hackerさん
レビュアー:
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やっぱり、この本、好きになれません。
本書も、かもめ通信さん主催の「#やりなおし世界文学 読書会」で挙げられていた一冊です。実は、この本を最初に読んだのは、10代の時で、ということは半世紀以上前になるのですが、ちっとも面白くなかったというのが正直な感想です。ただ、この読書会で読んだ本には数十年ぶりに再読したものが少なくないのですが、初読の時とはずいぶん違った印象を受けたり、気がつかなかったことに気がついたり、というようなことも多かったため、期待と不安を込めて、本書を再読してみました。そして、結論から言うと、やっぱり好きになれませんでした。
よく知られた物語ですが、内容を簡単に言うと、「ぼく」ニック・アダムスが語る、別の男と結婚した、かって愛した女性デイズィが忘れられず、大金持ちになっても、彼女の住まいが見える場所に大邸宅を建て、夜な夜な彼女の注意を惹くために大パーティを開いている、ギャツビーという男の恋愛の顛末です。「ぼく」はデイズィの幼馴染で、彼女の家の隣に住んでいるので、二人の再会の橋渡しをギャツビーに頼まれるのです。
初読の時に気に入らなかった最大の理由は、ギャツビーに対してまったく感情移入できなかったからです。半世紀以上前の10代の男の子らしく、何とウジウジした、金持ちであることを鼻にかける嫌な奴だろうと思ったものです。
今回の第一印象は、なんと嫌な俗物ばかり登場するのだろうというものです。実は、ギャツビーは全体の三分の一を過ぎたあたりで登場し、デイズィとの再会を果たすのは、ほぼ半ばあたりなのですが、そこに至るまでが、特にひどいです。例えば、某登場人物のこんな台詞があります。
「(この本は)おれたちが警戒しなければだな、白人人種は、この―完全に沈没してしまうというんだな。科学的に書いたものなんだ。ちゃんと証明されているよ」
また、本書の99ページから102ページにかけて、ギャツビー宅を訪れる多くの人物名と簡単な紹介が描かれているのですが、そんなことをずらずら書いて意味があるのだろうか、と思ったりもしました。
実は、ヒロインであるデイズィも、そういう人間たちのお仲間です。こんなことを、「ぼく」に言います。
「あのね、ニック。あの娘が生まれたとき、あたしがなんて言ったか教えてあげる。(中略)(夫の)トムはどこにいるやらわかりゃしなかった。あたし、麻酔がさめたとき、とてもすてばちな気持ちでさ、さっそく看護婦さんに、男の子か女の子かってきいたんだ。そして、女の子だって言われて、顔をそむけて泣いちゃった。『いいわ、女の子でよかった』って、あたしはそう言った『ばかな子だったらいいな。女の子はばかなのが一番いいんだ、きれいなばかな子が』って。(中略)すれちゃったのよ―あたし、すごーくすれちゃった」
ちょっと興味深いのはデイズィの容姿についての描写がほとんどないことで、作者の生涯の恋人であったゼルダのイメージが強かったので、それは避けたのでしょうか。
そして、やはりギャツビーが好きになれませんでした。ニックにデイズィとの再会をアレンジしてもらうために、金銭の援助をほのめかしたりするのは、まったく気に入りません。豪華な自宅の内装をニックに説明する際も、こんなことを言います。
「あれを買う金を稼ぐのにちょうど3年かかりました」
デイズィへの気持ちや精神的内面がどうであれ、結局「金がすべて」の男ではないかと思ってしまうのです。そう思わせてしまう記述の一つを紹介します。
「ギャツビーは、富というものがいかに若さと神秘を守りこれを持続させるものであるか、衣装が多いということがいかに新鮮な感じを与えるものかを痛感し、デイズィが貧乏人の汗水流す苦闘などからは超然として誇らかに、銀のように輝いていることを痛切に意識させられたのである」
こういうキャラクタに、感情移入することは私にはできません。
書かれた時代が1925年ということで、1929年の大恐慌前の、空前の好景気に沸いた「狂乱の20年代」(日本のバブル期以上だったことでしょう)の真っ只中だということは考慮にいれたとしても、一種の恋愛譚で、主役の二人に感情移入できなくては、好きになるのは無理というものです。
