本気で作家になりたければ漱石に学べ!―小説テクニック特訓講座中級者編
漱石を「小説の先生」として捉え、漱石のテクストに用いられている小説技法を解説する。作家になりたい人でなくとも、より深く小説を味わうための読み方を得るためにもこの本は使える。
本が好き! 2級
書評数:127 件
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趣味は古本屋巡りです。
漱石を「小説の先生」として捉え、漱石のテクストに用いられている小説技法を解説する。作家になりたい人でなくとも、より深く小説を味わうための読み方を得るためにもこの本は使える。
漱石23歳の明治22(1889)年から漱石が亡くなる50歳の年の大正5(1916)年までの書簡が年順に158通まとめられている。漱石の思想の流れを読むことができ、また漱石の人柄もうかがえる。警句も多い
日本の文明開化は、西洋の外圧によって強いられたものであった。本書では、その悲劇に思い悩む漱石の肉声を、講演録、日記、書簡、そのほか断片によって聞くことが出来る。
「吾輩は猫である。名前はまだ無い。」というあまりに有名な書き出しを知っているだけで満足し、本編を読もうとしないのは日本人としてもったいないことである。腹を抱えて笑うこと請け合いである。
五七五から成る俳句の定型の意義、季語の意味、短歌や川柳との相違、俳句の歴史、俳句の技術などの解説がなされ、そのあとに俳句をつくるための吟行のしかたが紹介されている。入門書としてお勧め。
ちょっと不思議な5つの物語。日常の些細な事柄も非日常の世界へと通じうることを読者へ示唆する、著者のたくらみを感じた。
文明開化によって日本人は自由と独立を得たものの、その結果みな自己本位の道を突き進むことを余儀なくされる。「先生」は自己本位の孤独と淋しみのなかで懊悩する。近代日本人の悲劇のかたち。
現実にはなかなかいそうもない実直で生一本の人「坊っちゃん」と、現実にはうじゃうじゃいるであろう知識を薄汚く使い姦計を謀る「赤シャツ」や「野だいこ」のような人間との対決の物語。結末が痛快。
『硝子戸の中』などでは見ることの出来なかった漱石の暗い部分を映し出した自伝的小説。本当に自伝的小説であるならば、ここに描かれている自己批評の冷静な視線が凄いと思う。
自己の孤独な世界から抜け出る為に、漱石は登場人物一郎の言葉を借りて、神の、絶対の、自他の無い世界へと進もうとするが、そうするほどにその世界は遠ざかる。自意識に溺れ行き場の無い近代の人間の彽徊が描かれる
自意識の穴倉のなかで混迷する須永やそれをとりまく人々の物語が、友人敬太郎の探偵的視点によって語られる。物語は展開すれど出口はなく、彽徊するのみ。
人と人との間には、時間の隔たりや空間の隔たりがあり、人はその隔たりを超えて交歓可能なのだろうか。作中人物たちはずっとそういうことを考えている。読みながらおのずと考えさせられる一作。
偏屈な人間にだけはなりたくないという偏屈な考えを持っていた町田少年は、結局のところ偏屈な大人になってしまったが故に、その偏屈を解放するがためにさまざまな偏屈なことを試みた。爆笑必至のエッセイ集。
ひとつの問いを一貫して追求する思考の試みとしての9編の散文。その問いとは、今ここに生きている私という存在が、私が生まれる以前の者たちや、私自身の過去の記憶、私の死といかにして繋がりうるのかというもの。
生を超えて、死を超えて、すべてが曖昧に繋がっている。生々しい、ぬらりとした触手に絡めとられて、抵抗のしようもなく面妖な世界に読者は引きずり込まれる。
表題作「生きる歓び」と「小実昌さんのこと」を収める短編。著者の生活で実際に起きた事実について偽りなく書いている「小説」。
表題作「生きる歓び」と「小実昌さんのこと」を収める短編。著者の生活で実際に起きた事実について偽りなく…
儚い、脆い、危うい、そんな言葉が相応しい、老年紳士ともう若くはない独身女性の淡い恋が描かれる。一向に満たされない二人が交わるためには「中間のようなところ」に行くしかなかった。「中間のようなところ」とは
漱石の「真面目に生きる」という哲学の表明か?「真面目とはね、君、真剣勝負の意味だよ。遺っ付けるの意味だよ。遺っ付けなくちゃいられない意味だよ。人間全体が活動する意味だよ。」
「こんな夢を見た」で始まる有名な「夢十夜」と、「文鳥」「永日小品」を収める小品集。漱石という人を見つめるに好適な作品集となっていると思う。「夢十夜」を読んだら、内田百閒の「冥途」もあわせて読みたい。
浮世を離れ非人情の旅をする青年画家は、山の上の温泉場にて妖艶な美女那美と出会う。漱石の持つ深い漢文の造詣によって織り成された絵画的小説。詩、音楽、絵、彫刻など、芸術とは何かを考えるにも役立つ