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紅い芥子粒
レビュアー:
東京の省線のある駅で、”私”は、来る日も来る日も、誰か(何か)を待っている。
大戦争が始まったころ、東京の省線のある駅で、待合室のベンチに腰かけて、
”私”は、来る日も来る日も誰かを(何かを)待っている。
そういう話です。
(JR線のことを、昔は国鉄、もっと昔は省線といいました)

買い物帰りにといいますから、夕刻でしょうか。
上り下りの電車がホームに着くたびに、改札口はごったがえします。

”私”は母親とふたりぐらしで、家でひっそりと縫物をしているのが好きでした。
愛想よく笑ったり、そらぞらしくお世辞をいったりすることができない性分で、
自分に正直でいるには、人に会わないのがいちばんよいと思うのです。
(80年後の日本だったら、「ひきこもり」といわれます)

しかし、大戦争は、そんな”私”をも外にひきずり出します。
家にひっそりじっとしていることを、世間はゆるしてくれません。
お国のために一心不乱に働けよと、世間は”私”をムチ打ちます。
でも、何をしたらいいのでしょうか。
何かに追い立てられるように外に出て、行くところもないから駅に来て、
誰かをひたすら待っている(ふりをしている)のです。

”私”の一人語りの小説ですが、最後の最後に”私”の正体が明かされます。
”私”は二十歳の娘です。
はたち。まだ若い。でも、ひとりでいるには若くない。
この時代の二十歳なら、だれかの妻になって子どものひとりもいてあたりまえ。
”娘”というには年をとりすぎで、「いきおくれ」とか、「いかずごけ」とか、こころない言葉のつぶてを背中に投げつけられる、そういうとしごろです。
大戦争のはじまりが、そんな”私”の存在の不安に輪をかけます。

だから、駅の人ごみに紛れて、あてもないのに待っているのでしょう。
”私”を不安から救済してくれる誰か(何か)を。

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紅い芥子粒
紅い芥子粒 さん本が好き!1級(書評数:560 件)

読書は、登山のようなものだと思っています。読み終わるまでが上り、考えて感想や書評を書き終えるまでが下り。頂上からどんな景色が見られるか、ワクワクしながら読書という登山を楽しんでいます。

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この書評へのコメント

  1. noel2023-10-08 16:29

    久しぶりに訪ねてみて、いまだ赤い芥子粒さんが健筆をふるっていることに安堵するとともに、なんだか旧知の義姉さんに会ったような気がしました。この作品については、また機会とその気の起きたときに読ませてもらおうと思います。赤い芥子粒さんのレビューはいつ読んでも心惹かれます。

  2. 紅い芥子粒2023-10-08 19:59

    noelさん、お久しぶりです。 義姉さんですか? 義弟よ!(笑

    またいつでも、ふらりとお立ち寄りください。ほそぼそとやっております。

  3. noel2023-10-08 21:33

    義理ではありますが、今後とも弟をよろしく。

  4. No Image

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