かもめ通信さん
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時は明治、「新人類」の登場か?!

Wings to flyさん主催のネット読書会 100年目に読む漱石に参加すべく、毎月1作を目標にこれまで敬遠し続けてきた漱石作品を読む試み。
6カ月目の今月は“それから”に挑戦だ。
例によって例ごとく初読みではあるが、この作品が「三四郎」の後に書かれ、「門」とあわせて三部作とされていることぐらいは知っていた。
なので、てっきり「三四郎」その人が出てこないまでも、同じような人物が登場し、学業を修め終えたその男の「それから」なのかと思っていたら、そうではなくて、あらびっくり?!
主人公の代助は三十歳を過ぎてもこれといった仕事もせずに、親から小遣いををもらって一軒家に住み、手伝いの婆さんや書生まで置いて優雅に暮らしている“高等遊民”。
かつて親友平岡に譲った三千代と再会して、人妻である彼女との愛を貫く決心をする。
それは取りも直さず、自由気ままな暮らしを捨てて生活の糧を得るために世間の荒波に飛び込む決意を必要とすることだった。
いやもう何が嫌いってね。
私はこの“高等遊民”ってヤツがものすごくイヤなのだ。
それは私だって(毎日上げ膳据え膳で、仕事もせずに、好きな本ばかり読み、お芝居だ音楽会だとお金の心配をせずに優雅に過ごせればいいな)と思ったことがないとはいわない。
そういう生活に憧れる気持ちがあるからこその嫌悪感なのかもしれないが、この男、ただ単に親の金で優雅に暮らしているというだけではない。
俗世間に染まっていく旧友の精神的堕落を心の中で見下して、労働に明け暮れることのない自分の生活が高尚な精神生活だと信じて疑わないのだ。
まあ確かに、平岡の堕落ぶりは目に余るものがあるやもしれないが、それでも「世間の荒波にもまれたことも、もまれる気もないお前に言われたくない!」と言いかえされてもしかたがないだろう。キミは?!
だいたい三千代も三千代ではないか!
幾ら昔好きだった男だったからといっても、いい年をしてそんな世間知らずのお坊ちゃんのどこがいいのだ?
それとも、泥沼の現状から逃げ出せるのなら、問題ありありの代助でもよかったのか?
捨て身の選択なのか?そうなのか?
……といった具合に、最初から最後まで実にイライラさせられる話なのである。
そうしてたどり着いたラストでは、『人形の家』のノラではないが、あんたら二人、先々のことも考えず無謀だろう!と思いつつ、彼らの「それから」が気になるような気にならないような?!
それで(あー面白くなかった!)と終ってしまっても良かったのだが、ふと思いついて青空文庫を検索すると、漱石による“『それから』予告”なる文章がみつかった。短いのでそのまま全文を引用すると。
うわーそうか!「それから」って、“三四郎のそれから”と“代助と三千代のそれから”のほかに、
「頭は明治元年だ」と言われていた田舎育ちの三四郎は、恥ずかしいと思いつつも田舎の母のことあれこれと考えずにはいられない。おそらくは社会に出ても地道に働き、それなりの親孝行もするんだろう。
それに対し、毎朝紅茶を飲み、丸善から取り寄せた洋書を読み、歌舞伎を観たりパーティーにでかけたりする代助は、いわゆる「西洋的個人主義」にどっぷりつかっていて、「自分だけを考えず、世の中、国家、人のために何かをするのが国民の義務だ」という父親の考え方を旧式だとして反発する。
結局彼は、家族の期待や友人の信頼、社会的道義に反しても自分の思いを貫き、父の薦める結婚を断って三千代と歩むことを選ぶのだ。
新しい価値観と古い考え方が入り交じる時代にあって、いわゆる「西洋的個人主義」を貫く生き方を選ぶ代助、その生き方こそが三四郎型の次に来る「それから」の男の姿だったのかもしれない。
6カ月目の今月は“それから”に挑戦だ。
例によって例ごとく初読みではあるが、この作品が「三四郎」の後に書かれ、「門」とあわせて三部作とされていることぐらいは知っていた。
なので、てっきり「三四郎」その人が出てこないまでも、同じような人物が登場し、学業を修め終えたその男の「それから」なのかと思っていたら、そうではなくて、あらびっくり?!
