ゆうちゃんさん
レビュアー:
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少女を踏みつけて泣いていても平気で通り過ぎるハイドと言う男。そんな彼が、慈善活動で有名なジーキル博士と意外な縁があることが発端の怪事件
こちらも「やりなおし世界文学」の一冊。本書も三十年ぶりくらいに再読してみた。最後の方にジーキル博士の告白があって、人間性というものを論じた小説のように読めるが、そこに至る章(最初の「戸口の話」から「最後の夜」)までは推理小説の問題編、最終章の「ラニョン博士の手記」が解決編の推理小説の様にも読める。
主な登場人物は、弁護士のアッタスン、慈善活動で有名なジーキル博士、医師のラニョン博士、ジーキル博士の召使いのプール、ジーキル博士の相続人のハイドである。この中でアッタスン、ジーキル博士、ラニョン博士は若い頃からの知り合い、プールもアッタスンやラニョン博士を自分の仕える主人の親しい友人と認識している。
アッタスンは、これまたアッタスンの親友であるエンフィールド氏と日曜の午後によく一緒に散歩するがエンフィールドは散歩の途中である戸口に来て自分が深夜に目撃した話をする。エンフィールドは、深夜3時、ある男が8,9歳くらいの少女を踏みつけ、彼女が泣いているにも関わらずそのまま通り過ぎるのを見つけ捕まえた。彼は、何とも言いようもない邪悪な表情をし、その場にいた全員がそう感じる顔の男だった。結局、その男が賠償を払うと言うことになり、その戸口にやって来た。一部現金、一部小切手でその小切手の振出人は慈善活動で有名なさる高名な人物だった。エンフィールドは、男が小切手の振出人を騙っていると思い、そう指摘したのだが、その男は、銀行が開くまで一緒に居ようと言う。そして小切手は適正に処理された。エンフィールドは、振出人の名は明かさなかったが、少女を踏みつけた残酷な男の名はハイドと言った。アッタスンはこれで振出人の名の見当がついた。実は、アッタスンは、ジーキル博士から、自分が失踪もしくは死亡した時に遺産をハイドと言う男に相続させるようにと言う遺言書を預かっていた。従来、アッタスンは、ハイドと言う男の素性を知らないのでこんな遺言書を預かることが迷惑だったのだが、ハイドと言う男の行為を知った以上、こんな遺言書を持っていることに嫌悪を感じた。アッタスンは、ラニョン博士にジーキル博士の具合を聞くと、突飛なことを言い出す人間になっているので、最近は没交渉だという。アッタスンはジーキル博士を訪ね、ジーキル博士からハイドなる人物と手を切ると誓われて、この事件はこれで終わった。
1年後、ダンヴァーズ・カルー卿が道で殴打され殺される事件が発生した。この事件には目撃者がいて犯人はハイドと思しき男だった。そのうち、アッタスンは、例の戸口のある家がジーキル博士の家と背中合わせになっていることに気づいた。アッタスンは、ある年の1月8日にジーキル博士の晩餐に呼ばれラニョン博士とも会って旧交を温めた。しかし、その後ジーキル博士はアッタスンともラニョン博士とも面会を断るようになった。ある晩、アッタスンのところにプールが来て主人の様子がおかしいという。プールはジーキル博士が殺され、下手人はハイドではないかと言い出す。プールの要請でアッタスンはジーキル博士の家に駆けつけるのだが、そこで見た実態は・・・。
このように読んでいくと殺人事件の謎解きのように読める。出版されたのは1886年で、ポーやルコックの古典的な名探偵は世に出ていた。ただ訳者解説では、著者のスティーヴンスンは人間の二面性を主題に幾つも小説を書いているとあった。やっぱり人間を主題にした純文学なのかなとも思う。「南海千夜一夜物語」や「新アラビア夜話」などスティーヴンスンの作品を幾つか読んでいるが、エンターテインメント要素も多く、推理小説のように読ませるのかもしれない。
小説に登場する究極の善人と言うと、自分は例えば山崎豊子の「白い巨塔」の里見助教授などを思いだすが、こういう人間はどこか実態が無いように見えるし、そんな人を主人公にしてもつまらない(「白い巨塔」に即していえば、その主人公は、里見助教授ではなく、悪辣な手腕で教授の座を獲得する財前助教授であり、彼の方が生き生きとして魅力的な人物に描かれている)。人間とは本来、善悪の二面性があり、自分も含めそういう点に折り合いをつけて生きている。そんな点を赤裸々に述べたのがこの小説の最終章のジーキル博士の告白である。この部分は、名作と言われるだけあってこの二面性について非常に読ませる作品となっていると思う。
主な登場人物は、弁護士のアッタスン、慈善活動で有名なジーキル博士、医師のラニョン博士、ジーキル博士の召使いのプール、ジーキル博士の相続人のハイドである。この中でアッタスン、ジーキル博士、ラニョン博士は若い頃からの知り合い、プールもアッタスンやラニョン博士を自分の仕える主人の親しい友人と認識している。
