千世さん
レビュアー:
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修道院で出会い、1人は院長となり、1人は修道院を脱走して流浪者となったナルチスとゴルトムント。全く異なる生き方をしながら、2人は互いを理解し愛し合うことで自己を見出します。ヘッセが描く自己実現の物語。
『知と愛』の原題は『ナルチスとゴルトムント』であるが、ナルチスは神学者であり哲学者で、知を象徴し、ゴルトムントは愛欲遍歴の彫刻家で、愛を象徴しているので、『知と愛』という邦訳名にしたと訳者は「解説」で書きます。
そんなナルチスとゴルトムントの出会いは、修道院の若き教師とその生徒としてでした。お互いに魅かれ合い、友情を育んだ2人でしたが、ナルチスはゴルトムントが自分とは全く違うタイプの人間で、修道院にいるべき人ではないことに早くから気づいていました。そしてゴルトムントは18歳のある日、愛欲のままに修道院を出て行きます。ゴルトムントの流浪者としての旅の始まりでした。
ヘッセの作品を読むと、よく「自己実現」という言葉が浮かびます。自分自身を見出し、自分らしく生きる。当たり前のようですが、その道を見出すのはいかに難しいことでしょう。私自身、親が敷いたレールの上を、違和感を抱きながらもなんとか歩こうとしていた子どもの頃をよく思い出します。そのレールを外れた先にある、もうひとつの道を見出すのにどれほど時間がかかったことでしょう。
ゴルトムントにその道を示してくれたのがナルチスでした。自分を修道院に入れた父ではなく、イヴの姿にも見紛うジプシーの母を求める道を。
しかし自由の先には、いくつもの罪とその代償があります。愛した女を捨て、自分の命を守るために人を殺し、常に生命の危険にさらされながら生きる流浪の旅。彫刻家として生きる道もあったのに、どうしてもそこにとどまることのできないゴルトムント。やっと腰を落ち着けるかと思えばまた出て行くその姿に、私は荒野に生きるネコを思い浮かべました(『荒野にネコは生きぬいて』)。あまりにも自分勝手な生き方で、それが幸せな人生なのかどうかはわかりません。しかし、彼の自己を実現した生き方であったことは間違いありません。
一方のナルチスは修道院にとどまり、ゴルトムントと再会したときは院長になっていました。ゴルトムントがいつかナルチスに会おうと考えていたように、ナルチスもゴルトムントの帰りを待っていたことでしょう。修道院の中で、ひたすら自分の感情を抑制して生きてきたナルチスが、本当の最後に感情を迸らせてゴルトムントに接する場面が印象的です。お互いあまりにも違うタイプであり、まったく異なる生き方をしながら、お互いを深く理解し愛し合える関係。お互いの生き方をうらやましく思う気持ちもあったことは間違いないでしょう。
ゴルトムントのような自由な生き方への憧れは、誰しも持っているものなのかもしれません。しかし実際にそんな生き方をすることはできません。かと言ってナルチスのように生きることもできません。だからこそその両面をそこそこ切り取って、バランスをとって生きているのが自分。それもまた、自分らしい生き方なのかもしれません。
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国文科出身の介護支援専門員です。
文学を離れて働く今も、読書はライフワークです。
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- 出版社:新潮社
- ページ数:495
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