ウロボロスさん
レビュアー:
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《杳子は深い谷底に一人で坐っていた。神経を病む女子大生〈杳子〉との、山中での異様な出会いに始まる、孤独で斬新な愛の世界……。現代の青春を浮彫りにする芥川賞受賞作「杳子」。》
以上が出版社の要約文です。
この小説は、1977年に映画化されています。
《研ぎすまされた感性の持ち主である二人の姉妹の心の軌跡を追う。芥川賞を受賞した古井由吉の同名小説の映画化。脚本・監督は伴睦人、撮影は渡部眞がそれぞれ担当。(16ミリ)》
キャスト
石原初音=杳子
山口小夜子=杳子の姉
後藤和夫=青年
以上が映画における内容紹介です。
《杳子は深い谷底に一人で坐っていた。神経を病む女子大生〈杳子〉との、山中での異様な出会いに始まる、孤独で斬新な愛の世界……。現代の青春を浮彫りにする芥川賞受賞作「杳子」。》
以上が出版社のPR文です。
山口小夜子がこの映画に出演していたとは驚きです。嘗て寺山修司の映画に出ていたとは聞いていましたが……。国際的に活躍したスーパーモデルの嚆矢の一人として最初に認識したのが1977年のスティーリー・ダンのアルバム・《彩(エイジャ)》のジャケット写真でした。これは刺激的で強烈なインパクトでした。ここから、エキゾチックジャパンが走り出したのではないかと思われます?
さて小説の方です。ストーリーらしいものは、これと言ってありません。秋の登山シーズンに大学生の男が一人で山を登り、降りてきたところを深い谷底で蹲る一人の女子大学生を助け、それを期に交際がはじまると言う内容です。女子大生の名は杳子(ヨウコ)。男の名は最後のほうの章で唐突にSと明かされ、それまでは、彼という人称です。登場人物は彼と杳子とその姉の三人です。
しかし、出会い頭の通行人Aではないですが他に何名かの脇役がでてきて印象ぶかい彩りを添えます。
しかし、この小説は、オーソドックスな恋愛小説とは些か趣を異にします。杳子とその姉の姉妹は精神を病んでます。杳子の口から姉は今では立ち直り結婚して二児の母であると告げられますが………。果たしてこの二人の恋はどのような結末を迎えるのでしょうか?
ところで杳子の病とはどのようなものなのでしょうか?その片鱗が次の文章に上手く表現されています。
《谷底って、高さの感じが集まるところではないかしら、高さの感じがひとつひとつの岩の中にまでこもっていて、入ってくる人間に敵意をもっているみたいな………》
谷底での様子を問いただされた杳子の彼への答えです。
杳子との不思議な交際は、村上春樹の『ノルウェイの森』を想起させます。『1973年のピンボール』が大江健三郎の『万延元年のフットボール』のパロディーとするなら、このこの古井由吉の作品は村上春樹がこの小説を読んでいようがいまいが集合的な無意識としてその普遍的な小説の核心に触れているような気がします。
つまるところ、《小説とは真の他者と出合いどのようにして世界と和解してゆくか?》という。
しかし性的描写の両者の違いは、あきらかです。
《二人は肌を押しつけ合わずに、それぞれ素肌の冷たさを保ったまま、躰を重ねた。腰の醜い感触がすこしずつ和らいで、全身のゆるやかな流れの中へ融けていった》
硬質と柔和で鍛錬され彫琢された、目も眩く文章が他にも充溢しています。
電車を降りて、岩肌の突き出た海岸の入江を歩く杳子を後ろからついて歩く彼が妄想するくだりは、静謐なエロティシズムのひとつの極北です。
陽の光が空と海に光芒と光条のおりなすうねりのなかに雲の翳りがときおりきざすように杳子の精神はこの上もなく美しくもあり、醜悪でもあるがしかし、外部を遮断し内面へ内部へと閉じていくと最終的に外部への道筋に導かれていくのではと思わせてくれる不思議な余韻の名作です。古井由吉氏も山口小夜子氏もすでに泉下の人です。ご冥福をお祈りします。
《研ぎすまされた感性の持ち主である二人の姉妹の心の軌跡を追う。芥川賞を受賞した古井由吉の同名小説の映画化。脚本・監督は伴睦人、撮影は渡部眞がそれぞれ担当。(16ミリ)》
キャスト
石原初音=杳子
山口小夜子=杳子の姉
後藤和夫=青年
以上が映画における内容紹介です。
《杳子は深い谷底に一人で坐っていた。神経を病む女子大生〈杳子〉との、山中での異様な出会いに始まる、孤独で斬新な愛の世界……。現代の青春を浮彫りにする芥川賞受賞作「杳子」。》
以上が出版社のPR文です。
山口小夜子がこの映画に出演していたとは驚きです。嘗て寺山修司の映画に出ていたとは聞いていましたが……。国際的に活躍したスーパーモデルの嚆矢の一人として最初に認識したのが1977年のスティーリー・ダンのアルバム・《彩(エイジャ)》のジャケット写真でした。これは刺激的で強烈なインパクトでした。ここから、エキゾチックジャパンが走り出したのではないかと思われます?