アッタスンは、これまたアッタスンの親友であるエンフィールド氏と日曜の午後によく一緒に散歩するがエンフィールドは散歩の途中である戸口に来て自分が深夜に目撃した話をする。エンフィールドは、深夜3時、ある男が8,9歳くらいの少女を踏みつけ、彼女が泣いているにも関わらずそのまま通り過ぎるのを見つけ捕まえた。彼は、何とも言いようもない邪悪な表情をし、その場にいた全員がそう感じる顔の男だった。結局、その男が賠償を払うと言うことになり、その戸口にやって来た。一部現金、一部小切手でその小切手の振出人は慈善活動で有名なさる高名な人物だった。エンフィールドは、男が小切手の振出人を騙っていると思い、そう指摘したのだが、その男は、銀行が開くまで一緒に居ようと言う。そして小切手は適正に処理された。エンフィールドは、振出人の名は明かさなかったが、少女を踏みつけた残酷な男の名はハイドと言った。アッタスンはこれで振出人の名の見当がついた。実は、アッタスンは、ジーキル博士から、自分が失踪もしくは死亡した時に遺産をハイドと言う男に相続させるようにと言う遺言書を預かっていた。従来、アッタスンは、ハイドと言う男の素性を知らないのでこんな遺言書を預かることが迷惑だったのだが、ハイドと言う男の行為を知った以上、こんな遺言書を持っていることに嫌悪を感じた。アッタスンは、ラニョン博士にジーキル博士の具合を聞くと、突飛なことを言い出す人間になっているので、最近は没交渉だという。アッタスンはジーキル博士を訪ね、ジーキル博士からハイドなる人物と手を切ると誓われて、この事件はこれで終わった。
1年後、ダンヴァーズ・カルー卿が道で殴打され殺される事件が発生した。この事件には目撃者がいて犯人はハイドと思しき男だった。そのうち、アッタスンは、例の戸口のある家がジーキル博士の家と背中合わせになっていることに気づいた。アッタスンは、ある年の1月8日にジーキル博士の晩餐に呼ばれラニョン博士とも会って旧交を温めた。しかし、その後ジーキル博士はアッタスンともラニョン博士とも面会を断るようになった。ある晩、アッタスンのところにプールが来て主人の様子がおかしいという。プールはジーキル博士が殺され、下手人はハイドではないかと言い出す。プールの要請でアッタスンはジーキル博士の家に駆けつけるのだが、そこで見た実態は・・・。
このように読んでいくと殺人事件の謎解きのように読める。出版されたのは1886年で、ポーやルコックの古典的な名探偵は世に出ていた。ただ訳者解説では、著者のスティーヴンスンは人間の二面性を主題に幾つも小説を書いているとあった。やっぱり人間を主題にした純文学なのかなとも思う。「南海千夜一夜物語」や「新アラビア夜話」などスティーヴンスンの作品を幾つか読んでいるが、エンターテインメント要素も多く、推理小説のように読ませるのかもしれない。
小説に登場する究極の善人と言うと、自分は例えば山崎豊子の「白い巨塔」の里見助教授などを思いだすが、こういう人間はどこか実態が無いように見えるし、そんな人を主人公にしてもつまらない(「白い巨塔」に即していえば、その主人公は、里見助教授ではなく、悪辣な手腕で教授の座を獲得する財前助教授であり、彼の方が生き生きとして魅力的な人物に描かれている)。人間とは本来、善悪の二面性があり、自分も含めそういう点に折り合いをつけて生きている。そんな点を赤裸々に述べたのがこの小説の最終章のジーキル博士の告白である。この部分は、名作と言われるだけあってこの二面性について非常に読ませる作品となっていると思う。
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神奈川県に住むサラリーマン(技術者)でしたが24年2月に会社を退職して今は無職です。
読書歴は大学の頃に遡ります。粗筋や感想をメモするようになりましたのはここ10年程ですので、若い頃に読んだ作品を再読した投稿が多いです。元々海外純文学と推理小説、そして海外の歴史小説が自分の好きな分野でした。しかし、最近は、文明論、科学ノンフィクション、音楽などにも興味が広がってきました。投稿するからには評価出来ない作品もきっちりと読もうと心掛けています。どうかよろしくお願い致します。
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- 出版社:
- ページ数:0
- ISBN:B009AKMS3I
- 発売日:2012年09月13日
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