ゆうちゃんさん
レビュアー:
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専制国家のみならず、国民主権、民主主義体制の国でも、多数派の横暴で、うっかりすると自由が無くなってしまうということを論じている。自由であるためには自由を常に意識しなければならない。

本書のテーマは「意志の自由ではない。市民的自由、社会的な自由である」と冒頭にある。
個人の自由は、ある意味、常に社会と緊張関係にある。個人が過度な自由を主張すれば、周囲の人や社会に迷惑をかけたり、害を及ぼしたりする。かと言って、個人の自由をあまりに束縛すれば、道徳的な問題も起き、社会は停滞する。両者のバランスをいかに取ってゆくか、バランスを取るのに、どのような原則(公理)があるのか、を見極めてゆくのが本書の議論である。
第一章では、近世までの専制社会のみならず、民主主義の下でも個人の自由と社会の緊張関係は存在するという問題提起をしている。多くの国で民主主義体制は国民主権の体裁を取っているが、国民、すなわち大衆の意志や考え、規範すら個人の自由には危機を及ぼすという。
では個人の自由はどこまで認められるのか。
そして、著者は自由を認める理由を道徳とか人権ではなく、効用にあると主張する。後ろの方を読んでゆくと、この効用とは社会の進歩とか活性化のように読める。
そして第二章では、思想と言論の自由を取り上げる。これを最初に取り上げるのは、「最良の導入」になるからだと著者は言うが、きっと行為が伴わず、他者との関係(利害)が最も少ない分野だからではないか。ここでは、自由な議論の大切さを場合分けして、論じている。
(1)一般大衆(多数派)の意見が間違いで、それに異議を申し立てる人の意見が正しい場合
(2)一般大衆の意見が正しく、それに異議を申し立てる人の意見が間違っている場合
(3)一般大衆の意見にもそれに異議を申し立てる人の意見にも正しいものが含まれている場合。
著者は(1)や(3)についてもそれなりの行を費やして議論しているが、これらは説明を要しないだろう。(2)については、間違った問いかけをされても、それを論破することで大衆の考えが正しいことが改めて認識されるという理由を挙げている。大衆の意見、社会全体の合意が、正しいものであっても、それを単に固守するだけでは、ドグマと変わらず、意味合いも薄れてゆくだろう、それではいけない、(2)の様な異議申し立て者は(そんな意識はなくても)異議を申し立てることで形成された合意がドグマに陥らないように機会を与えてくれるのだという。(1)~(3)どの場合でも意見の発表を禁じてしまえば、そのような社会では、誤りを正したり、形成された合意を確認しあう機会がなくなる。
第三章は、個性の自由、つまり各人の生活や行動の自由について議論している。第二章のような場合分けはしていないが、
として、個性を抑圧するような社会や社会規範(宗教や道徳など)を批判している。そうした社会には明日はない。
第四章に至って、初めて個性を主張した場合の他人や社会との関係を論じている。通常、自分と他人の利害は一致しない。
原則はこれで、あとは詳細な議論である。例えば人に迷惑を及ぼす行為は制裁を受けるべきだが、単に欠点があるからと言って制裁を課してたいけない、バカなことをしようとする人がいてもそれが迷惑にならない限り、その人の好きにさせて良い、などと言っている。
第五章は、第四章までで導かれた原則を実際の問題に適用して考えてみようという事例集である。ここでは毒物や酒の規制の妥当性、政府のあるべき姿などが取り上げられている。最後はこんな言葉で結ばれる。
読んでよかったという内容。小説や社会科学の分野で著者の意見にこれほど同調できる書物は殆どない。民主主義だから開かれた社会だ、という主張を見事に打ち砕いている。著者は、自分の生きた時代に危機感があって本書を執筆したのではないかと思うが、自分には21世紀になって、本書の内容がより当てはまるようになったのではないかと思う。例えば第二章で論じられる言論の自由だが、最も身近な例では、芸能人やタレントの政治的発言がある。日本においてはこれらの人々の政治的発言が叩かれる傾向があるが、全く以て悪い風習である。SNSなどの論調も一方に傾きがちであり、ミルの憂慮が残念ながら見事に的中してしまった。しかもこれらの問題は日本だけではなく世界でも似たような傾向になっている。
