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Wings to fly
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「喪失」とは、永遠に奪い去られることではない。
うちの近所の家に、梅や桃や桜が次々に咲く広い庭があり、私は密かにそこを「春告げ庭」と呼んでいた。おばあちゃまが亡くなってしばらくすると、その家は後ろの林と共に売られて数十軒の住宅が建った。鳥たちの朝の大合唱も耳を塞ぎたくなるほどだった蝉の声も、静かになった。時の流れと共に周囲は変容する。子どもたちは大人になり、身内や友がこの世から去って行った。生きてゆくとは、何かを失い続けることだと思う時もある。主人公・秋野が遅島を訪ねた時の心境はもっと深刻だったろう。彼は婚約者を亡くし、その翌年相次いで親を亡くし、研究室の恩師も亡くしていた。

南九州の近くにある遅島は、かつて多くの修験者たちが住んでいた。彼らは明治の廃仏毀釈運動で島を追われ、大寺院は破壊された。秋野がやってきた昭和の初め頃には、伽藍や塔の残骸に草が生い茂るばかりだ。恩師が残した調査書をもとに、土地の若者を案内役にして秋野は島をめぐる。みっしりと群生する植物、その間から見える海、草ぶき屋根を通して降る月の光、山の斜面から見下ろすカモシカの瞳など、実に細やかで冴え冴えとした自然描写である。その中に立つ秋野は、「圧倒的な山や空、海はそのままで、ただ人の営みに関するものだけが消えてしまった。」と感じる。「むしろ清々しいとは思えないのか?」
しかし、胸には引きちぎられるような寂寥感だけがある。

それから50年が過ぎ、秋野はふとしたきっかけで再び島を訪れる。島はリゾート開発が進み、豊かな自然も、かの夏の日々に笑い合い語り合った人の家も失われていた。変わらなかったのは、その場所から見えた“海うそ(蜃気楼)”だけ。ここから作品は「喪失」について語りかけてくる。

かつて島にいた修験者たちは「色即是空」と唱えた。この世の物事はすべて、仮の形であり不変ではない。「幻は森羅万象に宿り、森羅万象は幻に支えられてきらめく」と、秋野は気づく。それはきっと、大切な人の面影や、忘れられない思い出が心の中にきらめくのと同じことではないだろうか。「喪失とは、自分の中に降り積もる時間が増えてゆくことなのだ。」この美しい言葉は、長く心に残るだろう。

工事中に出土した木簡に記された村の名、かつて若者の母が調合した蚊遣りの粉は、まるで時の波に打ち寄せられた漂流物が語るように、島に住みついた人々の素性を明らにする。変容と消失は違うのだ。人は生きた時間の中に、必ず足跡を残していると思いたい。
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Wings to fly
Wings to fly さん本が好き!免許皆伝(書評数:862 件)

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