ウロボロスさん
レビュアー:
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芥川賞作家として成功していたにもかかわらず、自ら志願し、朝日新聞の従軍記者としてベトナムの戦地に作家は赴任した。開高健は60代で亡くなったと思っていたが58歳でその生涯を閉じていた。早逝が惜しまれる。
戦禍のベトナムは次のように描写される。
《私はグラスをおいて、「美しい国だ」といった。ルビーかガーネットの内部、その核心に佇んで酒を飲んでいるようだった。陽が傾くにつれて黄昏は燦爛から凄壮へ、凄壮から痛惨へと変わり、光輝が肩をなだれおちていき、やがて夜が薄い水のように小屋のすみからにじんで物の腰を浸しはじめた。》
この国は夜といわず昼といわず常にすでに、湿気にみたされており、ヤモリや南京虫をはじめとする生き物たちや水牛で溢れかえっている。塹壕、地雷原、ゴム林、水田、国道、ジャングル、地平線があり、農民、子供たちが生活していた。
ウェイン大尉、チャーリー、ヘインズ伍長、通訳のチャンとその妹でトーガ(現地の女=名前は素娥)との交流を私の一人称語りで物語はすすむ。
ベトコンたちの日常は銃、弾薬、鉄兜、タイプライター、ステール・キャビネット何でも取っていく。ペニシリン、マラリアその他の薬も。
「"赤"は毒々しいがあっぱれなたたかいかたをする」が大尉の口癖である。
夜がそろそろと這いより、胡桃の実をうちあわせるような音をたてて謙虚な、大きい、つぶやくような黄昏が沁みだすのであった。
一万メートル上空のジェット機が急降下し、地上近くまで接近し墜落すれすれで、いっきに機種をたてなおし高空へとかけあがる。その際の衝撃波のことを《エア・ゴリラ》というそうだ。
特派員である作家は寝床を用意してもらうが、その為には二人が犠牲にならなければならない。
銃でもナイフでもなく人は殺せた。
私が寝るだけで二人の兵が死ぬのである。
作家は戦地に多くの本を持ち込んだ。その中にマークトゥエインの空想小説が、湯けむりのたつような小屋の暑熱を突破できたという。因みにドストエフスキーの『白痴』と『チェーホフ短編集』は、その暑熱を突破できなかったそうだ。しかし『白痴』はその後に、お守りとして胸ポケットにおさめられることになる。
19世紀末のマークトゥエインのこの作品は、「アーサー王宮廷のコネチカット・ヤンキー」というタイトルで、アメリカ人技師がアーサー王時代のイングランドにタイムスリップする物語りである。
『さがしもとめていたものがこんなところにあった。ここに何もかもが書かれてあった。たった一日に100億円から200億円にも達するめくらむような浪費をアメリカ人はいまこの国でやっているのだが、すべては七五年前に書かれた200円たらずのこの一冊の文庫本にある。発端から結末が、細部と本質が、偶然と必然が、このドン・キホーテとガリバーが手を携えてゆく物語のなかにあった。』と本文のなかで記している。
慓悍で飽くことを知らない推力が彼を駆りたてている。
私はある朝、サイゴンで解放戦線の少年兵が処刑されるのを目撃する。
《おびただしい疲労が空からおちてきた。私は寒気がして膝がふるえ、それでいて全身を熱い汗にぐっしょり浸されていた。汗はすぐ乾いたが、寒さはまさぐりようのない体の内奥からやってきて波うった。胃がよじれて、もだえ、嘔気(はきけ)がむかむかこみあげた。私は闇のなかで口をひらいたが嘔く物は何もなかった。》
しかし二度目の目撃は、もはや嘔気をもよおすこともなかった。
《徹底的に正真正銘のものにむけて私は体をたてたい。私は自身に形をあたえたい。私はたたかわない。殺さない。助けない。耕さない。運ばない。扇動しない。策略をたてない。誰の味方もしない。ただ見るだけだ。わなわなふるえ眼を輝かせ犬のように死ぬ。見ることはその物になることだ。》
そしてこの自身の立場を『視姦する』者として位置づけている。
妹と逃げ惑った大阪大空襲の記憶が挿入されている。調べたら野坂昭如と開高健はどちらも1930年生まれであった。
さらにこれにクェエーカー教徒のアメリカの老人の挿話がはさまれ、この戦争に非当事者として関わることの意義を問う。
作家は最後に自身の自尊心とレゾン・デートルの崩壊するさまを描いて物語を閉じている。
三部作の第一作である。凄まじい語彙力とその描出力と譬喩力に圧倒された。
《私はグラスをおいて、「美しい国だ」といった。ルビーかガーネットの内部、その核心に佇んで酒を飲んでいるようだった。陽が傾くにつれて黄昏は燦爛から凄壮へ、凄壮から痛惨へと変わり、光輝が肩をなだれおちていき、やがて夜が薄い水のように小屋のすみからにじんで物の腰を浸しはじめた。》
