hackerさん
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「諸君がこれをペストと呼ぶか、あるいは知恵熱と呼ぶかは、たいして重要なことではありません。重要なことは、ただ、それによって市民の半数を死滅させられることを防ぎとめることです」(本書主人公の台詞)
アルベール・カミュ(1913-1960)が1947年に発表した、おそらく『異邦人』(1942年)と並んで、最も有名な作品です。アルジェリアの港町オランで突如発生したペストを扱った小説ですが、細かい内容は他の方の書評でも詳しいので、拙文では特に触れません。ただ、新型コロナの世界的パンデミックを経験した後で、思うところを述べます。
まず、ペストについては、主人公リウー医師がこんなことを思います。
「歴史に残された約三十回の大きなペストは一億近い死亡者を出している、と彼は胸につぶやいた。しかし、一億も死亡者とは、いったいなんだろう。戦争に行って来た場合でも、一人の死者とは何であるかをすでに知っているかどうかあやしいくらいである。それに死んだ人間というものは、その死んだところを見ないかぎり一向重みのないものであるとなれば、広く史上にばらまかれた一億の死体など、想像の中では一抹の煙にすぎない」
よく言われることですが、この文でもペストと戦争を並べて語っていますし、本書におけるペストは、カミュ自身が経験した第二次大戦のような、不条理の権化のような戦争の象徴で、ラストの人間たちによるペストの克服は、第二次大戦に勝利した連帯の象徴であると解釈できます。ただし、本書の終わりで、ロックダウンが解消され、喜びに沸く市民を前にして、医師リウーは、こう述懐するのです。
「市中から立ち上がる喜悦の叫びに耳を傾けながら、リウーはこの喜悦が常に脅かされていることを思い出した。なぜなら、彼はこの歓喜する群衆の知らないでいることを知っており、そして書物のなかに読まれうることを知っていたからである―ペスト菌は決して死ぬことも消滅することもないものであり、数十年の間、家具や下着類のなかに眠りつつ生存することができ、部屋や穴倉やトランクやハンカチや反古のなかに、しんぼう強く待ち続けていて、そしておそらくいくつかは、人間に不幸と教訓をもたらすために、ペストが再びその鼡どもを呼びさまし、どこかの幸福な都市に彼らを死なせに差し向ける日が来るであろうことを」
戦争を象徴するペストについてのこの言葉は、絵本『あいたかったよ』(1993年)でも、戦争に行った主人公のお父さんが、こう語っています。
「せんそうは、けっして なくならない とおもうよ。おとなしくなることは あるんだけれど。だから、せんそうが、しずかに ねむっているときは、おこさないように、そっとして おかなくちゃ いけないんだ。みんなで、せんそうが、あばれはじめないように、きをつけていなければならないんだよ」
映画『ゴジラ-1.0』(2024年)でも、ラストで戦争の象徴であるゴジラは死んでいないことが示唆されていますし、本書のラストは、残念ながら、現代でも生きているのです。
また、本書では、ペスト=戦争という絶対悪に、主義主張を乗り越えて連帯する人々が描かれています。分かりやすい例としては、ペストは堕落したこの町へ下された神の罰である、というような演説をする神父が登場しますが、主人公はこう言います。
「私はあんまり病院のなかばかりで暮らしてきたので、集団的懲罰などという概念は好きになれませんね。しかし、なにしろ、キリスト教徒ってのは時々あんなふうなことをいうものです。実際には、そう思ってもいないんで。結局、外に表れたところよりはいい人たちなんですがね」
そして、この神父も、主人公たちの活動に、危険を承知でボランティアとして参加するのです。主人公は、こうも言います。
「われわれは一緒に働いているんです。冒涜や祈祷を超えてわれわれを結びつける何ものかのために。それだけが重要な点です」
たまたま町を訪れ、そこから脱出することばかり考えていたランベールという人物は「自分一人が幸福になるということは、恥ずべきことかもしれないんです」と言って、町に留まり、主人公を手伝う道を選ぶのです。
これと比べると、新型コロナが残したものは、分断であり対立であり虚偽情報の拡散でした。本書でも、それらは描かれていないわけではありません。例えば、感染を予防するというので、ハッカのドロップが薬局から消えてしまったりします。前述したように、無神論者である主人公とカトリック神父との意見の相違もあります。ただし、登場人物たちは、絶対悪の前では、それを乗り越えるべきだという意志を持っていました。我々が経験したパンデミックでは、そういう意志が人々の間で、少なくとも以前よりは薄くなってしまったように感じられます。それは、おそらく平時から、分断と対立と虚偽情報の拡散の中で、我々が生きているからだろうと思います。非常時にも、普段の発想からなかなか外れて考えられない人が多いことは、東北大震災の時に、個人的にも経験していますから。そういう意味で、今回の再読は、やや苦い読後感が残りました。残念ながら、半世紀前に本書を最初に読んだ時のような感動は、今や味わえなくなってしまったようです。
まず、ペストについては、主人公リウー医師がこんなことを思います。
「歴史に残された約三十回の大きなペストは一億近い死亡者を出している、と彼は胸につぶやいた。しかし、一億も死亡者とは、いったいなんだろう。戦争に行って来た場合でも、一人の死者とは何であるかをすでに知っているかどうかあやしいくらいである。それに死んだ人間というものは、その死んだところを見ないかぎり一向重みのないものであるとなれば、広く史上にばらまかれた一億の死体など、想像の中では一抹の煙にすぎない」