主人公の代助は三十歳を過ぎてもこれといった仕事もせずに、親から小遣いををもらって一軒家に住み、手伝いの婆さんや書生まで置いて優雅に暮らしている“高等遊民”。
かつて親友平岡に譲った三千代と再会して、人妻である彼女との愛を貫く決心をする。
それは取りも直さず、自由気ままな暮らしを捨てて生活の糧を得るために世間の荒波に飛び込む決意を必要とすることだった。
いやもう何が嫌いってね。
私はこの“高等遊民”ってヤツがものすごくイヤなのだ。
それは私だって(毎日上げ膳据え膳で、仕事もせずに、好きな本ばかり読み、お芝居だ音楽会だとお金の心配をせずに優雅に過ごせればいいな)と思ったことがないとはいわない。
そういう生活に憧れる気持ちがあるからこその嫌悪感なのかもしれないが、この男、ただ単に親の金で優雅に暮らしているというだけではない。
俗世間に染まっていく旧友の精神的堕落を心の中で見下して、労働に明け暮れることのない自分の生活が高尚な精神生活だと信じて疑わないのだ。
まあ確かに、平岡の堕落ぶりは目に余るものがあるやもしれないが、それでも「世間の荒波にもまれたことも、もまれる気もないお前に言われたくない!」と言いかえされてもしかたがないだろう。キミは?!
だいたい三千代も三千代ではないか!
幾ら昔好きだった男だったからといっても、いい年をしてそんな世間知らずのお坊ちゃんのどこがいいのだ?
それとも、泥沼の現状から逃げ出せるのなら、問題ありありの代助でもよかったのか?
捨て身の選択なのか?そうなのか?
……といった具合に、最初から最後まで実にイライラさせられる話なのである。
そうしてたどり着いたラストでは、『人形の家』のノラではないが、あんたら二人、先々のことも考えず無謀だろう!と思いつつ、彼らの「それから」が気になるような気にならないような?!
それで(あー面白くなかった!)と終ってしまっても良かったのだが、ふと思いついて青空文庫を検索すると、漱石による“『それから』予告”なる文章がみつかった。短いのでそのまま全文を引用すると。
色々な意味に於てそれからである。「三四郎」には大学生の事を描いたが、此この小説にはそれから先の事を書いたからそれからである。「三四郎」の主人公はあの通り単純であるが、此主人公はそれから後の男であるから此点に於ても、それからである。此主人公は最後に、妙な運命に陥ちいる。それからさき何どうなるかは書いてない。此意味に於ても亦それからである。
うわーそうか!「それから」って、“三四郎のそれから”と“代助と三千代のそれから”のほかに、
「三四郎」の主人公はあの通り単純であるが、此主人公はそれから後の男であるから此点に於ても、それからなのか!と今更ながら思い至る。
「頭は明治元年だ」と言われていた田舎育ちの三四郎は、恥ずかしいと思いつつも田舎の母のことあれこれと考えずにはいられない。おそらくは社会に出ても地道に働き、それなりの親孝行もするんだろう。
それに対し、毎朝紅茶を飲み、丸善から取り寄せた洋書を読み、歌舞伎を観たりパーティーにでかけたりする代助は、いわゆる「西洋的個人主義」にどっぷりつかっていて、「自分だけを考えず、世の中、国家、人のために何かをするのが国民の義務だ」という父親の考え方を旧式だとして反発する。
結局彼は、家族の期待や友人の信頼、社会的道義に反しても自分の思いを貫き、父の薦める結婚を断って三千代と歩むことを選ぶのだ。
新しい価値観と古い考え方が入り交じる時代にあって、いわゆる「西洋的個人主義」を貫く生き方を選ぶ代助、その生き方こそが三四郎型の次に来る「それから」の男の姿だったのかもしれない。
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本も食べ物も後味の悪くないものが好きです。気に入ると何度でも同じ本を読みますが、読まず嫌いも多いかも。2020.10.1からサイト献本書評以外は原則★なし(超絶お気に入り本のみ5つ★を表示)で投稿しています。
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- 出版社:
- ページ数:302
- ISBN:B009IY8UD8
- 発売日:2012年09月27日
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