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「アメリカ合衆国陸軍は、無意味な殺人や人命軽視を許したことは過去に一度もありません」(本書で引用されている、あるベトナム帰還兵がニクソン大統領に前線の残虐行為を訴えた直訴状に対する米軍少将の返信より)
2013年刊の本書の原題 'Kill Anything That Moves' は、本書の中でもたびたび登場することからも分かるように、ベトナム戦争において前線の部隊に何度も実際に下された軍隊命令です。本書には、それによって起こされた惨事の実例が、山のように描かれています。ノンフィクションである本書を語る、この拙文では、それらの部分の引用も一部含まれます。したがって、人によっては不快に感じると思われますが、副題である 'The Real War in Vietnam' を知りたいと思う方は、お付き合いください。なお、拙文で引用するのは、作者自身の記述の他は、参考文献が明示されているものに限ってあります。
今回のロシアによるウクライナ侵攻でも、ロシア軍による数々の残虐行為が明るみに出ていますが、表ざたになっていない残虐行為の数という点では、ベトナム戦争の方がはるかに多いはずで、当然ながら、こういう残虐行為は今に始まったことではないことが分かります。ただ、ベトナム戦争が始まりだったわけでもなく、第二次大戦におけるナチのユダヤ人や民間人殺害の前例もありますが、本書では日本人にとって興味深い、以下の記述があります。
「中国共産党革命の指導者、毛沢東は、『人民は水のごとく、軍隊は魚のごとし』という有名な言葉を書き残した。アメリカの戦争立案者たちは、彼の金言の意味を理解し、1930年代から1940年代前半にかけて日本軍が中国農村部で決行した”すべてを殺し、焼き尽くし、略奪する”焦土戦術を研究し、”海”を干上あがらせる方法を学んだのだ」
この短い文章に、なぜ北ベトナム内よりも、同盟国である南ベトナム内にはるかに大量の爆弾を落としたか、なぜ枯葉剤をまいて森林を破壊したのか、なぜ一般人を大量に殺したのか、の答えが包含されています。
「北ベトナムでは少なくとも6万5千人がおもに米軍爆撃によって命を奪われた。(中略)2008年にはハーヴァード大学医学大学院とワシントン大学保健指導評価研究所の研究チームが調査を実施し、(南ベトナムの)戦闘員、非戦闘員を合わせた戦没者総数は、380万人と見るのが合理的であろうとの結論を下した」
「民間人負傷者数がほんとうはどれくらいであったかという問題について(中略)ある概算によると、南ベトナムでは8千人から1万6千人が対麻痺(脊髄損傷などによる下半身の運動麻痺)に陥り、3万人から6万人が視覚に障害を負い、8万3千人から16万6千人が手足を失ったとされる。民間人負傷者の総数にちてはギュンター・レヴィーが南ベトナム軍の犠牲者データを調べて重症者の数が戦死者の2.64倍であったことを割り出し、(中略)民間人死者数200万人というベトナム政府による推計値にこの倍率を掛けてみると、530万人が負傷したことになり、民間人犠牲者の総数が730万人となる。しかも南ベトナム各地に残る入院記録によれば、こうした負傷者のおよそ三分の一が女性で、およそ四分の一が13歳未満の子供だったのだ。
これらのとてつもない数値は何を意味するのだろうか。(中略)わたしの見るところ、南ベトナムの非戦闘員を無差別に殺害したことは―戦争の全期間を通じ、来る日も来る日も、毎月、毎年、延々と民間人を殺し続けたことは―偶発的な事故でも予測不能な災害でもなかったのである」
つまり、作者は、これらの虐殺は軍隊の「作戦であって(一部の腐ったリンゴによる)逸脱ではない」と結論付けているのです。当時の南ベトナムの人口が約1900万であったことを思うと、まさに慄然とする数字です。しかし、本国では平凡な市民であった数多くの米兵たちが、なぜこのようなことを平気でできたのでしょうか。その大きな要因として、軍隊では、ベトナム人への差別意識を植え付けるための教育=洗脳が行われていたことを、作者は挙げています。