さて小説の方です。ストーリーらしいものは、これと言ってありません。秋の登山シーズンに大学生の男が一人で山を登り、降りてきたところを深い谷底で蹲る一人の女子大学生を助け、それを期に交際がはじまると言う内容です。女子大生の名は杳子(ヨウコ)。男の名は最後のほうの章で唐突にSと明かされ、それまでは、彼という人称です。登場人物は彼と杳子とその姉の三人です。
しかし、出会い頭の通行人Aではないですが他に何名かの脇役がでてきて印象ぶかい彩りを添えます。
しかし、この小説は、オーソドックスな恋愛小説とは些か趣を異にします。杳子とその姉の姉妹は精神を病んでます。杳子の口から姉は今では立ち直り結婚して二児の母であると告げられますが………。果たしてこの二人の恋はどのような結末を迎えるのでしょうか?
ところで杳子の病とはどのようなものなのでしょうか?その片鱗が次の文章に上手く表現されています。
《谷底って、高さの感じが集まるところではないかしら、高さの感じがひとつひとつの岩の中にまでこもっていて、入ってくる人間に敵意をもっているみたいな………》
谷底での様子を問いただされた杳子の彼への答えです。
杳子との不思議な交際は、村上春樹の『ノルウェイの森』を想起させます。『1973年のピンボール』が大江健三郎の『万延元年のフットボール』のパロディーとするなら、このこの古井由吉の作品は村上春樹がこの小説を読んでいようがいまいが集合的な無意識としてその普遍的な小説の核心に触れているような気がします。
つまるところ、《小説とは真の他者と出合いどのようにして世界と和解してゆくか?》という。
しかし性的描写の両者の違いは、あきらかです。
《二人は肌を押しつけ合わずに、それぞれ素肌の冷たさを保ったまま、躰を重ねた。腰の醜い感触がすこしずつ和らいで、全身のゆるやかな流れの中へ融けていった》
硬質と柔和で鍛錬され彫琢された、目も眩く文章が他にも充溢しています。
電車を降りて、岩肌の突き出た海岸の入江を歩く杳子を後ろからついて歩く彼が妄想するくだりは、静謐なエロティシズムのひとつの極北です。
陽の光が空と海に光芒と光条のおりなすうねりのなかに雲の翳りがときおりきざすように杳子の精神はこの上もなく美しくもあり、醜悪でもあるがしかし、外部を遮断し内面へ内部へと閉じていくと最終的に外部への道筋に導かれていくのではと思わせてくれる不思議な余韻の名作です。古井由吉氏も山口小夜子氏もすでに泉下の人です。ご冥福をお祈りします。
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これまで読んできた作家。村上春樹、丸山健二、中上健次、笠井潔、桐山襲、五木寛之、大江健三郎、松本清張、伊坂幸太郎
堀江敏幸、多和田葉子、中原清一郎、等々...です。
音楽は、洋楽、邦楽問わず70年代、80年代を中心に聴いてます。初めて行ったLive Concertが1979年のエリック・クラプトンです。好きなアーティストはボブ・ディランです。
格闘技(UFC)とソフトバンク・ホークス(野球)の大ファンです。
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- 出版社:新潮社
- ページ数:264
- ISBN:9784101185019
- 発売日:1979年12月01日
- 価格:460円
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