hackerさん
レビュアー:
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「はじめは、ちぎれ雲が浮かんでいるように見えた。浮んで、それから風に少しばかり、右左と吹かれているようでもあった」 冒頭の文章だけで、言葉の世界に引きずりこまれる小説を久しぶりに読みました。
1950年生まれの平出隆の本を読むのは初めてでした。2001年刊の本書は、バブル期に作者が離れを間借りしていた家の隣の家で飼われていた、チビという猫との交流を描いたものです。元々は、隣の家の男の子が拾ってきた猫でしたが、妻と二人暮らしの離れを、はじめは時折、そのうちに頻繁に訪ねて来るようになります。母屋に住んでいた老夫婦との契約では、ペットと子供は不可だったのですが、お婆さんがお爺さんの介護で忙しくなり、猫の出入りについても黙認していました。そうして、作者夫婦は、チビのために、専用の出入り口、専用の食事皿、専用の寝床まで用意するようになります。
「お婆さんの目を忍んで、チビが家にあがるままにまかせるようになってから、こちらもだんだんに猫好きの心が分かるようになってきた。チビ以上の別嬪は、テレビを見てもカレンダーを覗いてもいないようであった。
だが、最高だと思いはじめてはいたが、自分の家の猫というわけではなかった。
シャンシャン、と(首輪の)鈴の音が聞こえ、それから姿をあらわすので、ときにはチビと呼ばず、シャンシャンと呼ぶこともあった。なんとはなく、来てほしいと思うときに口にする名前だった。
―シャンシャン、来ないね。
妻がそう言っているうちに、シャンシャン、と聞こえる」
しかし、チビの方でも、作者夫婦は自分の飼い主ではない、ということが分かっていたようです。
「チビはやはり啼かなかった。そして抱かせなかった。抱こうとするとかすかにミイと、啼いたか啼かなかったかというほどの声を漏らし、歯をちょっと立ててから、こちらの手をすり抜けた。
妻は、すぐに、そんなちょっかいを咎めた。歯を立てられた夫を嗤って、
―わたしは抱かない。チビちゃんには自由にしてもらう、
といった。チビは触れられぬまま、部屋うちを自由にゆききし、好きなときに好きな姿勢で眠りはじめた」
作者の妻は「チビは猫の姿をしている、気持ちの通う友だち」と言っていましたが、それでも、ある日「自分の猫」ではないことを思い知らされます。
「隣家の不在時に配達の荷物を預り、帰宅した様子を見計らって届けに行った。ドアを開け放たれた玄関口で呼び鈴を押して待っていると、奥さんではなく、チビが出て来た。妻はそこであっけにとられた。毎日毎晩やって来てけっして啼くことのないチビが、長々と口上を述べはじめたというのだった。その内容は、いつも世話になっているということについて、というよりも、さらに社交辞令的なもので、天候にまつわる挨拶や隣近所同士の世辞というものだったように思う、と妻は、慎重に反芻しながら報告した」
しかし、大家のお爺さんが死に、お婆さんは相続税が大変だからという理由で、家を売ることにします。そうすると、仕方ないことですが、作者夫婦も引っ越しをしなければなりません。自分たちの離れのある土地だけ買い取れないか算段もするのですが、とても手の出せる金額ではありません。チビとも別れざるを得なくなると覚悟するのですが、チビとの別れは思いもかけない形でやって来ました。
さて、このように紹介してくると、チビが主役の本かと思われるかもしれませんが、実はそうではありません。本書の最大の魅力は、時間の経過の描写であり、身近にある自然の移り変わりの描写です。その中で、いかにも詩人らしい選び抜いた言葉で語られる、バブル経済の崩壊へ至る社会の動きも含め、うつろいゆく存在である人間と猫の生の姿です。文学者としての作者の実生活も反映しているようで、何人かの知人の死が生々しく語られているのも、その表われでしょう。もちろん、猫好きの方なら、頷けることはより多いでしょうが、それだけの本でないことは強調しておきます。小説全体も心弾むような雰囲気ではないのですが、それは当然ながらスタイルの問題であって、作品の優劣とは無関係なものです。まずは、言葉と文章の美しさを味わうべき本です。
本書は翻訳されてフランスで2004年に出版されましたが、そのタイトルは『天からやって来た猫』"Le Chat qui venait du ciel"で、それは作中の次の文から来ているようです。
「―うちの猫だよ、
という妻は、うちの猫でないことを知っている。だからいっそう、じぶんへの、とても遠いところからの賜りものと思いつめる様子だった」
作者夫婦のチビに対する気持ちが感じられる仏語題だと思います。'venait'というのは、'venir'「来る」という動詞の過去形なのですが、過去の一時期ではなく、継続的に続いたことを表わすので、シャンシャンと鈴を鳴らしながら作者宅を訪れていたチビにはぴったりです。また、仏語訳を行った末次エリザベートの解説の註によると、2009年3月現在で、フランスにおける販売数は、単行本3,695部、文庫版22,950部だそうです。きっと原文の言葉の選び方や美しさが伝わる仏語訳なのでしょう。仏語版の可愛らしい表紙の写真を添付しておきましたから、良かったら、参考にしてください。