「訓練所に入るとすぐ...連中は新兵の人格を全面的に変えようとした...まずはじめに、ベトナム人をベトナム人と呼ぶなと言われる。グーグとかディンクとかと呼べと。ベトナムに行けば、おまえらはチャーリー―つまりベトコン―と真正面から対決することになる。あいつらは動物みたいなものだ、人間じゃない...。ベトナム人が人間であるかのように話すことは許されなかった。ベトナム人に対してはどんな情けも無用だと言われた。そういう感覚を叩きこまれるのだ。殺し屋の本能のようなものを」
「ある帰還兵は、新兵訓練を受けるなかで、『村に住んでいて目尻の吊り上がった者はみんな敵だ』という認識をはっきり持つようになったと話してくれた。『女だろうが子供だろうと関係ないんです』と。ある士官は大勢を占める考え方をこんなふうに要約した。『つまり、女子供が何人か殺されても仕方がない...ようく思い知らせてやるんだ。やつらはみんなベトコンか、少なくともベトコンに手を貸している。こっちに寝返らせることはできない。ただ殺すしかないんだ』」
第二次大戦中のナチが行った、ユダヤ人や、独ソ戦でのソ連邦内の非戦闘員の大量虐殺でも、相手を人間とは思っていなかったはずで、それと同じ思考がベトナム戦争でのアメリカ軍を支配していたということです。ただ、日本軍の「鬼畜米英」というスローガンを持ち出すまでもなく、勝つためには敵のことを見下して見なければならないのは、どんな軍隊でも多かれ少なかれ持っている思考でしょうし、これは軍隊としての本質の一つなのだと思います。そして「この軍事作戦がピークに達した1969年には、この戦争に関わっていた米軍兵士の数は、ベトナム現地で54万人以上、ベトナム国外ではおよそ10万人から20万人に達していた」そうですから、この人数の仮に半数の人間が「洗脳状態」であったとして、破壊力と殺傷力が一段と増した最新兵器の実験場でもあった戦場で、どんな結果をもたらしたかは、前述した数字が物語っています。
そして、本書冒頭では、この戦争で最も有名なミライ集落虐殺(ソンミ村虐殺として日本では知られています)の詳細について述べています。
「1968年3月15日の夜、アメリカル師団第20歩兵連隊第一大隊C中隊のメンバーは”ピンク・ヴィル”と名づけられた地域で翌日実行されることになっていた作戦について、指揮官のアーネスト・メディチ大尉から説明を受けた。隊員のハリー・スタンリーは『村の何もかもを殺せと命じられた』と振り返る。(中略)前進射弾観測員のジェイムズ・フリンは、ある兵士が口にした質問をいまもよく覚えている。彼は『女や子供も殺すのですか』ときいたのだ。するとメディナはこう答えた。『動くものはすべて殺せ』
翌朝、兵士たちはヘリコプターに乗り込み、”ホット・ランディング・ゾーン”―敵の火器攻撃を受ける着陸地点―だと思っていた場所まで運ばれていった。ところがミライに入ろうとした。彼らが遭遇したのは(中略)民間人だった。それも女生と子供と老人たちだけだ。多くはまだ朝食に食べるコメを炊いていた。それでも兵士たちはメディナの命令を完璧に守って殺害した。何もかもを。動くものはすべて。
隊員たちは小さな分隊に分かれて進み、あたふたと駆けまわるニワトリを撃ち、飛び出してきた豚を仕留め、藁葺き小屋のあいだで声をあげていた牛や水牛の息の根をとめた。自宅で座っていた老人や隠れようとして逃げまどう子供たちを撃ち殺した。なかを調べもせず、住居に手榴弾を放り込んだ。女性の髪をつかんで至近距離からピストルの弾を撃ち込んだ士官もいた。ある女性は、赤ちゃんを抱いて家から出てきたところを即座に撃たれた。子供が地面に転がり落ちると、別のGIがその子にM16ライフルの銃弾を浴びせた。
それから4時間をかけ、C中隊の隊員たちは、武器を持たない村人500人以上を着々と殺していった。(中略)兵士たちはなんの抵抗にも遭わなかった。修羅場のど真ん中で静かに休憩をとって昼食を食べさえした。途中で女性や少女をも強姦し、死体を切り刻み、一軒一軒、家に火をつけ、あたり一帯の飲料水を汚染させた」
