かもめ通信さん
レビュアー:
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金持ちと庶民の食糧事情、都会と田舎の暮らし、ユダヤ人に対する人々の反応、空襲におびえる町の様子、日記を元に終戦前後の様々な「日常」を再現しながら、戦争について、良心について、書くことについて考察する。
第三帝国の間、ベルリンにあったケストナーの書斎には、目立たぬように他の本にまざって1冊の青い装丁の本が並べられていた。
その本は本来、装丁を吟味するための見本本で、中には白い紙が綴じ込まれていたのだが、ケストナーはその見本本に日記をしたためた。
といっても、まとまった文章を書きとめたわけではない。
それは危険すぎた。
それは速記文字で、将来書かれるはずの小説の着想のメモでもあるかのように、後々、あれこれ思い起こせるように、断片的に、慎重に書き込まれた。
この本は、当時の「日記」を下に1945年前半のドイツ第三帝国崩壊前後の動乱の時期についてかかれたものだ。
例えばこんなくだりがある。
多くの作家が亡命する中、「好ましからざる作家」としてその作品を出版することがかなわない状況にあるだけでなく、2度にわたって逮捕され、移動の制限を受けていたにもかかわらず、ケストナーはドイツにとどまった。
幾度となくそのチャンスがあったにもかかわらず。
そのため、第三帝国崩壊後には、ナチの協力者であったのではないかと何度も取り調べをうけたという。
ケストナーがなぜ、亡命しなかったのか。
その明確な答えはこの本の中に記されてはいない。
けれども折々に語られるエピソードからは、ドイツの人々がケストナーとその作品をいかに愛していたかがうかがい知れる。
なにしろ国家秘密警察に逮捕連行されたときでさえ、「エーミールと探偵たちが来るよ!」とちょっとした騒ぎになったというぐらいなのだ。
自分の作品に命を救われた作家はしかし、終戦直後、こう書き記してもいる。
激動の時代に身をおきながら、いずれこの時代を舞台に一大長編小説を書くつもりでいた作家は、あれこれ考え抜いた末に、結局、戦後比較的早い時代にそれを書くことを断念する。
けれども、考えることをやめたわけではない。
後年、確かにフィクションもノンフィクションも含めて、いろいろな人が、様々な立場から、たくさんの本を書いた。
今なお、新しい作品が書かれつづけてもいる。
この本は、内容も翻訳も決して読みやすいとはいえないが、もしケストナーがあの本、この本を読んだなら、もしケストナーがこの時代に生きていたなら……といったことを含め、いろいろなことを考えさせられる1冊だった。
その本は本来、装丁を吟味するための見本本で、中には白い紙が綴じ込まれていたのだが、ケストナーはその見本本に日記をしたためた。
といっても、まとまった文章を書きとめたわけではない。
それは危険すぎた。
それは速記文字で、将来書かれるはずの小説の着想のメモでもあるかのように、後々、あれこれ思い起こせるように、断片的に、慎重に書き込まれた。
この本は、当時の「日記」を下に1945年前半のドイツ第三帝国崩壊前後の動乱の時期についてかかれたものだ。
例えばこんなくだりがある。
きょう初めて国防軍報道は、ライン河畔ケルンで戦闘が行なわれていることを認めた。その他、久しぶりで、ドイツ空軍が英国に侵入した、と告げた。「灯火のついている都市で」重要軍事目標を攻撃した、というのだ。つまり二つのことを知らせたわけだ。目標に命中したという希望と、英国は灯火管制をやめているという事実とを!
多くの作家が亡命する中、「好ましからざる作家」としてその作品を出版することがかなわない状況にあるだけでなく、2度にわたって逮捕され、移動の制限を受けていたにもかかわらず、ケストナーはドイツにとどまった。
幾度となくそのチャンスがあったにもかかわらず。
そのため、第三帝国崩壊後には、ナチの協力者であったのではないかと何度も取り調べをうけたという。
ケストナーがなぜ、亡命しなかったのか。
その明確な答えはこの本の中に記されてはいない。
けれども折々に語られるエピソードからは、ドイツの人々がケストナーとその作品をいかに愛していたかがうかがい知れる。
なにしろ国家秘密警察に逮捕連行されたときでさえ、「エーミールと探偵たちが来るよ!」とちょっとした騒ぎになったというぐらいなのだ。
自分の作品に命を救われた作家はしかし、終戦直後、こう書き記してもいる。
私はふたたび自分の脚本「独裁者の学校」に興味を持ち始める。数年間、家宅捜索につづいて一命にかかわるような場面や対話の文章を書き下ろすことは、少しもたのしくなかった。もう一命にかかわることはないのだという考えに慣れるには、時間が必要である。
激動の時代に身をおきながら、いずれこの時代を舞台に一大長編小説を書くつもりでいた作家は、あれこれ考え抜いた末に、結局、戦後比較的早い時代にそれを書くことを断念する。
けれども、考えることをやめたわけではない。
第三帝国は終わった。それを材料に、書物がつくられるだろう。ひどい本、センセーショナルな本、うそっぱちの本が。おそらく中には、正しい有益な書物も数冊はあるだろう。大多数を占める平凡な市民の行動をとりあつかう心理的研究は、なければなるまい。
相手を理解すること、自己を理解することが要求される。相手を理解するとは了解するという意味ではない。すべてを理解することと、すべてを許すこととは、決して同一のことではない。しかし、皮肉屋とか偽善者でありたくない人、そして盲目の裁判官などには絶対になりたくない人は、何が起こったかを知るだけではだめだ。どうしてそういうことが起こりえたのかを研究しなければならないだろう。
後年、確かにフィクションもノンフィクションも含めて、いろいろな人が、様々な立場から、たくさんの本を書いた。
今なお、新しい作品が書かれつづけてもいる。
この本は、内容も翻訳も決して読みやすいとはいえないが、もしケストナーがあの本、この本を読んだなら、もしケストナーがこの時代に生きていたなら……といったことを含め、いろいろなことを考えさせられる1冊だった。
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本も食べ物も後味の悪くないものが好きです。気に入ると何度でも同じ本を読みますが、読まず嫌いも多いかも。2020.10.1からサイト献本書評以外は原則★なし(超絶お気に入り本のみ5つ★を表示)で投稿しています。
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