hackerさん
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「最下層階級の荷馬車、貧しい人々の荷馬車。裸。そして、親戚も友人も、誰も私に同行しません。荷車、馬、御者、それだけです。私を燃やしてください」(伊語版Wikipediaに記載されている作者の遺言より)
1934年にノーベル文学賞を受けた、シチリア生まれの作家ルイジ・ピランデッロ(1876-1936)の日本編纂の短篇集です。この作家の短篇は、アンソロジー等で、いくつか読んだ記憶はあるのですが、まとまって読むのは初めてでした。本書には15作品が収められていますが、特に印象的なものを紹介します。()は初出年です。
●『パッソリーニとミミ』(1905年)
「生まれたときの姿が毬のように丸っこかったので、最初は手毬(パッソリーニ)と名づけられた。
一緒に生まれた六匹のうち、処分されずにすんだのは一匹だけ。子どもたちがしつこくお願いし、やさしく守ってくれたおかげだった」
ところが、この仔犬には尻尾がありませんでした。おまけに「パッソリーニは日々成長するにつれ、醜くなっていった」のです。
「かわいそうに、当人はそんなこと知る由もない。生まれたときから尻尾がないことにも、いっさい不満を抱いていないように見えた。むしろ、自分になにかが足りないなどとは少しもおもっていない様子で、無邪気にはねまわっていた」
あんまり醜いので、家族から虐められるようになったパッソリーニは、だんだん性格まで悪くなっていきます。そして、ついに愛犬を亡くしたばかりの肉屋のファンフッラ・モーキにもらわれていきます。彼も「なかなかの変わり者」でした。
「無類の動物好きでありながら、動物を殺すことを生業とし、大の人間嫌いでありながら、人間に頭を下げ、仕えなければならなかった。心の中では貧しい者の味方だったが、肉屋という職業柄、それもままならない。周知のとおり、貧しい者が肉など口にすれば、消化不良を起こすのが関の山だ」
そして、パッソリーニは恋をします。お相手は、同じ町に滞在していた未婚のアメリカ人女性が飼っているミミという愛玩犬でした。
「田舎者で尻尾もない、みすぼらしいパッソリーニが、その毛糸玉のようななんでもない犬に媚びてすりよっていく様は、見ていて哀れになるほど滑稽だった」
はたして、この恋の行方は?ディズニーの『わんわん物語』(1955年)のようにはならない、とだけ言っておきます。ちょっと変わったキャラクターが登場して活躍する(?)作者の特徴がよく出た作品です。
●『ミッツァロのカラス』(1902年)
ミッツァロの岸壁に、羊飼いに鈴を首につけられたカラスがいました。野良仕事をしていた村人が、時々、周囲に誰もいないのに鈴の音が聞こえるので、気味悪がっていましたが、そのうち、食べ物を盗む首に鈴をつけたカラスがいるという噂が広がります。実際に、何度もパンを盗まれたことのあるチケという農夫は、罠を用意して、カラスを捕まえようとするのですが...。
ユーモラスな出だしですが、怖いエンディングが用意されています。
●『甕(かめ)』(1909年)
「訴えてやる!」が口癖で、喧嘩をふっかけない相手がいないと言われる、オリーブの生産者ドン・ロロ・ツィラーファは、オリーブの豊作を見込んで、大きな甕を一つ購入します。ところが、どういうわけか、オリーブを入れる前に、その甕が真っ二つに割れているところが見つかります。門外不出のパテだけで、割れた甕をきれいに元どおりにすると評判のディーマ親方が呼ばれますが、ドン・ロロはパテだけではうまく直るわけがなく、鎹(かすがい)も使えと主張します。ディーマ親方は、ものすごく不満でしたが、言われる通りにします。ところが、カッカしながら仕事をしていたせいで、甕の中で鎹をつけ終わった後で、入口が狭くて、中から出られなくなってしまったことに気づきます。さぁ大変、というお話です。
●『紙の世界』(1909年)
本書には、不条理と狂気を扱った作品もいくつか収められています。本作は、失われていく視力の中で、今まで読んだ本で書かれていることだけが真実で、誰かにそれと違う外の世界の姿を説明されても、それは嘘だと思いこむ老人の姿が描かれています。視力を失うことは、映画を観ることができなくなるわけで、わが身につまされる内容でした。
●『すりかえられた赤ん坊』(1902年)
「《ドンネ》というのは夜中にあらわれる幽霊の類で、この一帯に棲みついている魔女らしい」
生後三ヶ月の「ミルクのような真っ白の肌に黄金のようなブロンドの髪で、さながらイエスのような赤子」が、夜の間に「肝臓のように赤黒く、猿に輪をかけた醜さ」の赤ん坊にすりかわっていました。母親は気も狂わんばかりです。土地の者は《ドンネ》の仕業だと言うのですが...。本書の中では、最も悲惨な話です。
●『フローラ夫人とその娘婿ポンツァ氏』(1915年)
同じ町の別の家に住んでいる題名の二人の人物が、もう一人はある種の狂気に憑りつかれているので、その言葉を信じないでくれ、と周囲に言います。どちらも常識人のようにみえますし、言うことも至極まっとうに聞こえます。更に、皆を混乱させるのは、二人とも相手に対し「感動的なまでの犠牲心」を持っており、相手の狂気を一生懸命弁護するのです。はたして、狂気に憑りつかれているのは、どちらなのでしょうか?あるいは、二人とも狂気に憑りつかれているのでしょうか?