この事件について更に慄然とするのは「地上には何十人もの目撃者がおり、上空にもさらに多くの証人がいた」ことで「ヘリコプターに乗っていた米軍兵士や乗員には、民間人の死体の山が累々と築かれていくさまが手に取るようによく見えた」にもかかわらず、誰も制止しようとはしなかったことです。それどころか、「正当な戦闘の末、米軍はひとりの戦死者も出さずに敵兵128名を殺害した」というのが、この襲撃についての最初の公式発表でした。そして、この襲撃は「一年以上ものあいだ、外の世界に対しては米軍の勝利ということになっていた」のですが、23歳だったロン・ライデナワーという兵士の粘り強い行動によって、実態が明るみにでます。「ベトナムの他の地域で民間人の殺害を目撃したことがあった」彼は、その場にはいなかったのですが、襲撃に参加していた兵士から話を聞き、「複数のアメリカ人から慎重に目撃証言を集める」という「前例のない行動に出た」のです。そして帰国後、「どんなことをしてもでもこの事件を公にしてやろうと誓った」のです。
この事件は、陸軍の調査の結果、28名の士官と2名の将官が224件の「大量殺戮中の犯罪行為またはその隠蔽に関わった」と断定されます。それでも、罪に問われたのは、「民間人22名を計画的に殺害したとして終身刑を宣告された」C中隊のウィリアム・カリー中尉ただ一人でした。「しかしニクソン大統領は彼を釈放して自宅軟禁とすることを許した。最終的にはカリーはわずか40カ月刑に服しただけで、しかもそのほとんどの期間を快適な士官宿舎の自宅で過ごしたのち、仮釈放された」とのことです。
事件を明るみに出すことに尽力したライデワナーは、25年後に次のように語っています。
「しまいには、ミライでなにがあったのかきかれると、みんながこう答えるようになった。『ああ、カリー中尉がおかしくなっておおぜいの人を殺したんだろう?』いや、ちがう。カリー中尉は、ミライでおかしくなっておおぜいの人を殺した人々にひとりにすぎない。しかし、あれは作戦であって特異な逸脱行為ではなかった」
カリー中尉ひとりしか断罪されなかったのは、もちろん上層部に責が及ぶことを避けたためでしょう。作者は次のように述べています。
「ベトナム戦争中の残虐行為は、保身と否定―そして最終的には―免責の文かに助長されて広がっていった。問題があってもなかったことにし、過失は隠蔽し、悪いニュースは可能なかぎり伏せておく。ベトナム時代の指揮官たちにはそれが標準的な行動要領だった。(中略)(残虐行為の)加害者はたとえ起訴されても、軍法会議の判事か軍内の階級の高い友人にすべてを任せておけば、たいていの場合、ごく軽い懲罰ですむよう―あるいは無罪放免となるよう―取りはからってもらえたのだ」
さらに、ボディカウント(死体数)という、戦功を測るしくみがあったことも、本書では述べられています。二人の兵士が次のような証言をしています。
「ボディカウントが戦績を測る指標とされていたのでう。どの指揮系統でも、上から下まで誰もがそう思っていました」
「ボディカウントがすべてでした。われわれの指揮官はただボディカウントだけをほしがっていました」
本書では、ボディカウントを追求したとして、ある軍曹が「たったひとりで1500人以上を”戦闘により殺害した”」とされる例を挙げています。これがまかり通っていたのがベトナム戦争だったのです。
米軍は、また、数々の村や森林をナパーム弾で焼き、枯葉剤を広範囲に巻いて、多くの森林を消滅させました。簡単に言えば、北ベトナム兵士やシンパが隠れる場所がなくすために、人間も含めて破壊の限りを尽くしたわけです。この爆撃によって死んだ人間も多かったですし、先祖代々の土地を住めなくされた人間は数知れません。そもそも破壊した土地の再建などということは、米軍は考えていなかったのですから。結果、サイゴンに大量の難民がなだれ込みます。
「1962年のサイゴンの人口は140万人だったが、農村部への激しい爆撃が始まってから400万人にも膨れ上がった」
サイゴンに流入した難民たちは、劣悪なスラムの環境下で「なんとかして家族の食い扶持を稼ぎ、路頭に迷わせまいとして必死に頑張った」ものの、やはり「もっとも苛酷な生活を強いられたのは女性と子供たち」でした。
「戦争終結時のベトナムでは、じつに50万人もの女性が売春婦に身を落していた」
本書では、やはり数知れない女性に対する性的暴行、そしてその後の殺害についてのレポートもありますが、あまりにも内容がひどいので、そこには直接触れませんが、これにも教育=洗脳が影響しています。
