者こそが環境に適応し生き残るという筆者の主張は感慨深い。
勿論、地球規模の災害が起きた時、真っ先に犠牲になるのは人的物流的支援の少ない場所に住む人々であろう。しかし、数十年数百年経ったら、最も生存しているのはそういう場所の人々であろうと思う。
少なくとも、エアーコンディショナーに慣れ、自分で食べ物を狩ったり収穫する術を知らず、清潔な水しか飲んだことのない先進諸国の人間は物流が途絶えた瞬間に絶滅するに違いない。
歴史は常に辺境から渦を巻いて動いてきた。
「馬の世界史」でも言及されていたが,それはのちのホモ・サピエンスが築いた文明の歴史においても、ホモ属の歴史においても変わらない。
「中央」にいる者たちに、その歴史の渦は見えない。
台風の目は無風であり、中央に胡座をかいて座っている者は、永遠の日和見主義に微睡み、滅んでいくのだ。
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色々世界がひっくり返って読書との距離を測り中.往きて還るかは神の味噌汁.「セミンゴの会」会員No1214.別名焼き粉とも.読書は背徳の蜜の味.毒を喰らわば根元まで.
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- 出版社:白揚社
- ページ数:368
- ISBN:9784826901703
- 発売日:2013年11月09日
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