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hackerさん
hacker
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初読でしたが、私のような映画ファンにとっては、本書を映画化したタルコフスキー監督の『ストーカー』(1979年)の印象が強く残っていて、それがやや邪魔したかもしれません。
映画『ストーカー』が日本で公開されたのは1981年10月、この文庫版が出版されたのは1983年2月ですから、映画が評判になってから出版が決まったのでしょう。実は、訳者あとがきによると、原作は1972年にレニングラードの雑誌に連載発表されたものの、本として出版されたのは、映画化の後の1980年とのことです。正直なところ、本書は初出版時に購入して以来ず~っと私のツンドク山脈に埋もれていました。今回、かもめ通信さん主催の「#やりなおし世界文学 読書会」で対象本として挙げられていたので、読んでみた次第です。


まず本書の設定を簡単に説明します。

ある日突然、宇宙からの「来訪者」が原因と思しき場所が、地球上に6か所出現します。この場所はゾーンと呼ばれ、地球人の理解を超えた品物(ブツ)が多数存在し、そこに立ち入ることは生命の危険があるので禁止されますが、そこに入り込んでブツを持ち出して高額で売りさばく密猟者(ストーカー)たちが存在していました。本書の主人公レドリック・シュハルト(通称レッド)は、住んでいたハーモントにゾーンが出現したことから、ストーカーとなります。

ところで、ゾーン出現の理由なのですが、本書の原題は「路傍のピクニック」若しくは「道端のキャンプ」で、要するに人間が旅の途中の道端で一休みのあと、そこに住む生き物たちの迷惑など考えずにゴミを散らかしておいて立去るように、「来訪者」が後かたづけをきちんとしないで立ち去った場所がゾーンなのではないかという説明が、断定しているわけではありませんが、本書の中にはあります。ただ、個人的には面白い発想だとは思いますが、それにしては、いろいろなブツがゾーンにはあって、説明としては苦しいような気がします。本書のプロローグにも「六ヵ所の来訪ゾーンは、地球上とデブネ星を結ぶ線上のどこかからピストルの弾を六発射ちこんだような具合に並んでいる」という記述もありますし、「来訪者」にとっての産業廃棄物、又はそれに類するゴミを適当な惑星に放り出したという説明の方が受け入れやすいです。ただ、重要なのは、そういうゴミですら、人知を超えているとうことなのでしょう。それにしても、ブツは種類が多すぎますし、ちょっと非科学的だろうと思うようなものもあります。また、ゾーン出現時にその近辺にいた人間が予測できない影響を受けるというのは良しとしても、その人間が移住した場合、移住先で事故死や犯罪が増えるため、移住が禁止されるようになるという設定も、SF映画としては説得力がないです。この手の話に、あまりリアリティを求めても仕方ないのは承知していますが、「嘘でもいいから、騙してほしい」というのが私のいつものスタンスなので、この点も不満でした。

そして、一番気に入っていない、あるいは私が理解できないのは、人称の取り扱いです。本書はプロローグの「インタビュー記事の抜粋」を除くと、以下の説明が冒頭に書かれている四つの章立てから成っています。

1.レドリック・シュハルト、23歳、独身。国際地球外研究所ハーモント支所所属実験助手。
2.レドリック・シュハルト、28歳、既婚。職業不定。
3.リチャード・H・ヌーナン、51歳。国際地球外研究所ハーモント支所勤務。電子機器納入業者監督官。
4.レドリック・シュハルト、31歳。

このうち、1だけが一人称で、残りは三人称です。このような章立てにした場合、各章が名前を出した人物の一人称というのはよく分かりますし、そうでなくても全章を三人称単一視点で語るのも、珍しくありません。ただ、1だけが一人称というのは、何かの意図があったはずなのですが、私には理由が分かりません。


と、不満を述べてしまいましたが、映画の方の話をします。映画も原作者ストルガツキー兄弟がシナリオを書いており、タルコフスキーとどんな話し合いがなされたのかは知りませんが、思い切り、色々なものが省かれています。まず時間軸ですが、小説の8年に対し、わずか数日です。一種の群集劇でもある原作と違い、名前の与えられていない「ストーカー」「作家」「科学者」の三人が、ゾーンの中にあって、そこに入ると心の奥底で真に望んでいる願いが叶うという「部屋」を目指すという話を中心に据えおり、その他の意味あるキャラクタとしては「ストーカーの妻」と「ストーカーの娘」だけです。原作では多々登場するブツも最小限に絞られていますし、原作に登場する「ゾンビ」―死者が生きた姿でもどってくるものの、中身は人間ではない―などは、『ソラリス』を映画化したタルコフスキーには興味なかったことでしょう。

原作では、この願いを叶えるブツを「黄金の玉」と呼んでいて、レドリックは大金を得るために、「悪魔のジェリー」(エイリアンの強酸性体液を連想します)で足を溶かされた元仲間のバーブリッジの息子と一緒に、それを求めてゾーンに侵入するというのが最後の章で語られており、映画はこの部分だけを中心に持ってきたと言えそうです。ですが、ようやく「部屋」の前にたどり着いた「作家」と「科学者」の意外な行動は、完全に映画のオリジナルです。それに「ストーカー」は怒り、落胆して家に戻るのですが、最後に、これも完全にオリジナルである、さも当然の如く超能力を使う娘の姿を映して、映画は終ります。

実は、原作ではレッドの娘は「もはや人間ではない」と医者に言われ「赤錆のように醜く腫れあがり、形がくずれ、粗い褐色の毛が生えた(中略)陰気な顔」と形容されていて、明らかにゾーンの影響を受けた生き物として描写されているの対し、映画では一言も口を利かない「ストーカーの娘」は普通の人間の外見をし、四肢が不自由らしいのですが、それを補う超能力があるという設定になっています。どちらに説得力を感じるかは個人差があるでしょうが、私は映画の方です。


という訳で、お分かりと思いますが、比較するなら、私は映画の方が好きです。ただ、同じことをあちこちで言っていますが、映画は映画、原作は原作で評価すべきというのが私の基本スタンスなので、両者の優劣を論じるつもりはありません。ただし、映画を先に観た関係で、そのイメージが強く残っているのは確かなので、原作への評価にバイアスがかかっている可能性もありますが、フォークナーの「私は毎日読む新聞にだって影響を受ける」という言葉に免じて、どうかお許しください。
    • 映画より。人が立ち退いたゾーン。福島やチェルノービリを連想させます。
    • ゾーンの中でも、水と犬を登場させずにはいられないタルコフスキー
    • 映画のラスト。さも当然のごとく、超能力を使う「ストーカーの娘」
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hacker
hacker さん本が好き!1級(書評数:2281 件)

「本職」は、本というより映画です。

本を読んでいても、映画好きの視点から、内容を見ていることが多いようです。

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