「アメリカの戦争では、性的搾取に加え、性暴力も多発していた。これは驚くにはあたらない。クリスチャン・アビーが書いたように『新兵訓練所で軍人の理想として示される男らしさは、暴力とじかに結びついている』からだ。入隊直後から、男たちは性差別と女性蔑視を表す言葉を砲弾の雨のように浴びせられる。男性の新兵たちが弱みや疲れを見せれば、たちまち、お嬢ちゃん、オネエ、オカマなどと呼ばれた」
また、本書では、サイゴン市内を走行中の車から、米兵が面白半分にベトナム人を撃ったり、轢いたりする事例も紹介されていますが、これもあまりにも内容がひどいので、ここでは紹介しません。
さて、こうして見てくると、本書はベトナム戦争を扱ったものですが、戦争で何が起こるかを普遍的に語った本であることは、最近のロシア軍によるウクライナでの残虐行為の報道を見れば、分かりますし、冒頭で触れたように、米軍が「1930年代から1940年代前半にかけて日本軍が中国農村部で決行した”すべてを殺し、焼き尽くし、略奪する”照度戦術を研究し、”海”を干上あがらせる方法を学んだのだ」というのも、それを表しています。そういう意味では、本書の副題は'The Real War in Vietnam' というより'The Real War'であるべきでしょう。
最後になりますが、本書では、様々な虐殺の現場にいて、かろうじて生き延びたベトナム人にも作者はベトナムで直接会って、証言をとっているのですが、その一部と作者の思いを紹介しておきます。
「インタビューを受けてくださったベトナムのかたがたには、感謝などという言葉では表現しきれないほどの思いがある。どの村でも、わたしは戦争が終結して以来はじめてやってきたアメリカ人だった。しかも突然どこからもなく現れて、殺人やレイプや暴行、爆撃、大量虐殺のことを聞いてまわったのだ。高齢のみなさまのもっともつらい記憶をほじくり返し、その胸の内に癒えない傷を残した苦難の詳細を語らせたうえ、自分の聞き取った内容にまちがいがないか確かめるために、何度も同じ話を聞き直しもした。よそでこのようなことをすれば、訪ねた先々で家から放り出されたこもしれない。そうされても仕方なかった。しかし、ベトナムでは、いつも感謝の言葉が返ってきた。その単純な事実を、私はいまだに完全には受けとめられていない」
「戦後数十年を経たあとでもなお、戦争の記憶はあまりに生々しく、耐えがたいほどの苦しみをもたらす。(中略)たとえば、ホー・チ・アー。わたしは彼女にインタビューしたときのことを一生忘れないだろう。1970年、片田舎の小さな村、レバタ(2)集落で起きた大量虐殺事件の生き残りだ。彼女は静かな声で、若いころの体験をかたってくれた。祖母と隣家のおばさんと三人でいったんは豪に隠れ、這い出したところで、海兵隊員の一団と鉢合わせをした。隊員たちのひとりがライフルを構え、アーの目の前でふたりの老女を射殺した。彼女は冷静に、落ち着いてその話をしてくれた。ところが、わたしがレバタ集落について一般的な質問をはじめたときになって、彼女は突然取り乱し、まるで発作でも起こしたように激しく泣き出したのである。それまで彼女は必死に自分を抑えていたのだろう。あふれ出した涙は、10分、15分、20分以上も流れつづけた」
一方で、これらの残虐行為を行った人間たち、加害者たちは、帰国後どうなったのかという疑問も湧きます。先日、残虐行為があったウクライナのブキャから帰還したロシア兵の父親が完全に「こわれてしまった」のは、父親が何らかの形で残虐行為に絡んでいたのではないかと疑っている娘の記事がありましたが、ベトナムから帰還後、PTSDに悩んだアメリカ人も多かったことは事実ですが、一方で何食わぬ顔で普通の生活に戻った人間も多かったことでしょう。。私の子供の頃、酔った場で、中国大陸での蛮行を自慢げに話す大人は、けっして珍しくなかったことを知っているだけに、私はそう思うのです。
なお、本書では、アメリカに協力してベトナムに派遣されていた韓国軍による残虐行為にも、少ないページではありますが、触れています。しかし、日本人が、この戦争において、米軍の後方支援を行っていたとしても、残虐行為に直接加担せずに済んだというのは何故かということを、やはり考えてみたいものです。その答えは、はっきりしています。
数多くの協力者に助けられた本書の執筆は、それでも10年がかりだったそうです。そして、お分かりのように、読むのが辛いですし、不快な描写も多い本です。ですから、どなたにも勧められる本ではありません。ですが、戦場の姿を描いたノンフィクションとして、読むべき本の一冊であることは確かです。
