ことなみさん
レビュアー:
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春になったので浄瑠璃寺に行った。堀辰雄を読んでからは馬酔木を見るたびに思い出していたが今年初めて間に合った。
堀辰雄全集を読んだのは中学生の頃で、私にもあった多感な時代にw、美しい風景描写ともの悲しい物語やエッセイを読んで一時頭から離れなくなった。クラブの休みにチームで出かけるなら広いお寺が都合がよく。時々お弁当をもって、遠足のような気分で一日鬼ごっこやキャッチボールをしていた。早春の観心寺は梅や乙女椿が咲きだしていた。唐招提寺の横には田んぼが広がり、薬師寺の横の線路はススキが銀色に光っていた。その頃は今のようにお寺の敷地が囲い込まれていなくて、まわりの農地に続いているような所が多かった。京都との境にある「浄瑠璃寺」や「岩船寺」はそのころ健脚だったから歩けたようなもので、今では車がないといけなくなった。堀さんご夫妻も徒歩で訪ねられたと書いてある。
みんなしばらく子育て時期は遠ざかっていたが、また気分転換が欲しい年になった。
今年は特に春を待っていた。なぜか浄瑠璃寺の馬酔木の頃には行ったことがなかった。浄瑠璃寺は秋でしょうと周りがいうので、私も秋にはたびたび訪れ、春の機会を逃していたが、道路が整備されたので時間もかからずいけるようになった。
平安、鎌倉の時代から戦火を逃れてきた建物は市街から随分離れた所にあってひっそりと寂れて古びているが、長い歴史を思うと遠くて近い人の営みの祈りや願いが今でも感じられる。
私は神も仏も実感できてはいないし、祈りは心に向かって唱えるのだとか理屈を並べて、縁なき衆生に近いけれど、古い裳階の形や屋根の優美な曲線や、並んでいる仏様の顔を見ると何か畏れのような気持が湧いてくる。
こうして庶民の願いや希望や歓びや嘆きの声を聴きながら仏たちは祈りの声を静かにそっとあずかってきたのかと思うと、長い歴史の中の庶民の暮らしの重みを感じる。
人はそれぞれ違った心の形を自分の中に持っている、疲れた時は、やはりここで祈って、荷物を預けて帰るのだろうか。
いつ来ても参道の入り口にお土産の店があり、雑器や秘仏のレプリカや自家製の梅干しや漬物を売っている。
記念に小さな陶器の置物を買って帰る。
また「風立ちぬ」の名文を読んで見よう。文章の書き方が少しは上達するかもしれない。
みんなしばらく子育て時期は遠ざかっていたが、また気分転換が欲しい年になった。
今年は特に春を待っていた。なぜか浄瑠璃寺の馬酔木の頃には行ったことがなかった。浄瑠璃寺は秋でしょうと周りがいうので、私も秋にはたびたび訪れ、春の機会を逃していたが、道路が整備されたので時間もかからずいけるようになった。
平安、鎌倉の時代から戦火を逃れてきた建物は市街から随分離れた所にあってひっそりと寂れて古びているが、長い歴史を思うと遠くて近い人の営みの祈りや願いが今でも感じられる。
私は神も仏も実感できてはいないし、祈りは心に向かって唱えるのだとか理屈を並べて、縁なき衆生に近いけれど、古い裳階の形や屋根の優美な曲線や、並んでいる仏様の顔を見ると何か畏れのような気持が湧いてくる。
こうして庶民の願いや希望や歓びや嘆きの声を聴きながら仏たちは祈りの声を静かにそっとあずかってきたのかと思うと、長い歴史の中の庶民の暮らしの重みを感じる。
人はそれぞれ違った心の形を自分の中に持っている、疲れた時は、やはりここで祈って、荷物を預けて帰るのだろうか。
この春、僕はまえから一種の憧れをもっていた馬酔木(あしび)の花を大和路のいたるところで見ることができた。
そのなかでも一番印象ぶかかったのは、奈良へ著(つ)いたすぐそのあくる朝、途中の山道に咲いていた蒲公英(たんぽぽ)や薺(なずな)のような花にもひとりでに目がとまって、なんとなく懐かしいような旅びとらしい気分で、二時間あまりも歩きつづけたのち、漸(や)っとたどりついた浄瑠璃寺の小さな門のかたわらに、丁度いまをさかりと咲いていた一本の馬酔木をふと見いだしたときだった。
いつ来ても参道の入り口にお土産の店があり、雑器や秘仏のレプリカや自家製の梅干しや漬物を売っている。
記念に小さな陶器の置物を買って帰る。
傍らに花さいている馬酔木(あしび)よりも低いくらいの門、誰のしわざか仏たちのまえに供えてあった椿の花、堂裏の七本の大きな柿の木、秋になってその柿をハイキングの人々に売るのをいかにも愉(たの)しいことのようにしている寺の娘、どこからかときどき啼(な)きごえの聞えてくる七面鳥、――そういう此のあたりすべてのものが、かつての寺だったそのおおかたが既に廃滅してわずかに残っているきりの二三の古い堂塔をとりかこみながら――というよりも、それらの古代のモニュメントをもその生活の一片であるかのようにさりげなく取り入れながら、――其処にいかにも平和な、いかにも山間の春らしい、しかもその何処かにすこしく悲愴(ひそう)な懐古的気分を漂わせている。
自然を超えんとして人間の意志したすべてのものが、長い歳月の間にほとんど廃亡に帰して、いまはそのわずかに残っているものも、そのもとの自然のうちに、そのものの一部に過ぎないかのように、融(と)け込(こ)んでしまうようになる。そうして其処にその二つのものが一つになって――いわば、第二の自然が発生する。そういうところにすべての廃墟の云いしれぬ魅力があるのではないか? ――そういうパセティックな考えすらも(それはたぶんジムメルあたりの考えであったろう)、いまの自分にはなんとなく快い、なごやかな感じで同意せられる。……
また「風立ちぬ」の名文を読んで見よう。文章の書き方が少しは上達するかもしれない。
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徹夜してでも読みたいという本に出会えるように、網を広げています。
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この書評へのコメント
- ことなみ2017-04-09 00:21
木津川を挟んで、県境が入り組んでますね。途中で焼却炉反対の看板を見た気がします。
うちは大阪府になります、やはり少し前ですが、奈良寄りに焼却炉建設の予定だったのですが、産廃の有毒反応が出たそうで中止になりました。庭で枯葉も燃やせなくなったし、ごみは増える一方だし、浄瑠璃寺あたりは人家も少なくて予定地になったんですね。いいところやのに。精華町を通る道路が整備されて、学研都市らしくなり、浄瑠璃寺や岩船寺が近くなりましたが、生活の質も違ってきてゴミ処理も難題になってますね。ホンマに難しいことですね。写真は好きですが上達しないんです(^_^;)
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こんにちは。
帰りに海住山寺にも寄りました。静かな雰囲気といい、ほんと誰もいなくて帰りたくないくらいでした。
鳥の声が澄んで聞こえて、私たちはヒソヒソ声になりました(^_^)
十一面観音菩薩立像は本当に美しいですね。国宝でなく重文なのが不思議です。四天王も素晴らしいし、筆を持った広目天にはついつい手を合わせてしまいます(^_^)
裳階のついた五重塔も落ち着いた色彩でお寺に溶け込んでますね。これは国宝ですね。紅葉の頃また行きたいと思いました。下で聖武天皇も偲んできました。開祖の像も、薬師堂もまたゆっくりたずねたいです。クリックすると、GOOD!と言っているユーザーの一覧を表示します。 コメントするには、ログインしてください。
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