ぱせりさん
レビュアー:
▼
再び、死後の冒険ということに。
岩波少年文庫100冊マラソン61冊目
*この本、i岩波少年文庫版の感想は過去に書いていますので、今回の新しい感想を、『リンドグレーン作品集』(ハードカバー)版に、書きます。
美しさと勇敢さと優しさとを兼ね備えた兄ヨナタンと、ヨナタンを慕う病弱の弟のカール。カールを語り手にした、これは、少年のまま亡くなった兄弟の死後の冒険の物語だ。
私は、二人の死のことがずっとひっかかっていたのだけれど、おそらく、この死は、命を失うことよりも、古い体を脱ぎ捨てる自立の意味があるのではないか、と思うようになった。
それは、『さすらいの孤児ラスムス』を読んだときに、孤児院を逃げ出して自由を手に入れたラスムスと、古いからだを脱ぎ捨てて健康な体で、美しい国ナンギヤラで冒険に乗り出すカールとが、よく似ているように感じたせいだ。
ナンギヤラは平和な国。のはすだったが、実は、残酷な侵略者テンギルに苦しめられていた。ヨナタンとカールの兄弟は否応なく闘いに巻き込まれていく。それは自由を取り戻すための闘いだ。
寂しがり屋の小さなカールは兄の苦しみを知り、兄を助けるほどに成長する。
ナンギヤラでの兄弟の闘いは、主に二つのパーツに分けられると思う。
まずは、囚われた解放軍の指導者オルヴァルを助け出す冒険で、ヨナタンは(そしてカールも)ヒーローだった。
だけど、その後のテンギルとの決戦。それは戦争だった。沢山の人が亡くなった。自由のための尊い犠牲だっただろうか。
ヨナタンには耐えられなかった。
最後に迎えるのは再びの死だ。この死は、ナンギヤラの次の国、ナンギリマの入口だ、というが……。
最初の死(自立のための脱皮)と、最後に迎える死は、意味がちがうと思う。
ヨナタンとカールとが次の国ナンギリマに飛んだことは、『赤い鳥の国へ』の子どもたちが、彼らの後ろで閉めた扉に似ているように感じる。
『赤い鳥の国へ』の子どもたちが閉じた扉は、子どもを虐待する世界、それを見て見ぬふりをする世界に突き付けた激しい「ノー!」だったと思う。
同じように、カールとヨナタンは、ナンギヤラの扉をしめた。
ヨナタンは嘗て言った。「ここにはあってはならないような冒険があるんだ」と。
自分には決して人を殺すことはできない、と彼は言う。
「きみの命が危ない時でもかね?」と尋ねられて「うん、そんな時でも」と答えたヨナタンである。
「そしたら、悪が永遠に支配をつづけられることだろうよ」との意見は、ほんとうにそうなのだろうか。
カールは思う。「もしだれもがヨナタンのようだったら、悪なんてものはないだろう」と。これが、リンドグレーンが、『暴力は絶対だめ!』でいっていた「わたしたちが新しい人間になる必要がある」ということなのだろう。
どんなに尊い理想があったとしても、暴力は暴力、戦争は戦争、人殺しは人殺しだ。
リンドグレーンのいう『暴力は絶対だめ!』の「絶対」はこんなにも厳しい。
いたしかたないこともあるのだ、とか、平和のための闘いだ、などと言い訳しているうちに、この世から子どもだちは本当に消えてしまうかもしれない。
*この本、i岩波少年文庫版の感想は過去に書いていますので、今回の新しい感想を、『リンドグレーン作品集』(ハードカバー)版に、書きます。
美しさと勇敢さと優しさとを兼ね備えた兄ヨナタンと、ヨナタンを慕う病弱の弟のカール。カールを語り手にした、これは、少年のまま亡くなった兄弟の死後の冒険の物語だ。
私は、二人の死のことがずっとひっかかっていたのだけれど、おそらく、この死は、命を失うことよりも、古い体を脱ぎ捨てる自立の意味があるのではないか、と思うようになった。
それは、『さすらいの孤児ラスムス』を読んだときに、孤児院を逃げ出して自由を手に入れたラスムスと、古いからだを脱ぎ捨てて健康な体で、美しい国ナンギヤラで冒険に乗り出すカールとが、よく似ているように感じたせいだ。
ナンギヤラは平和な国。のはすだったが、実は、残酷な侵略者テンギルに苦しめられていた。ヨナタンとカールの兄弟は否応なく闘いに巻き込まれていく。それは自由を取り戻すための闘いだ。
寂しがり屋の小さなカールは兄の苦しみを知り、兄を助けるほどに成長する。
ナンギヤラでの兄弟の闘いは、主に二つのパーツに分けられると思う。
まずは、囚われた解放軍の指導者オルヴァルを助け出す冒険で、ヨナタンは(そしてカールも)ヒーローだった。
だけど、その後のテンギルとの決戦。それは戦争だった。沢山の人が亡くなった。自由のための尊い犠牲だっただろうか。
ヨナタンには耐えられなかった。
最後に迎えるのは再びの死だ。この死は、ナンギヤラの次の国、ナンギリマの入口だ、というが……。
最初の死(自立のための脱皮)と、最後に迎える死は、意味がちがうと思う。
ヨナタンとカールとが次の国ナンギリマに飛んだことは、『赤い鳥の国へ』の子どもたちが、彼らの後ろで閉めた扉に似ているように感じる。
『赤い鳥の国へ』の子どもたちが閉じた扉は、子どもを虐待する世界、それを見て見ぬふりをする世界に突き付けた激しい「ノー!」だったと思う。
同じように、カールとヨナタンは、ナンギヤラの扉をしめた。
ヨナタンは嘗て言った。「ここにはあってはならないような冒険があるんだ」と。
自分には決して人を殺すことはできない、と彼は言う。
「きみの命が危ない時でもかね?」と尋ねられて「うん、そんな時でも」と答えたヨナタンである。
「そしたら、悪が永遠に支配をつづけられることだろうよ」との意見は、ほんとうにそうなのだろうか。
カールは思う。「もしだれもがヨナタンのようだったら、悪なんてものはないだろう」と。これが、リンドグレーンが、『暴力は絶対だめ!』でいっていた「わたしたちが新しい人間になる必要がある」ということなのだろう。
どんなに尊い理想があったとしても、暴力は暴力、戦争は戦争、人殺しは人殺しだ。
リンドグレーンのいう『暴力は絶対だめ!』の「絶対」はこんなにも厳しい。
いたしかたないこともあるのだ、とか、平和のための闘いだ、などと言い訳しているうちに、この世から子どもだちは本当に消えてしまうかもしれない。
掲載日:
外部ブログURLが設定されていません
投票する
投票するには、ログインしてください。
いつまでも読み切れない沢山の本が手の届くところにありますように。
ただたのしみのために本を読める日々でありますように。
この書評へのコメント

コメントするには、ログインしてください。
書評一覧を取得中。。。
- 出版社:岩波書店
- ページ数:317
- ISBN:9784001150780
- 発売日:1976年07月09日
- 価格:2310円
- Amazonで買う
- カーリルで図書館の蔵書を調べる
- あなた
- この書籍の平均
- この書評
※ログインすると、あなたとこの書評の位置関係がわかります。






