今回のロシアによるウクライナ侵攻でも、ロシア軍による数々の残虐行為が明るみに出ていますが、表ざたになっていない残虐行為の数という点では、ベトナム戦争の方がはるかに多いはずで、当然ながら、こういう残虐行為は今に始まったことではないことが分かります。ただ、ベトナム戦争が始まりだったわけでもなく、第二次大戦におけるナチのユダヤ人や民間人殺害の前例もありますが、本書では日本人にとって興味深い、以下の記述があります。
「中国共産党革命の指導者、毛沢東は、『人民は水のごとく、軍隊は魚のごとし』という有名な言葉を書き残した。アメリカの戦争立案者たちは、彼の金言の意味を理解し、1930年代から1940年代前半にかけて日本軍が中国農村部で決行した”すべてを殺し、焼き尽くし、略奪する”焦土戦術を研究し、”海”を干上あがらせる方法を学んだのだ」
この短い文章に、なぜ北ベトナム内よりも、同盟国である南ベトナム内にはるかに大量の爆弾を落としたか、なぜ枯葉剤をまいて森林を破壊したのか、なぜ一般人を大量に殺したのか、の答えが包含されています。
「北ベトナムでは少なくとも6万5千人がおもに米軍爆撃によって命を奪われた。(中略)2008年にはハーヴァード大学医学大学院とワシントン大学保健指導評価研究所の研究チームが調査を実施し、(南ベトナムの)戦闘員、非戦闘員を合わせた戦没者総数は、380万人と見るのが合理的であろうとの結論を下した」
「民間人負傷者数がほんとうはどれくらいであったかという問題について(中略)ある概算によると、南ベトナムでは8千人から1万6千人が対麻痺(脊髄損傷などによる下半身の運動麻痺)に陥り、3万人から6万人が視覚に障害を負い、8万3千人から16万6千人が手足を失ったとされる。民間人負傷者の総数にちてはギュンター・レヴィーが南ベトナム軍の犠牲者データを調べて重症者の数が戦死者の2.64倍であったことを割り出し、(中略)民間人死者数200万人というベトナム政府による推計値にこの倍率を掛けてみると、530万人が負傷したことになり、民間人犠牲者の総数が730万人となる。しかも南ベトナム各地に残る入院記録によれば、こうした負傷者のおよそ三分の一が女性で、およそ四分の一が13歳未満の子供だったのだ。
これらのとてつもない数値は何を意味するのだろうか。(中略)わたしの見るところ、南ベトナムの非戦闘員を無差別に殺害したことは―戦争の全期間を通じ、来る日も来る日も、毎月、毎年、延々と民間人を殺し続けたことは―偶発的な事故でも予測不能な災害でもなかったのである」
つまり、作者は、これらの虐殺は軍隊の「作戦であって(一部の腐ったリンゴによる)逸脱ではない」と結論付けているのです。当時の南ベトナムの人口が約1900万であったことを思うと、まさに慄然とする数字です。しかし、本国では平凡な市民であった数多くの米兵たちが、なぜこのようなことを平気でできたのでしょうか。その大きな要因として、軍隊では、ベトナム人への差別意識を植え付けるための教育=洗脳が行われていたことを、作者は挙げています。
「訓練所に入るとすぐ...連中は新兵の人格を全面的に変えようとした...まずはじめに、ベトナム人をベトナム人と呼ぶなと言われる。グーグとかディンクとかと呼べと。ベトナムに行けば、おまえらはチャーリー―つまりベトコン―と真正面から対決することになる。あいつらは動物みたいなものだ、人間じゃない...。ベトナム人が人間であるかのように話すことは許されなかった。ベトナム人に対してはどんな情けも無用だと言われた。そういう感覚を叩きこまれるのだ。殺し屋の本能のようなものを」
「ある帰還兵は、新兵訓練を受けるなかで、『村に住んでいて目尻の吊り上がった者はみんな敵だ』という認識をはっきり持つようになったと話してくれた。『女だろうが子供だろうと関係ないんです』と。ある士官は大勢を占める考え方をこんなふうに要約した。『つまり、女子供が何人か殺されても仕方がない...ようく思い知らせてやるんだ。やつらはみんなベトコンか、少なくともベトコンに手を貸している。こっちに寝返らせることはできない。ただ殺すしかないんだ』」
