素通堂さん
レビュアー:
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カモメとは、自由という無限の思想である。
これは一風変わったカモメの物語です。
ふつう、カモメは食べるために空を飛びます。ところがジョナサンは違います。彼にとっては飛ぶことの方が食べることよりも重要なのです。
そんなジョナサンは、空気を読まない変人、じゃなくて変カモメですから、やがて群れから追い出されることになり、一人で飛ぶことを究めようとします。
するとそこに同じような仲間が現れ、師と呼べる存在と出会います。
師に導かれて飛ぶことを究めたジョナサンは、しかし師に言われます。
「君はもっと人を愛することを学ばなければいけない」と。
ジョナサンは群れに戻ります。群れに戻り、群れの中で自分と同じように食べることよりも飛ぶことを重要だと思っているカモメたちに、空を飛ぶことを教えるのです。
この物語はまるで宗教のようだ、と感じるかもしれません。たとえば聖書のキリストの話にも、よく似ています。
でも、僕の考えはちょっと違います。
これは「自由」の物語なのです。では、「自由」とはなにか。
「自由」とは、どこかの方角に向かって立つようなもの。
西に向かって立てば太陽は背後から昇るし、東に向かって立てば太陽は目の前から昇ります。そこにどちらが正しい、ということはありません。
西を向けば暗くなるし、東を向けば眩しくなります。それでも目は一方向にしかついてないので、暗さか眩しさかどちらかを我慢するしかないのです。
この物語の中で、なぜジョナサンは群れに帰って行ったのでしょうか。それは彼の教えを広めるため、飛ぶことよりも食べることの方が大切だと思っているカモメたちを改心させるためではありません。
飛ぶことの方が大事なカモメ達と、食べることの方が大事なカモメ達が、それぞれ自分たちだけの群れをつくってお互いを否定し合うことよりも、どちらも同じ群れの中にいる、ということが大切だからなのです。
自由であるということは、自分が正しい、と主張することではありません。自分が間違っているかもしれない、ということを受け入れることです。そして100パーセントうまくいくことなんて何もない、ということを知ることなのです。
かつて殺害されたオウム真理教の幹部が出家する際に「僕の心はここにある」と言ってこの本を家族に渡した、というニュースを聞いて、僕は本当に嫌な気持ちになりました。この物語を読んで、どうして宗教に帰依しようなんて思うのか、と。
自由であるということは、何も信じないという態度です、神はもちろんのこと、自分のことすらも。
だからこそ、自分と違う考え方であってもまず認める、ということが自由の絶対条件なのです。
信者になるくらいならお前が教祖になれよ、この物語はそう言っているですから。
そしてまた、自由とは「自分のやりたいことをやる」ことではありません。
もしも西を向くなら暗さを、東を向くならば眩しさを受け入れる、そういう責任ある態度のことです。
ジョナサンは「食べることのために飛ぶのではなく、ただ飛ぶことが好きだから飛ぶんだ」と思いました。
だからジョナサンは飢えに苦しむことになりました。それを受け入れる覚悟があったからこそ、彼は自分の自由を押し通すことができたのです。
「自由」って本当に必要なものでしょうか?
「自由な方がいい」なんて、本当にそう思いますか?
でも「自由」であることは、本当はとてもつらいし、苦しいことです。
誰かの言いなりになって、誰かの言葉を信じて、言いなりになっていた方が、ずっとずっと楽なのですから。
だけど、それでも、「自由」でありたいと願う人のためにこの物語はある。
この物語の導く先が光輝く未来なんかじゃなく、誰よりも苦しまなければならない、いばらの道だったとしても。
ふつう、カモメは食べるために空を飛びます。ところがジョナサンは違います。彼にとっては飛ぶことの方が食べることよりも重要なのです。
そんなジョナサンは、空気を読まない変人、じゃなくて変カモメですから、やがて群れから追い出されることになり、一人で飛ぶことを究めようとします。
するとそこに同じような仲間が現れ、師と呼べる存在と出会います。
師に導かれて飛ぶことを究めたジョナサンは、しかし師に言われます。
「君はもっと人を愛することを学ばなければいけない」と。
ジョナサンは群れに戻ります。群れに戻り、群れの中で自分と同じように食べることよりも飛ぶことを重要だと思っているカモメたちに、空を飛ぶことを教えるのです。
この物語はまるで宗教のようだ、と感じるかもしれません。たとえば聖書のキリストの話にも、よく似ています。
でも、僕の考えはちょっと違います。
これは「自由」の物語なのです。では、「自由」とはなにか。
「自由」とは、どこかの方角に向かって立つようなもの。
西に向かって立てば太陽は背後から昇るし、東に向かって立てば太陽は目の前から昇ります。そこにどちらが正しい、ということはありません。
西を向けば暗くなるし、東を向けば眩しくなります。それでも目は一方向にしかついてないので、暗さか眩しさかどちらかを我慢するしかないのです。
この物語の中で、なぜジョナサンは群れに帰って行ったのでしょうか。それは彼の教えを広めるため、飛ぶことよりも食べることの方が大切だと思っているカモメたちを改心させるためではありません。
飛ぶことの方が大事なカモメ達と、食べることの方が大事なカモメ達が、それぞれ自分たちだけの群れをつくってお互いを否定し合うことよりも、どちらも同じ群れの中にいる、ということが大切だからなのです。
自由であるということは、自分が正しい、と主張することではありません。自分が間違っているかもしれない、ということを受け入れることです。そして100パーセントうまくいくことなんて何もない、ということを知ることなのです。
かつて殺害されたオウム真理教の幹部が出家する際に「僕の心はここにある」と言ってこの本を家族に渡した、というニュースを聞いて、僕は本当に嫌な気持ちになりました。この物語を読んで、どうして宗教に帰依しようなんて思うのか、と。
自由であるということは、何も信じないという態度です、神はもちろんのこと、自分のことすらも。
だからこそ、自分と違う考え方であってもまず認める、ということが自由の絶対条件なのです。
信者になるくらいならお前が教祖になれよ、この物語はそう言っているですから。
そしてまた、自由とは「自分のやりたいことをやる」ことではありません。
もしも西を向くなら暗さを、東を向くならば眩しさを受け入れる、そういう責任ある態度のことです。
ジョナサンは「食べることのために飛ぶのではなく、ただ飛ぶことが好きだから飛ぶんだ」と思いました。
だからジョナサンは飢えに苦しむことになりました。それを受け入れる覚悟があったからこそ、彼は自分の自由を押し通すことができたのです。
「自由」って本当に必要なものでしょうか?
「自由な方がいい」なんて、本当にそう思いますか?
でも「自由」であることは、本当はとてもつらいし、苦しいことです。
誰かの言いなりになって、誰かの言葉を信じて、言いなりになっていた方が、ずっとずっと楽なのですから。
だけど、それでも、「自由」でありたいと願う人のためにこの物語はある。
この物語の導く先が光輝く未来なんかじゃなく、誰よりも苦しまなければならない、いばらの道だったとしても。
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twitterで自分の個人的な思いを呟いてたら見つかってメッセージが来て気持ち悪いのでもうここからは退散します。きっとそのメッセージをした人はほくそ笑んでいることでしょう。おめでとう。
今までお世話になった方々ありがとうございました。
この書評へのコメント
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- 出版社:新潮社
- ページ数:140
- ISBN:9784102159019
- 発売日:1977年05月01日
- 価格:500円
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