この国は夜といわず昼といわず常にすでに、湿気にみたされており、ヤモリや南京虫をはじめとする生き物たちや水牛で溢れかえっている。塹壕、地雷原、ゴム林、水田、国道、ジャングル、地平線があり、農民、子供たちが生活していた。
ウェイン大尉、チャーリー、ヘインズ伍長、通訳のチャンとその妹でトーガ(現地の女=名前は素娥)との交流を私の一人称語りで物語はすすむ。
ベトコンたちの日常は銃、弾薬、鉄兜、タイプライター、ステール・キャビネット何でも取っていく。ペニシリン、マラリアその他の薬も。
「"赤"は毒々しいがあっぱれなたたかいかたをする」が大尉の口癖である。
夜がそろそろと這いより、胡桃の実をうちあわせるような音をたてて謙虚な、大きい、つぶやくような黄昏が沁みだすのであった。
一万メートル上空のジェット機が急降下し、地上近くまで接近し墜落すれすれで、いっきに機種をたてなおし高空へとかけあがる。その際の衝撃波のことを《エア・ゴリラ》というそうだ。
特派員である作家は寝床を用意してもらうが、その為には二人が犠牲にならなければならない。
銃でもナイフでもなく人は殺せた。
私が寝るだけで二人の兵が死ぬのである。
作家は戦地に多くの本を持ち込んだ。その中にマークトゥエインの空想小説が、湯けむりのたつような小屋の暑熱を突破できたという。因みにドストエフスキーの『白痴』と『チェーホフ短編集』は、その暑熱を突破できなかったそうだ。しかし『白痴』はその後に、お守りとして胸ポケットにおさめられることになる。
19世紀末のマークトゥエインのこの作品は、「アーサー王宮廷のコネチカット・ヤンキー」というタイトルで、アメリカ人技師がアーサー王時代のイングランドにタイムスリップする物語りである。
『さがしもとめていたものがこんなところにあった。ここに何もかもが書かれてあった。たった一日に100億円から200億円にも達するめくらむような浪費をアメリカ人はいまこの国でやっているのだが、すべては七五年前に書かれた200円たらずのこの一冊の文庫本にある。発端から結末が、細部と本質が、偶然と必然が、このドン・キホーテとガリバーが手を携えてゆく物語のなかにあった。』と本文のなかで記している。
慓悍で飽くことを知らない推力が彼を駆りたてている。
私はある朝、サイゴンで解放戦線の少年兵が処刑されるのを目撃する。
《おびただしい疲労が空からおちてきた。私は寒気がして膝がふるえ、それでいて全身を熱い汗にぐっしょり浸されていた。汗はすぐ乾いたが、寒さはまさぐりようのない体の内奥からやってきて波うった。胃がよじれて、もだえ、嘔気(はきけ)がむかむかこみあげた。私は闇のなかで口をひらいたが嘔く物は何もなかった。》
しかし二度目の目撃は、もはや嘔気をもよおすこともなかった。
《徹底的に正真正銘のものにむけて私は体をたてたい。私は自身に形をあたえたい。私はたたかわない。殺さない。助けない。耕さない。運ばない。扇動しない。策略をたてない。誰の味方もしない。ただ見るだけだ。わなわなふるえ眼を輝かせ犬のように死ぬ。見ることはその物になることだ。》
そしてこの自身の立場を『視姦する』者として位置づけている。
妹と逃げ惑った大阪大空襲の記憶が挿入されている。調べたら野坂昭如と開高健はどちらも1930年生まれであった。
さらにこれにクェエーカー教徒のアメリカの老人の挿話がはさまれ、この戦争に非当事者として関わることの意義を問う。
作家は最後に自身の自尊心とレゾン・デートルの崩壊するさまを描いて物語を閉じている。
三部作の第一作である。凄まじい語彙力とその描出力と譬喩力に圧倒された。
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これまで読んできた作家。村上春樹、丸山健二、中上健次、笠井潔、桐山襲、五木寛之、大江健三郎、松本清張、伊坂幸太郎
堀江敏幸、多和田葉子、中原清一郎、等々...です。
音楽は、洋楽、邦楽問わず70年代、80年代を中心に聴いてます。初めて行ったLive Concertが1979年のエリック・クラプトンです。好きなアーティストはボブ・ディランです。
格闘技(UFC)とソフトバンク・ホークス(野球)の大ファンです。
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- 出版社:新潮社
- ページ数:294
- ISBN:9784101128092
- 発売日:1982年10月01日
- 価格:540円
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