第二次大戦中のナチが行った、ユダヤ人や、独ソ戦でのソ連邦内の非戦闘員の大量虐殺でも、相手を人間とは思っていなかったはずで、それと同じ思考がベトナム戦争でのアメリカ軍を支配していたということです。ただ、日本軍の「鬼畜米英」というスローガンを持ち出すまでもなく、勝つためには敵のことを見下して見なければならないのは、どんな軍隊でも多かれ少なかれ持っている思考でしょうし、これは軍隊としての本質の一つなのだと思います。そして「この軍事作戦がピークに達した1969年には、この戦争に関わっていた米軍兵士の数は、ベトナム現地で54万人以上、ベトナム国外ではおよそ10万人から20万人に達していた」そうですから、この人数の仮に半数の人間が「洗脳状態」であったとして、破壊力と殺傷力が一段と増した最新兵器の実験場でもあった戦場で、どんな結果をもたらしたかは、前述した数字が物語っています。
そして、本書冒頭では、この戦争で最も有名なミライ集落虐殺(ソンミ村虐殺として日本では知られています)の詳細について述べています。
「1968年3月15日の夜、アメリカル師団第20歩兵連隊第一大隊C中隊のメンバーは”ピンク・ヴィル”と名づけられた地域で翌日実行されることになっていた作戦について、指揮官のアーネスト・メディチ大尉から説明を受けた。隊員のハリー・スタンリーは『村の何もかもを殺せと命じられた』と振り返る。(中略)前進射弾観測員のジェイムズ・フリンは、ある兵士が口にした質問をいまもよく覚えている。彼は『女や子供も殺すのですか』ときいたのだ。するとメディナはこう答えた。『動くものはすべて殺せ』
翌朝、兵士たちはヘリコプターに乗り込み、”ホット・ランディング・ゾーン”―敵の火器攻撃を受ける着陸地点―だと思っていた場所まで運ばれていった。ところがミライに入ろうとした。彼らが遭遇したのは(中略)民間人だった。それも女生と子供と老人たちだけだ。多くはまだ朝食に食べるコメを炊いていた。それでも兵士たちはメディナの命令を完璧に守って殺害した。何もかもを。動くものはすべて。
隊員たちは小さな分隊に分かれて進み、あたふたと駆けまわるニワトリを撃ち、飛び出してきた豚を仕留め、藁葺き小屋のあいだで声をあげていた牛や水牛の息の根をとめた。自宅で座っていた老人や隠れようとして逃げまどう子供たちを撃ち殺した。なかを調べもせず、住居に手榴弾を放り込んだ。女性の髪をつかんで至近距離からピストルの弾を撃ち込んだ士官もいた。ある女性は、赤ちゃんを抱いて家から出てきたところを即座に撃たれた。子供が地面に転がり落ちると、別のGIがその子にM16ライフルの銃弾を浴びせた。
それから4時間をかけ、C中隊の隊員たちは、武器を持たない村人500人以上を着々と殺していった。(中略)兵士たちはなんの抵抗にも遭わなかった。修羅場のど真ん中で静かに休憩をとって昼食を食べさえした。途中で女性や少女をも強姦し、死体を切り刻み、一軒一軒、家に火をつけ、あたり一帯の飲料水を汚染させた」
この事件について更に慄然とするのは「地上には何十人もの目撃者がおり、上空にもさらに多くの証人がいた」ことで「ヘリコプターに乗っていた米軍兵士や乗員には、民間人の死体の山が累々と築かれていくさまが手に取るようによく見えた」にもかかわらず、誰も制止しようとはしなかったことです。それどころか、「正当な戦闘の末、米軍はひとりの戦死者も出さずに敵兵128名を殺害した」というのが、この襲撃についての最初の公式発表でした。そして、この襲撃は「一年以上ものあいだ、外の世界に対しては米軍の勝利ということになっていた」のですが、23歳だったロン・ライデナワーという兵士の粘り強い行動によって、実態が明るみにでます。「ベトナムの他の地域で民間人の殺害を目撃したことがあった」彼は、その場にはいなかったのですが、襲撃に参加していた兵士から話を聞き、「複数のアメリカ人から慎重に目撃証言を集める」という「前例のない行動に出た」のです。そして帰国後、「どんなことをしてもでもこの事件を公にしてやろうと誓った」のです。
この事件は、陸軍の調査の結果、28名の士官と2名の将官が224件の「大量殺戮中の犯罪行為またはその隠蔽に関わった」と断定されます。それでも、罪に問われたのは、「民間人22名を計画的に殺害したとして終身刑を宣告された」C中隊のウィリアム・カリー中尉ただ一人でした。「しかしニクソン大統領は彼を釈放して自宅軟禁とすることを許した。最終的にはカリーはわずか40カ月刑に服しただけで、しかもそのほとんどの期間を快適な士官宿舎の自宅で過ごしたのち、仮釈放された」とのことです。