日本の社会は、敗戦の反省を経て民主主義社会として出発したはずだし、周辺国へ迷惑をかけたという意識が戦後から1980年代まではあったように思う。しかし、最近は、政治的主張そのものが「してはいけないこと」のように受け取られるし、政治的主張をすると「意識高い系」などと揶揄される。昔は恥ずかしい行為だったヘイトスピーチなども公然となされる。これらは、戦後の再出発の社会的合意が忘れ去られ、政治の仕組みが形骸化し民主主義や社会制度が「社会科の暗記項目」に落ちてしまった結果ではないだろうか(第二章の内容に相当する)。権利には義務が伴うと言われるが、それはまさに本書の内容の通りで、自由であるためには、自由である意味を常に意識し議論する義務がある。日本は元々議論を嫌う社会だが、最近のアメリカなどの政治動向を見ても同じ傾向を感じる。
本書の最後を長く引用したのは、オーウェルの「1984年」のビッグ・ブラザーのスローガンのひとつ「自由は屈従である」を思い出したからだ。ミルの主張は、まさにこの逆である。彼がこの自由を道徳や人権ではなく、効用の点で説いたのも、最終的にそれが自由を享受すべき各人の人生に資するからと言える。
個人の自由は、ある意味、常に社会と緊張関係にある。個人が過度な自由を主張すれば、周囲の人や社会に迷惑をかけたり、害を及ぼしたりする。かと言って、個人の自由をあまりに束縛すれば、道徳的な問題も起き、社会は停滞する。両者のバランスをいかに取ってゆくか、バランスを取るのに、どのような原則(公理)があるのか、を見極めてゆくのが本書の議論である。
第一章では、近世までの専制社会のみならず、民主主義の下でも個人の自由と社会の緊張関係は存在するという問題提起をしている。多くの国で民主主義体制は国民主権の体裁を取っているが、国民、すなわち大衆の意志や考え、規範すら個人の自由には危機を及ぼすという。
多数派とは自分たちを多数派と認めさせることに成功した人々である。それ故、人民は人民の一部分を抑圧したいと欲するかもしれないので、それに対する警戒が、他のあらゆる権力乱用への警戒と同様に、やはり必要である(18頁)。
社会による抑圧はたいていの政治的な圧迫よりはるかに恐ろしいものである。と言うのも通常、それは政治的な圧迫のように極端な刑罰をちらつかせたりしないが、日常生活の細部により深く浸透し、人間の魂そのものを奴隷化してそこから逃れる手立てを殆ど失くしてしまうからである(19頁)。
集団の意見が個人の独立にある程度干渉できるとしても、そこには限界がある。この限界を侵犯から守ることが、より良い人間生活にとっては政治的な専制に対する防御と同じくらい重要不可欠なのである(20頁)。
では個人の自由はどこまで認められるのか。
そうした(個人への)干渉を正当化するには、相手の行為を止めさせなければ、他の人に危害が及ぶとの予測が必要である(30頁)。
そして、著者は自由を認める理由を道徳とか人権ではなく、効用にあると主張する。後ろの方を読んでゆくと、この効用とは社会の進歩とか活性化のように読める。
そして第二章では、思想と言論の自由を取り上げる。これを最初に取り上げるのは、「最良の導入」になるからだと著者は言うが、きっと行為が伴わず、他者との関係(利害)が最も少ない分野だからではないか。ここでは、自由な議論の大切さを場合分けして、論じている。
(1)一般大衆(多数派)の意見が間違いで、それに異議を申し立てる人の意見が正しい場合
(2)一般大衆の意見が正しく、それに異議を申し立てる人の意見が間違っている場合
(3)一般大衆の意見にもそれに異議を申し立てる人の意見にも正しいものが含まれている場合。
著者は(1)や(3)についてもそれなりの行を費やして議論しているが、これらは説明を要しないだろう。(2)については、間違った問いかけをされても、それを論破することで大衆の考えが正しいことが改めて認識されるという理由を挙げている。大衆の意見、社会全体の合意が、正しいものであっても、それを単に固守するだけでは、ドグマと変わらず、意味合いも薄れてゆくだろう、それではいけない、(2)の様な異議申し立て者は(そんな意識はなくても)異議を申し立てることで形成された合意がドグマに陥らないように機会を与えてくれるのだという。(1)~(3)どの場合でも意見の発表を禁じてしまえば、そのような社会では、誤りを正したり、形成された合意を確認しあう機会がなくなる。
第三章は、個性の自由、つまり各人の生活や行動の自由について議論している。第二章のような場合分けはしていないが、
個性の自由な発展が人間の幸せの最も本質的な要素だと人々が感じていたら、・・・自由が過小評価されることはなくなる(139頁)
として、個性を抑圧するような社会や社会規範(宗教や道徳など)を批判している。そうした社会には明日はない。
個性の大切さを主張すべきときがあるとすれば、今がまさにその時である(180頁)。
第四章に至って、初めて個性を主張した場合の他人や社会との関係を論じている。通常、自分と他人の利害は一致しない。
