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ゆうちゃん
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導入部に登場する語り手がシベリアで知り合ったある男の遺品から見つけたと称する手記。実際はドストエフスキーの獄中体験である。貴族出身の彼が監獄で一番苦しんだのは一般囚人から受ける疎外感だった。

※ネタバレ注意! 以下の文には結末や犯人など重要な内容が含まれている場合があります。

導入部における語り手がシベリアで知り合ったアレクサンドル・ペトローヴィチ・ゴリャンチコフと言う寡黙で人付き合いが嫌いな男の死後、その語り手が彼の遺品から発見した手記をまとめたと言う体裁で書かれた本である。題名の「死の家」とは監獄のことで、アレクサンドル・ペトローヴィチが収監されていた数年の体験記となっている(が、実際はドストエフスキー自身のシベリア・オムスク監獄での体験が書かれている)。
アキム(獄中でアレクサンドル・ペトローヴィチが親しくなった貴族出身の囚人)が色々心配りをしてくれたにもかかわらず、わたしはここが「死の家だ!」と思った(128頁)。


最初は収監されたわたし(アレクサンドル・ペトローヴィチ)の戸惑い、足枷をはめられ作業に慣れるまで、囚人たちの様子や人物像など。囚人となっても民衆と貴族に差があり、わたしは貴族だった。身の回りの世話を申し出てくれる囚人がいるのだが、貴族の囚人は決して民衆の囚人の中に入れず、ついに仲間になることはなかった。この疎外感は、本書を通じて各所に登場する。貴族の囚人もそれなりにいるし、わたしは外国人の囚人にも好意を持つが、貴族の囚人には一癖も二癖もある輩が多く、民衆とは別の意味でやはり心から打ち解けることはできなかった。外国人の囚人の中ではタタール人のアレイやポーランド人のBなどに好意を持ったようだ。最も仲良く愛情を注げたのは監獄で飼われている犬のシャーリックである。
それから監獄の中でのあれこれ。まず、驚くべきことに金がモノを言うこと。囚人は職能に応じて金を稼ぐ。どうも昼間の作業以外に夜は職人がモノを作ることを許されたり、作業の合間に町に出て行って仕事をすることが出来たりするらしい。中には酒を密輸する者までいて、その酒は獄内で販売され良い収入となる。貴族は差し入れがあるし、金を獄内に持ち込める。金は稼いだらいつ盗まれるかわからないので、使ってしまうのが良いとされる。
食事はそんなにひどいものではなく、わたしが見るところでは百姓の中には収監されて食うに困らなくなった者もいるようだ。しかし、ここの責任者の「少佐」は囚人を人と思わない鬼軍曹のような奴で囚人には嫌われている。気に入らない収監者や逆らう収監者は背中を笞打たれ、五百回とは千回という言葉が飛び交うし、獄内には笞打ちの「名人」もいる。
民衆出身の囚人でもペトロフは得体がしれない人物でありながら、何かとわたしに世話を焼いてくれた。彼は囚人の中でも怖がられる存在で、これはわたしにはありがたかった。命知らずのルーチカ、バクルーシン、滑稽なユダヤ人囚人のイサイ・フォミーチなどの話も出て来る。それからクリスマスの時期の入浴、演劇の行事、病気になった囚人が収監される病院での話、昼間が長い夏の苦しい過酷な労働、検察官で将軍である高官の巡視に伴う騒ぎなど。巡視の時だけは少佐も棒を飲んだように背筋を伸ばす。監獄で飼われている馬や紛れ込んだ山羊など動物たちが慰めになることや、報われない囚人たちの抗議活動、果たせなかった逃亡者の話、そしてわたしの出獄まで。

本書は小説に名を借りた体験記・ドキュメンタリーの様であり、ドストエフスキーの小説とはかなりかけ離れた印象を持つ。元々は、「妻殺しの男の苦悩に満ちた恐ろしい物語」とセットで構想されたようだが、本書だけでも500頁近いため、もしそうなら、かなり長く焦点ボケした小説になったかもしれない。結局、手記の著者アレクサンドル・ペトローヴィチが何故収監されたのかはわからないままとなっており、本書は監獄での見聞に特化している。監獄と言っても、現代のものとは相当異なり、夜は閉じ込められるものの作業は外だし、差し入れや町の人との交流などもあるようだ(中には獣医がいて、町の獣医より腕がよく、囚人の獣医が町の馬の診療をしたとも)。また収監の思想に矯正という概念などはない。
監獄や強制労働の制度が犯罪者を矯正するものでないことは、言うまでもない。それらの制度は犯罪者を罰して、今度凶悪な犯人にその安寧をおびやかされることのないように、社会を保護するだけである(24頁)。

ここに登場する囚人たちはいかにもドストエフスキーの小説に登場しそうな人物たちである。何を考えているのかわからない者、破滅的な行動をとる者、ふたつばかり囚人が収監された事情が物語られる(結婚を誓った娘が自分を見限り、その娘が新しく結婚をする筈の男を撃ち殺したバクルーシン、妻を殺したシシコフ)。これは「わたし」が聞いた実話ではないかと思われるが、これらの犯罪は通り一遍の犯罪ではなく背景からしていかにもドストエフスキー的である。
収監された「わたし」の一番の負担は疎外感、精神的なもののようだ。強制された共同生活という言葉も登場する。しかも「わたし」を疎外した民衆は、悪意や意地悪でそうするのではなく、無意識にするのだった。
わたしが(囚人たちの)抗議(行動)に加わる必要性を彼(抗議をしている民衆出身の囚人のひとり)は認めず、わたしが「仲間として」加わると言い出すと「でも・・・あなた方がわたしたちのどんな仲間なんです?」と言いだす始末だった(408頁)。

しかし、手記の著者は貴族であり、作業も重たくなく、また手記の著者自身が笞打ちになったことはない。そういう意味では、疎外感と肉体的苦痛が同じ秤にかけられた訳ではない。一方で、著者は笞打ちという罰を引き延ばすための囚人の不合理な行動を盛んに書いているが、これは笞打ちそのものよりも笞打ちに遭うだろうと言う恐怖心を描いている。笞打ちの罰を受けて「さっぱりした」様子の囚人もおり、この辺の描写が肉体的苦痛は精神的苦痛に比較して軽いと言っているような感じも受ける。
自分は前後してしまったが、本書はドストエフスキーの小説を読むうえで最初に読んでおいて良い小説ではないかと思った。初期の作品とは言えないものの、五大長編が書かれる前に脱稿している。トルストイも自分の体験を織り交ぜた幼年時代から青年時代までの三部作があるが、これも体裁を小説に借りた体験記と言え、それらを読んだときも同じように最初に読んでおけばと思った。作家にとって体験とは作品を作るうえで如何に大切なものかわかる本だと思われる。
本書は、後に文壇では対立するツルゲーネフやトルストイからも絶賛されたとのこと。トルストイは「復活」を書く上で本書を読み返したと解説にあった。
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ゆうちゃん
ゆうちゃん さん本が好き!1級(書評数:1683 件)

神奈川県に住むサラリーマン(技術者)でしたが24年2月に会社を退職して今は無職です。
読書歴は大学の頃に遡ります。粗筋や感想をメモするようになりましたのはここ10年程ですので、若い頃に読んだ作品を再読した投稿が多いです。元々海外純文学と推理小説、そして海外の歴史小説が自分の好きな分野でした。しかし、最近は、文明論、科学ノンフィクション、音楽などにも興味が広がってきました。投稿するからには評価出来ない作品もきっちりと読もうと心掛けています。どうかよろしくお願い致します。

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