事件を明るみに出すことに尽力したライデワナーは、25年後に次のように語っています。
「しまいには、ミライでなにがあったのかきかれると、みんながこう答えるようになった。『ああ、カリー中尉がおかしくなっておおぜいの人を殺したんだろう?』いや、ちがう。カリー中尉は、ミライでおかしくなっておおぜいの人を殺した人々にひとりにすぎない。しかし、あれは作戦であって特異な逸脱行為ではなかった」
カリー中尉ひとりしか断罪されなかったのは、もちろん上層部に責が及ぶことを避けたためでしょう。作者は次のように述べています。
「ベトナム戦争中の残虐行為は、保身と否定―そして最終的には―免責の文かに助長されて広がっていった。問題があってもなかったことにし、過失は隠蔽し、悪いニュースは可能なかぎり伏せておく。ベトナム時代の指揮官たちにはそれが標準的な行動要領だった。(中略)(残虐行為の)加害者はたとえ起訴されても、軍法会議の判事か軍内の階級の高い友人にすべてを任せておけば、たいていの場合、ごく軽い懲罰ですむよう―あるいは無罪放免となるよう―取りはからってもらえたのだ」
さらに、ボディカウント(死体数)という、戦功を測るしくみがあったことも、本書では述べられています。二人の兵士が次のような証言をしています。
「ボディカウントが戦績を測る指標とされていたのでう。どの指揮系統でも、上から下まで誰もがそう思っていました」
「ボディカウントがすべてでした。われわれの指揮官はただボディカウントだけをほしがっていました」
本書では、ボディカウントを追求したとして、ある軍曹が「たったひとりで1500人以上を”戦闘により殺害した”」とされる例を挙げています。これがまかり通っていたのがベトナム戦争だったのです。
米軍は、また、数々の村や森林をナパーム弾で焼き、枯葉剤を広範囲に巻いて、多くの森林を消滅させました。簡単に言えば、北ベトナム兵士やシンパが隠れる場所がなくすために、人間も含めて破壊の限りを尽くしたわけです。この爆撃によって死んだ人間も多かったですし、先祖代々の土地を住めなくされた人間は数知れません。そもそも破壊した土地の再建などということは、米軍は考えていなかったのですから。結果、サイゴンに大量の難民がなだれ込みます。
「1962年のサイゴンの人口は140万人だったが、農村部への激しい爆撃が始まってから400万人にも膨れ上がった」
サイゴンに流入した難民たちは、劣悪なスラムの環境下で「なんとかして家族の食い扶持を稼ぎ、路頭に迷わせまいとして必死に頑張った」ものの、やはり「もっとも苛酷な生活を強いられたのは女性と子供たち」でした。
「戦争終結時のベトナムでは、じつに50万人もの女性が売春婦に身を落していた」
本書では、やはり数知れない女性に対する性的暴行、そしてその後の殺害についてのレポートもありますが、あまりにも内容がひどいので、そこには直接触れませんが、これにも教育=洗脳が影響しています。
「アメリカの戦争では、性的搾取に加え、性暴力も多発していた。これは驚くにはあたらない。クリスチャン・アビーが書いたように『新兵訓練所で軍人の理想として示される男らしさは、暴力とじかに結びついている』からだ。入隊直後から、男たちは性差別と女性蔑視を表す言葉を砲弾の雨のように浴びせられる。男性の新兵たちが弱みや疲れを見せれば、たちまち、お嬢ちゃん、オネエ、オカマなどと呼ばれた」
また、本書では、サイゴン市内を走行中の車から、米兵が面白半分にベトナム人を撃ったり、轢いたりする事例も紹介されていますが、これもあまりにも内容がひどいので、ここでは紹介しません。
さて、こうして見てくると、本書はベトナム戦争を扱ったものですが、戦争で何が起こるかを普遍的に語った本であることは、最近のロシア軍によるウクライナでの残虐行為の報道を見れば、分かりますし、冒頭で触れたように、米軍が「1930年代から1940年代前半にかけて日本軍が中国農村部で決行した”すべてを殺し、焼き尽くし、略奪する”照度戦術を研究し、”海”を干上あがらせる方法を学んだのだ」というのも、それを表しています。そういう意味では、本書の副題は'The Real War in Vietnam' というより'The Real War'であるべきでしょう。