人間は他者に対する行為において一定の原則を守らねばならない。その原則とは第一に、互いに相手の利益を侵害しないこと、詳しく言えば、法律の明文もしくは暗黙の了解によって相手の権利とみなされるべき利益を、侵害しないことだ。第二に社会とその権限を危害や攻撃から守るため、それに必要な労働や犠牲を全員で分担することだ(183頁)。
原則はこれで、あとは詳細な議論である。例えば人に迷惑を及ぼす行為は制裁を受けるべきだが、単に欠点があるからと言って制裁を課してたいけない、バカなことをしようとする人がいてもそれが迷惑にならない限り、その人の好きにさせて良い、などと言っている。
第五章は、第四章までで導かれた原則を実際の問題に適用して考えてみようという事例集である。ここでは毒物や酒の規制の妥当性、政府のあるべき姿などが取り上げられている。最後はこんな言葉で結ばれる。
国家の価値とは究極のところ、それを構成する一人一人の人間の価値にほかならない。だから一人一人の人間が知的に成長することの利益を後回しにして、些細な業務における事務のスキルを、ほんの少し向上させること、あるいはそれなりに仕事をしているように見えることを優先する、そんな国家には未来がない。たとえ国民の幸福が目的だと言っても、国民をもっと扱いやすい道具にしたてるために一人一人を委縮させてしまう国家は、やがて思い知るだろう。小さな人間には、けっして大きなことが出来るはずがないということを。全てを犠牲にして国家のメカニズムを完成させても、それは結局何の役にも立つまい。そういう国家はマシーンが円滑に動くようにするために、一人一人の人間の活力を消し去ろうとするが、それは国家の活力そのものも失わせてしまうのである(275~276頁)。
読んでよかったという内容。小説や社会科学の分野で著者の意見にこれほど同調できる書物は殆どない。民主主義だから開かれた社会だ、という主張を見事に打ち砕いている。著者は、自分の生きた時代に危機感があって本書を執筆したのではないかと思うが、自分には21世紀になって、本書の内容がより当てはまるようになったのではないかと思う。例えば第二章で論じられる言論の自由だが、最も身近な例では、芸能人やタレントの政治的発言がある。日本においてはこれらの人々の政治的発言が叩かれる傾向があるが、全く以て悪い風習である。SNSなどの論調も一方に傾きがちであり、ミルの憂慮が残念ながら見事に的中してしまった。しかもこれらの問題は日本だけではなく世界でも似たような傾向になっている。
日本の社会は、敗戦の反省を経て民主主義社会として出発したはずだし、周辺国へ迷惑をかけたという意識が戦後から1980年代まではあったように思う。しかし、最近は、政治的主張そのものが「してはいけないこと」のように受け取られるし、政治的主張をすると「意識高い系」などと揶揄される。昔は恥ずかしい行為だったヘイトスピーチなども公然となされる。これらは、戦後の再出発の社会的合意が忘れ去られ、政治の仕組みが形骸化し民主主義や社会制度が「社会科の暗記項目」に落ちてしまった結果ではないだろうか(第二章の内容に相当する)。権利には義務が伴うと言われるが、それはまさに本書の内容の通りで、自由であるためには、自由である意味を常に意識し議論する義務がある。日本は元々議論を嫌う社会だが、最近のアメリカなどの政治動向を見ても同じ傾向を感じる。
本書の最後を長く引用したのは、オーウェルの「1984年」のビッグ・ブラザーのスローガンのひとつ「自由は屈従である」を思い出したからだ。ミルの主張は、まさにこの逆である。彼がこの自由を道徳や人権ではなく、効用の点で説いたのも、最終的にそれが自由を享受すべき各人の人生に資するからと言える。
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神奈川県に住むサラリーマン(技術者)でしたが24年2月に会社を退職して今は無職です。
読書歴は大学の頃に遡ります。粗筋や感想をメモするようになりましたのはここ10年程ですので、若い頃に読んだ作品を再読した投稿が多いです。元々海外純文学と推理小説、そして海外の歴史小説が自分の好きな分野でした。しかし、最近は、文明論、科学ノンフィクション、音楽などにも興味が広がってきました。投稿するからには評価出来ない作品もきっちりと読もうと心掛けています。どうかよろしくお願い致します。
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- 出版社:光文社
- ページ数:153
- ISBN:B00H6XBJJ0
- 発売日:2012年06月20日
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