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shawjinnさん
shawjinn
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美味しいという感覚を当たり前のように楽しめる、このちょっとした奇跡への感謝。
角​川​文​庫​夏​フ​ェ​ア​2​0​2​5​に​挑​戦​!参加レビューです。

東京と神奈川に店舗を展開する洋食専門チェーン店に勤める南雲みもざ。浅草雷門通り店の店長をしている。ある日、借りているマンションの真上の部屋が火事を起こして、消火活動の結果、自分の部屋も水浸しになってしまった。そこで、職場に頼んで、かつての社員寮、今はすっかり備品置き場になっている建物に住まわせてもらうことに。

その建物のすぐ近くにあって、午後9時から翌朝7時までやっているフレンチの店「キッチン常夜灯」が主な舞台である。オーナーシェフの城崎恵(きのさき けい)と、ソムリエの堤千花(つつみ ちか)の二人でやっている。二人とも、同じ第一級のフランス料理店の出身で、出てくる料理も、とても美味しそう。たとえば、牛ホホ肉の赤ワイン煮は、こんな感じである。

赤ワインとフォンドヴォー、牛肉の旨みが溶け出した芳醇な香りが皿から立ち上っている。ダウンライトを浴びて輝く黒に近い茶褐色のソースは、まるでビロードのように滑らかだ。一緒に煮込まれたのはマッシュルームと小タマネギ。横にはたっぷりのジャガイモのピュレが添えられている。ナイフを入れた瞬間、肉のあまりのやわらかさに驚いた。口に入れるとほろほろとほぐれる。

いつもスープだけを注文している熊坂奈々子さんの身の上話や、この店が誕生した経緯、城崎シェフのお母さんの話等々は、本編を参照してもらうとして、ここでは、みもざさんの勤める洋食専門チェーン「ファミリーグリル・シリウス」の話を。ハンバーグとドリアが人気メニューで、本格的な味を謳っているが、セントラルキッチンで仕込まれた料理を各店で仕上げて提供しているだけである。

その仕上げも主にバイトがやっているのだから、セントラルキッチンで作られる料理がいかに優秀かがわかる。定番のメニューしかない割にいつも賑わっているのは、当たり前の洋食ほど人気があるということであろう。

これは、けっして馬鹿にしたものではなくて、「キッチン常夜灯」と「ファミリーグリル・シリウス」では、売っているものが違うのだ。「キッチン常夜灯」の売りは、卓越した技能を持った料理人が、その手腕を駆使してつくる美味しい料理と、深夜営業による秘密基地感である。その一方で、「ファミリーグリル・シリウス」の売りは、入店のしやすさと同一品質が生み出す安心感である。

たとえば、サイゼリヤの各店舗には、ガスレンジもフライヤーも包丁もないといわれている。セントラルキッチンから配達される料理を温めて、美味しそうに盛り付けるのが、各店舗の仕事である。このように徹底的に効率化されているからこそ、手頃な価格で、人気のイタリア料理を提供できるのだ。「ファミリーグリル・シリウス」も同じである。ただ、ハンバーグは各店舗で焼いているようだが。

「美味しい」を生み出すときに、風味や食感は非常に重要である。食べる直前に焼くことによって、メイラード反応を起こして、香ばしい風味を出す。これだけでも、だいぶ違う。このあたりは、手頃で美味しい料理をどう設計するかであろう。たとえば、瓶詰めの鮭フレークで鮭おにぎりをつくるよりも、生の鮭をグリルで焼いてからほぐして鮭おにぎりをつくる方が、圧倒的に美味しい。それは、香りも違うし、不揃いな身の大きさによる食感の違いも楽しいからなのだろう。

美味しいという感覚は不思議である。気持ちのおもむくままに美味しいものを食べ続けて、肥満や糖尿病や痛風になることもあるし、逆に、毎日同じものを食べる喜びという感覚もある。

また、元々、酸味は腐敗を感知するために、そして、苦味は毒を感知するために発達したといわれている。それでも、学習によって、馴染みの食材が、腐敗していないことや、毒ではないことがわかると、それが美味しさという感覚にシフトする。うーん、どうなってるんだ?

そういうわけで、美味しいという感覚には、謎の部分の占める割合が大きい。正直、聴覚や視覚の方が、物理や数学といった脳の外部にある解析手段が通用する範囲が大きいので、わかりやすいと思う。音波や電磁波の特性よりも、化学物質の相互作用の方が複雑だし、そのうえ、脳の中で何が起きているのかもよくわからない。

それでも、美味しいという感覚を当たり前のように楽しめる、このちょっとした奇跡に感謝したい。
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shawjinn
shawjinn さん本が好き!1級(書評数:85 件)

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