よく言われることですが、この文でもペストと戦争を並べて語っていますし、本書におけるペストは、カミュ自身が経験した第二次大戦のような、不条理の権化のような戦争の象徴で、ラストの人間たちによるペストの克服は、第二次大戦に勝利した連帯の象徴であると解釈できます。ただし、本書の終わりで、ロックダウンが解消され、喜びに沸く市民を前にして、医師リウーは、こう述懐するのです。
「市中から立ち上がる喜悦の叫びに耳を傾けながら、リウーはこの喜悦が常に脅かされていることを思い出した。なぜなら、彼はこの歓喜する群衆の知らないでいることを知っており、そして書物のなかに読まれうることを知っていたからである―ペスト菌は決して死ぬことも消滅することもないものであり、数十年の間、家具や下着類のなかに眠りつつ生存することができ、部屋や穴倉やトランクやハンカチや反古のなかに、しんぼう強く待ち続けていて、そしておそらくいくつかは、人間に不幸と教訓をもたらすために、ペストが再びその鼡どもを呼びさまし、どこかの幸福な都市に彼らを死なせに差し向ける日が来るであろうことを」
戦争を象徴するペストについてのこの言葉は、絵本『あいたかったよ』(1993年)でも、戦争に行った主人公のお父さんが、こう語っています。
「せんそうは、けっして なくならない とおもうよ。おとなしくなることは あるんだけれど。だから、せんそうが、しずかに ねむっているときは、おこさないように、そっとして おかなくちゃ いけないんだ。みんなで、せんそうが、あばれはじめないように、きをつけていなければならないんだよ」
映画『ゴジラ-1.0』(2024年)でも、ラストで戦争の象徴であるゴジラは死んでいないことが示唆されていますし、本書のラストは、残念ながら、現代でも生きているのです。
また、本書では、ペスト=戦争という絶対悪に、主義主張を乗り越えて連帯する人々が描かれています。分かりやすい例としては、ペストは堕落したこの町へ下された神の罰である、というような演説をする神父が登場しますが、主人公はこう言います。
「私はあんまり病院のなかばかりで暮らしてきたので、集団的懲罰などという概念は好きになれませんね。しかし、なにしろ、キリスト教徒ってのは時々あんなふうなことをいうものです。実際には、そう思ってもいないんで。結局、外に表れたところよりはいい人たちなんですがね」
そして、この神父も、主人公たちの活動に、危険を承知でボランティアとして参加するのです。主人公は、こうも言います。
「われわれは一緒に働いているんです。冒涜や祈祷を超えてわれわれを結びつける何ものかのために。それだけが重要な点です」
たまたま町を訪れ、そこから脱出することばかり考えていたランベールという人物は「自分一人が幸福になるということは、恥ずべきことかもしれないんです」と言って、町に留まり、主人公を手伝う道を選ぶのです。
これと比べると、新型コロナが残したものは、分断であり対立であり虚偽情報の拡散でした。本書でも、それらは描かれていないわけではありません。例えば、感染を予防するというので、ハッカのドロップが薬局から消えてしまったりします。前述したように、無神論者である主人公とカトリック神父との意見の相違もあります。ただし、登場人物たちは、絶対悪の前では、それを乗り越えるべきだという意志を持っていました。我々が経験したパンデミックでは、そういう意志が人々の間で、少なくとも以前よりは薄くなってしまったように感じられます。それは、おそらく平時から、分断と対立と虚偽情報の拡散の中で、我々が生きているからだろうと思います。非常時にも、普段の発想からなかなか外れて考えられない人が多いことは、東北大震災の時に、個人的にも経験していますから。そういう意味で、今回の再読は、やや苦い読後感が残りました。残念ながら、半世紀前に本書を最初に読んだ時のような感動は、今や味わえなくなってしまったようです。
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「本職」は、本というより映画です。
本を読んでいても、映画好きの視点から、内容を見ていることが多いようです。
この書評へのコメント
- hacker2025-01-19 11:50その通りですね。それと、やはりSNSの特徴である「知りたい情報にしかアクセスしない」という点が大きいのではないでしょうか。新聞では、知りたくない情報も目に入ってきますけど、SNSではそういうことはありません。それと、本来筆を費やせば、ボロが出てくるような嘘も、ツイッターが典型ですが、短い文章ですと、一種のスローガンの連呼のようになって、それに気づきにくいということもあると思います。ただ、「見ようとしなければ見えない。聞こうとしなければ聞こえない」ということは、昔からあるとは思います。 クリックすると、GOOD!と言っているユーザーの一覧を表示します。
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- 出版社:新潮社
- ページ数:476
- ISBN:9784102114032
- 発売日:1970年04月03日
- 価格:780円
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