最後になりますが、本書では、様々な虐殺の現場にいて、かろうじて生き延びたベトナム人にも作者はベトナムで直接会って、証言をとっているのですが、その一部と作者の思いを紹介しておきます。
「インタビューを受けてくださったベトナムのかたがたには、感謝などという言葉では表現しきれないほどの思いがある。どの村でも、わたしは戦争が終結して以来はじめてやってきたアメリカ人だった。しかも突然どこからもなく現れて、殺人やレイプや暴行、爆撃、大量虐殺のことを聞いてまわったのだ。高齢のみなさまのもっともつらい記憶をほじくり返し、その胸の内に癒えない傷を残した苦難の詳細を語らせたうえ、自分の聞き取った内容にまちがいがないか確かめるために、何度も同じ話を聞き直しもした。よそでこのようなことをすれば、訪ねた先々で家から放り出されたこもしれない。そうされても仕方なかった。しかし、ベトナムでは、いつも感謝の言葉が返ってきた。その単純な事実を、私はいまだに完全には受けとめられていない」
「戦後数十年を経たあとでもなお、戦争の記憶はあまりに生々しく、耐えがたいほどの苦しみをもたらす。(中略)たとえば、ホー・チ・アー。わたしは彼女にインタビューしたときのことを一生忘れないだろう。1970年、片田舎の小さな村、レバタ(2)集落で起きた大量虐殺事件の生き残りだ。彼女は静かな声で、若いころの体験をかたってくれた。祖母と隣家のおばさんと三人でいったんは豪に隠れ、這い出したところで、海兵隊員の一団と鉢合わせをした。隊員たちのひとりがライフルを構え、アーの目の前でふたりの老女を射殺した。彼女は冷静に、落ち着いてその話をしてくれた。ところが、わたしがレバタ集落について一般的な質問をはじめたときになって、彼女は突然取り乱し、まるで発作でも起こしたように激しく泣き出したのである。それまで彼女は必死に自分を抑えていたのだろう。あふれ出した涙は、10分、15分、20分以上も流れつづけた」
一方で、これらの残虐行為を行った人間たち、加害者たちは、帰国後どうなったのかという疑問も湧きます。先日、残虐行為があったウクライナのブキャから帰還したロシア兵の父親が完全に「こわれてしまった」のは、父親が何らかの形で残虐行為に絡んでいたのではないかと疑っている娘の記事がありましたが、ベトナムから帰還後、PTSDに悩んだアメリカ人も多かったことは事実ですが、一方で何食わぬ顔で普通の生活に戻った人間も多かったことでしょう。。私の子供の頃、酔った場で、中国大陸での蛮行を自慢げに話す大人は、けっして珍しくなかったことを知っているだけに、私はそう思うのです。
なお、本書では、アメリカに協力してベトナムに派遣されていた韓国軍による残虐行為にも、少ないページではありますが、触れています。しかし、日本人が、この戦争において、米軍の後方支援を行っていたとしても、残虐行為に直接加担せずに済んだというのは何故かということを、やはり考えてみたいものです。その答えは、はっきりしています。
数多くの協力者に助けられた本書の執筆は、それでも10年がかりだったそうです。そして、お分かりのように、読むのが辛いですし、不快な描写も多い本です。ですから、どなたにも勧められる本ではありません。ですが、戦場の姿を描いたノンフィクションとして、読むべき本の一冊であることは確かです。
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「本職」は、本というより映画です。
本を読んでいても、映画好きの視点から、内容を見ていることが多いようです。
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- 出版社:みすず書房
- ページ数:416
- ISBN:9784622079170
- 発売日:2015年10月02日
- 価格:4104円
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『動くものはすべて殺せ――アメリカ兵はベトナムで何をしたか』のカテゴリ
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