この本が好きな方が多いのは承知していますが、こういうへそ曲がりもいるということで、ご容赦ください。
よく知られた物語ですが、内容を簡単に言うと、「ぼく」ニック・アダムスが語る、別の男と結婚した、かって愛した女性デイズィが忘れられず、大金持ちになっても、彼女の住まいが見える場所に大邸宅を建て、夜な夜な彼女の注意を惹くために大パーティを開いている、ギャツビーという男の恋愛の顛末です。「ぼく」はデイズィの幼馴染で、彼女の家の隣に住んでいるので、二人の再会の橋渡しをギャツビーに頼まれるのです。
初読の時に気に入らなかった最大の理由は、ギャツビーに対してまったく感情移入できなかったからです。半世紀以上前の10代の男の子らしく、何とウジウジした、金持ちであることを鼻にかける嫌な奴だろうと思ったものです。
今回の第一印象は、なんと嫌な俗物ばかり登場するのだろうというものです。実は、ギャツビーは全体の三分の一を過ぎたあたりで登場し、デイズィとの再会を果たすのは、ほぼ半ばあたりなのですが、そこに至るまでが、特にひどいです。例えば、某登場人物のこんな台詞があります。
「(この本は)おれたちが警戒しなければだな、白人人種は、この―完全に沈没してしまうというんだな。科学的に書いたものなんだ。ちゃんと証明されているよ」
また、本書の99ページから102ページにかけて、ギャツビー宅を訪れる多くの人物名と簡単な紹介が描かれているのですが、そんなことをずらずら書いて意味があるのだろうか、と思ったりもしました。
実は、ヒロインであるデイズィも、そういう人間たちのお仲間です。こんなことを、「ぼく」に言います。
「あのね、ニック。あの娘が生まれたとき、あたしがなんて言ったか教えてあげる。(中略)(夫の)トムはどこにいるやらわかりゃしなかった。あたし、麻酔がさめたとき、とてもすてばちな気持ちでさ、さっそく看護婦さんに、男の子か女の子かってきいたんだ。そして、女の子だって言われて、顔をそむけて泣いちゃった。『いいわ、女の子でよかった』って、あたしはそう言った『ばかな子だったらいいな。女の子はばかなのが一番いいんだ、きれいなばかな子が』って。(中略)すれちゃったのよ―あたし、すごーくすれちゃった」
ちょっと興味深いのはデイズィの容姿についての描写がほとんどないことで、作者の生涯の恋人であったゼルダのイメージが強かったので、それは避けたのでしょうか。
そして、やはりギャツビーが好きになれませんでした。ニックにデイズィとの再会をアレンジしてもらうために、金銭の援助をほのめかしたりするのは、まったく気に入りません。豪華な自宅の内装をニックに説明する際も、こんなことを言います。
「あれを買う金を稼ぐのにちょうど3年かかりました」
デイズィへの気持ちや精神的内面がどうであれ、結局「金がすべて」の男ではないかと思ってしまうのです。そう思わせてしまう記述の一つを紹介します。
「ギャツビーは、富というものがいかに若さと神秘を守りこれを持続させるものであるか、衣装が多いということがいかに新鮮な感じを与えるものかを痛感し、デイズィが貧乏人の汗水流す苦闘などからは超然として誇らかに、銀のように輝いていることを痛切に意識させられたのである」
こういうキャラクタに、感情移入することは私にはできません。
書かれた時代が1925年ということで、1929年の大恐慌前の、空前の好景気に沸いた「狂乱の20年代」(日本のバブル期以上だったことでしょう)の真っ只中だということは考慮にいれたとしても、一種の恋愛譚で、主役の二人に感情移入できなくては、好きになるのは無理というものです。
この本が好きな方が多いのは承知していますが、こういうへそ曲がりもいるということで、ご容赦ください。
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「本職」は、本というより映画です。
本を読んでいても、映画好きの視点から、内容を見ていることが多いようです。
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- 出版社:新潮社
- ページ数:262
- ISBN:9784102063019
- 発売日:1989年05月01日
- 価格:460円
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