●『ある一日』(1936年)
「気がつくとわたしは、人っ子ひとりいない駅のプラットフォームの暗がりに、たった一人立っていた。わたしの身になにが起こったのか、ここがどこなのか知ろうにも、尋ねる相手はいない」
眠りから目覚めると、見知らぬ町の駅に一人佇んでいた「わたし」の話です。典型的な不条理譚なのですが、終わり方が不気味です。
この中からベストを挙げると、やはり『甕』になりますが、こういう比較的単純な滑稽譚は、実は、本書の中では、これぐらいなのです。他の作品は、ユーモラスな雰囲気があったとしても、多かれ少なかれ、人生の苦みや辛さを感じさせるものばかりです。ちょっと世代的には少し後のブッツァーティ(1906-1972)を連想させる作風でもあるのですが、ブッツァーティが本質的に持っている「明るさ」を感じることはできません。
実は、ピランデッロは裕福な家庭の生まれでしたが、1903年に父親が破産状態になり、それがきっかけで妻は狂気に陥り、後に精神病院で最期を迎えるというように、家庭的には幸福とは言いがたい状況でした。彼が一躍名声を馳せることになった戯曲『作者を探す六人の登場人物』(1921年)の後で、「ローマを近代劇の中心部にしよう」(Wikipediaより)という目標で、ビランデッロが指導し、長男が1925年に設立した芸術座は、商業的には失敗し、1929年に解散することになったことからも分かるように、経済的にも必ずしも恵まれていなかったようです。そんな中で、1934年にノーベル文学賞を受けたのは、嬉しいことだったでしょう。
また、ピランデッロは、1934年にファシスト党に入党し、翌年「ファシスト知識人宣言」にも署名しています。もっとも、作者とファシスト党の関係は、必ずしも相思相愛のものではなかったようで、死んだ後に国葬も考えていたファシスト党をけん制するかのように、次のような遺書を残していました。
「最下層階級の荷馬車、貧しい人々の荷馬車。裸。そして、親戚も友人も、誰も私に同行しません。荷車、馬、御者、それだけです。私を燃やしてください」(伊語版Wikipediaより)
こう見てくると、『甕』は、もしかしたら作者としては例外的な作品なのかもしれません。ピランデッロの作品は、もう少し読んでみようと思います。
●『パッソリーニとミミ』(1905年)
「生まれたときの姿が毬のように丸っこかったので、最初は手毬(パッソリーニ)と名づけられた。
一緒に生まれた六匹のうち、処分されずにすんだのは一匹だけ。子どもたちがしつこくお願いし、やさしく守ってくれたおかげだった」
ところが、この仔犬には尻尾がありませんでした。おまけに「パッソリーニは日々成長するにつれ、醜くなっていった」のです。
「かわいそうに、当人はそんなこと知る由もない。生まれたときから尻尾がないことにも、いっさい不満を抱いていないように見えた。むしろ、自分になにかが足りないなどとは少しもおもっていない様子で、無邪気にはねまわっていた」
あんまり醜いので、家族から虐められるようになったパッソリーニは、だんだん性格まで悪くなっていきます。そして、ついに愛犬を亡くしたばかりの肉屋のファンフッラ・モーキにもらわれていきます。彼も「なかなかの変わり者」でした。
「無類の動物好きでありながら、動物を殺すことを生業とし、大の人間嫌いでありながら、人間に頭を下げ、仕えなければならなかった。心の中では貧しい者の味方だったが、肉屋という職業柄、それもままならない。周知のとおり、貧しい者が肉など口にすれば、消化不良を起こすのが関の山だ」
そして、パッソリーニは恋をします。お相手は、同じ町に滞在していた未婚のアメリカ人女性が飼っているミミという愛玩犬でした。
「田舎者で尻尾もない、みすぼらしいパッソリーニが、その毛糸玉のようななんでもない犬に媚びてすりよっていく様は、見ていて哀れになるほど滑稽だった」
はたして、この恋の行方は?ディズニーの『わんわん物語』(1955年)のようにはならない、とだけ言っておきます。ちょっと変わったキャラクターが登場して活躍する(?)作者の特徴がよく出た作品です。
●『ミッツァロのカラス』(1902年)
ミッツァロの岸壁に、羊飼いに鈴を首につけられたカラスがいました。野良仕事をしていた村人が、時々、周囲に誰もいないのに鈴の音が聞こえるので、気味悪がっていましたが、そのうち、食べ物を盗む首に鈴をつけたカラスがいるという噂が広がります。実際に、何度もパンを盗まれたことのあるチケという農夫は、罠を用意して、カラスを捕まえようとするのですが...。
ユーモラスな出だしですが、怖いエンディングが用意されています。
●『甕(かめ)』(1909年)