「お婆さんの目を忍んで、チビが家にあがるままにまかせるようになってから、こちらもだんだんに猫好きの心が分かるようになってきた。チビ以上の別嬪は、テレビを見てもカレンダーを覗いてもいないようであった。
だが、最高だと思いはじめてはいたが、自分の家の猫というわけではなかった。
シャンシャン、と(首輪の)鈴の音が聞こえ、それから姿をあらわすので、ときにはチビと呼ばず、シャンシャンと呼ぶこともあった。なんとはなく、来てほしいと思うときに口にする名前だった。
―シャンシャン、来ないね。
妻がそう言っているうちに、シャンシャン、と聞こえる」
しかし、チビの方でも、作者夫婦は自分の飼い主ではない、ということが分かっていたようです。
「チビはやはり啼かなかった。そして抱かせなかった。抱こうとするとかすかにミイと、啼いたか啼かなかったかというほどの声を漏らし、歯をちょっと立ててから、こちらの手をすり抜けた。
妻は、すぐに、そんなちょっかいを咎めた。歯を立てられた夫を嗤って、
―わたしは抱かない。チビちゃんには自由にしてもらう、
といった。チビは触れられぬまま、部屋うちを自由にゆききし、好きなときに好きな姿勢で眠りはじめた」
作者の妻は「チビは猫の姿をしている、気持ちの通う友だち」と言っていましたが、それでも、ある日「自分の猫」ではないことを思い知らされます。
「隣家の不在時に配達の荷物を預り、帰宅した様子を見計らって届けに行った。ドアを開け放たれた玄関口で呼び鈴を押して待っていると、奥さんではなく、チビが出て来た。妻はそこであっけにとられた。毎日毎晩やって来てけっして啼くことのないチビが、長々と口上を述べはじめたというのだった。その内容は、いつも世話になっているということについて、というよりも、さらに社交辞令的なもので、天候にまつわる挨拶や隣近所同士の世辞というものだったように思う、と妻は、慎重に反芻しながら報告した」
しかし、大家のお爺さんが死に、お婆さんは相続税が大変だからという理由で、家を売ることにします。そうすると、仕方ないことですが、作者夫婦も引っ越しをしなければなりません。自分たちの離れのある土地だけ買い取れないか算段もするのですが、とても手の出せる金額ではありません。チビとも別れざるを得なくなると覚悟するのですが、チビとの別れは思いもかけない形でやって来ました。
さて、このように紹介してくると、チビが主役の本かと思われるかもしれませんが、実はそうではありません。本書の最大の魅力は、時間の経過の描写であり、身近にある自然の移り変わりの描写です。その中で、いかにも詩人らしい選び抜いた言葉で語られる、バブル経済の崩壊へ至る社会の動きも含め、うつろいゆく存在である人間と猫の生の姿です。文学者としての作者の実生活も反映しているようで、何人かの知人の死が生々しく語られているのも、その表われでしょう。もちろん、猫好きの方なら、頷けることはより多いでしょうが、それだけの本でないことは強調しておきます。小説全体も心弾むような雰囲気ではないのですが、それは当然ながらスタイルの問題であって、作品の優劣とは無関係なものです。まずは、言葉と文章の美しさを味わうべき本です。
本書は翻訳されてフランスで2004年に出版されましたが、そのタイトルは『天からやって来た猫』"Le Chat qui venait du ciel"で、それは作中の次の文から来ているようです。
「―うちの猫だよ、
という妻は、うちの猫でないことを知っている。だからいっそう、じぶんへの、とても遠いところからの賜りものと思いつめる様子だった」
作者夫婦のチビに対する気持ちが感じられる仏語題だと思います。'venait'というのは、'venir'「来る」という動詞の過去形なのですが、過去の一時期ではなく、継続的に続いたことを表わすので、シャンシャンと鈴を鳴らしながら作者宅を訪れていたチビにはぴったりです。また、仏語訳を行った末次エリザベートの解説の註によると、2009年3月現在で、フランスにおける販売数は、単行本3,695部、文庫版22,950部だそうです。きっと原文の言葉の選び方や美しさが伝わる仏語訳なのでしょう。仏語版の可愛らしい表紙の写真を添付しておきましたから、良かったら、参考にしてください。
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「本職」は、本というより映画です。
本を読んでいても、映画好きの視点から、内容を見ていることが多いようです。
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- 出版社:河出書房新社
- ページ数:173
- ISBN:9784309409641
- 発売日:2009年05月30日
- 価格:599円
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