「訴えてやる!」が口癖で、喧嘩をふっかけない相手がいないと言われる、オリーブの生産者ドン・ロロ・ツィラーファは、オリーブの豊作を見込んで、大きな甕を一つ購入します。ところが、どういうわけか、オリーブを入れる前に、その甕が真っ二つに割れているところが見つかります。門外不出のパテだけで、割れた甕をきれいに元どおりにすると評判のディーマ親方が呼ばれますが、ドン・ロロはパテだけではうまく直るわけがなく、鎹(かすがい)も使えと主張します。ディーマ親方は、ものすごく不満でしたが、言われる通りにします。ところが、カッカしながら仕事をしていたせいで、甕の中で鎹をつけ終わった後で、入口が狭くて、中から出られなくなってしまったことに気づきます。さぁ大変、というお話です。
●『紙の世界』(1909年)
本書には、不条理と狂気を扱った作品もいくつか収められています。本作は、失われていく視力の中で、今まで読んだ本で書かれていることだけが真実で、誰かにそれと違う外の世界の姿を説明されても、それは嘘だと思いこむ老人の姿が描かれています。視力を失うことは、映画を観ることができなくなるわけで、わが身につまされる内容でした。
●『すりかえられた赤ん坊』(1902年)
「《ドンネ》というのは夜中にあらわれる幽霊の類で、この一帯に棲みついている魔女らしい」
生後三ヶ月の「ミルクのような真っ白の肌に黄金のようなブロンドの髪で、さながらイエスのような赤子」が、夜の間に「肝臓のように赤黒く、猿に輪をかけた醜さ」の赤ん坊にすりかわっていました。母親は気も狂わんばかりです。土地の者は《ドンネ》の仕業だと言うのですが...。本書の中では、最も悲惨な話です。
●『フローラ夫人とその娘婿ポンツァ氏』(1915年)
同じ町の別の家に住んでいる題名の二人の人物が、もう一人はある種の狂気に憑りつかれているので、その言葉を信じないでくれ、と周囲に言います。どちらも常識人のようにみえますし、言うことも至極まっとうに聞こえます。更に、皆を混乱させるのは、二人とも相手に対し「感動的なまでの犠牲心」を持っており、相手の狂気を一生懸命弁護するのです。はたして、狂気に憑りつかれているのは、どちらなのでしょうか?あるいは、二人とも狂気に憑りつかれているのでしょうか?
●『ある一日』(1936年)
「気がつくとわたしは、人っ子ひとりいない駅のプラットフォームの暗がりに、たった一人立っていた。わたしの身になにが起こったのか、ここがどこなのか知ろうにも、尋ねる相手はいない」
眠りから目覚めると、見知らぬ町の駅に一人佇んでいた「わたし」の話です。典型的な不条理譚なのですが、終わり方が不気味です。
この中からベストを挙げると、やはり『甕』になりますが、こういう比較的単純な滑稽譚は、実は、本書の中では、これぐらいなのです。他の作品は、ユーモラスな雰囲気があったとしても、多かれ少なかれ、人生の苦みや辛さを感じさせるものばかりです。ちょっと世代的には少し後のブッツァーティ(1906-1972)を連想させる作風でもあるのですが、ブッツァーティが本質的に持っている「明るさ」を感じることはできません。
実は、ピランデッロは裕福な家庭の生まれでしたが、1903年に父親が破産状態になり、それがきっかけで妻は狂気に陥り、後に精神病院で最期を迎えるというように、家庭的には幸福とは言いがたい状況でした。彼が一躍名声を馳せることになった戯曲『作者を探す六人の登場人物』(1921年)の後で、「ローマを近代劇の中心部にしよう」(Wikipediaより)という目標で、ビランデッロが指導し、長男が1925年に設立した芸術座は、商業的には失敗し、1929年に解散することになったことからも分かるように、経済的にも必ずしも恵まれていなかったようです。そんな中で、1934年にノーベル文学賞を受けたのは、嬉しいことだったでしょう。
また、ピランデッロは、1934年にファシスト党に入党し、翌年「ファシスト知識人宣言」にも署名しています。もっとも、作者とファシスト党の関係は、必ずしも相思相愛のものではなかったようで、死んだ後に国葬も考えていたファシスト党をけん制するかのように、次のような遺書を残していました。
「最下層階級の荷馬車、貧しい人々の荷馬車。裸。そして、親戚も友人も、誰も私に同行しません。荷車、馬、御者、それだけです。私を燃やしてください」(伊語版Wikipediaより)
こう見てくると、『甕』は、もしかしたら作者としては例外的な作品なのかもしれません。ピランデッロの作品は、もう少し読んでみようと思います。
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「本職」は、本というより映画です。
本を読んでいても、映画好きの視点から、内容を見ていることが多いようです。
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- 出版社:
- ページ数:325
- ISBN:9784334752583
- 発売日:2012年10月11日
- 価格:1080円
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